36 嵐の前の静寂
囲炉裏の火は、揺らめきながら燃えている。火だけ見ていれば、いつもの夜だ。でも、この宿の外の四隅には、煌々と篝火が燃え盛っている。そして、呪術使いが見ればわかる様々な守護陣。風、水、火、土…あらゆる精霊の加護を得られるよう、玄徳とハルンツが知っている限りの呪術を施してある。全て、妖の存在である妖獣と妖星に対する措置だ。
「ハルンツ、そなたは寝ていろ」
「玄徳さんこそ。さっき陳さんを強引に寝かしつけてから、水を足しましたか?火事になりますよ」
火の番をしていた玄徳に、ハルンツが土間から汲み置きしておいた水を汲みながら答える。囲炉裏で湯気を立てる鉄瓶の残りが、あまりない事に気付いていた。おそらく、玄徳は空焚きなるものを知らないのだろう。枯れ枝を火にくべていても、水は足していなかった。慣れた手つきで、焼けた鉄瓶の蓋を火箸で取り、水を注いでいく。案の定、猛烈な湯気が囲炉裏に立ち上る。
「そ、そうか…水を足さねばならぬのか。礼を言う」
「礼はいいですから。玄徳さん、休んでください」
「こんな夜に休めるか。そなたこそ休めと言っている」
「寝れませんよ…。大体、玄徳さんが休まなきゃ、陳さん達警備の人は休みにくいと思いますけど」
「今、彼らに出来る事はない。ならば、肝心の時まで休むのが理に適っている」
胸を張って言う玄徳に、ハルンツは苦笑する。いつも威厳があり、まともな考え方をしている玄徳が、時々子供っぽく見えてしまう。確かに、妖のモノに対抗できる呪術に長けた玄徳が起きているのは間違っていない。けど、彼らの役目は玄徳を守る事。玄徳が起きている限り、彼らは休めない。現に、隣の部屋で布団に包まる彼らは革の装具を纏ったまま。義仁も、マダールの横で、肘枕で手にのせた頭を大きく揺らしながら浅い眠りのようだ。
「なら、ボクも起きていていいですね。玄徳さんほどではないけど、呪術が出来ますから」
「むっ…勝手にするがよい」
囲炉裏をはさんで玄徳の向かいに座り、ハルンツは火箸で炭を突付きながら意識を回りにめぐらせる。今のところ、どこの守護陣も異常がないようだ。安堵の溜息をつきながら、聞きたかった疑問を口にする。もうすぐクマリに入り、目的地に入れば玄徳は李薗帝国の玄武家当主に戻る。そうなれば、たやすく会話する事も一生ないだろう。聞ける機会は、もう少ない。
「玄徳さんは、呪術をエリドゥで学んだと聞きましたが…どんな所ですか?」
「うん? そうだな…大きな都市だ。神殿群が集まった中州は、小さな国のように栄えている。この大陸はもちろん、世界中の人々が知識と御加護と金を得たくて集まっている。それは美しく、汚いところだ」
矛盾する言葉の数々にハルンツが戸惑っていると、玄徳は声を殺して笑い出す。
「すまぬ。いや、そなた正直だな…くくっ。案ずるな。良い所だ。呪術を学ぶ為にも、諸国の影響から逃れる為にも、エリドゥへ行くのは間違ってはいないと思う」
「エリドゥへ行くって…知っていたんですか?」
「ハルンツの様子を見ていれば、察しがつく。夜中に一人で精霊文字の練習をしていたであろう」
「そんなに判りやすいですか…」
衝撃的な言葉に、思わず顔を一撫でして溜息。人と接して育ってこなかったからか、秘密を隠す事や裏をかく話し方が出来ない。己の不器用さに嫌気を感じながら、ハルンツは頷いた。隠し事は、出来ない。
「吾はな、神殿に留学していたが…あのまま神官になれればと思っていたのだよ」
「神官、ですか?」
「学僧でもよい。この身にエアシュティマス様の血が流れているが、共生者としての能力に限界があるのは知っている。神殿では大した仕事は出来ないだろう。でも、あの責務を逃れる事が出来るのは神殿しかなかった」
口元に微かな笑いを含んだまま、囲炉裏の火を見つめながら玄徳が呟きだす。そこにいるハルンツに語っているのか、灰の中にくすぶる炭に語っているのか、はっきりとしない。ただ、ハルンツは顔を上げずに、じっと耳をすました。大切な事を話している気がするから。鉄瓶からもれる蒸気の軽い音だけが、二人の間の空間を埋めていく。
「吾は玄武家に生まれた責任は果たすつもりだ。しかし、それ以上の事をこなせる程強くはない。器用でもない。そういうのは、朱雀殿がやってくれると思っていたのだ。…それでも、吾を皇位にと押す力はあった。関所で別れた周偉もだ。幼い時からあやつの考えている事は判る。今までははっきりと口にはしなかったが、やけに皇位を気にさせる。…吾は、これ以上の責任は負いたくなかった。だから神殿に逃げたのだ。もっとも、父親の病で李薗に連れ帰されたが。まぁ、当然だな。神殿で、重要な地位についている訳でもなく、将来を嘱望された訳でもない。吾は神殿に残る事も出来なかった」
玄徳はまるで、自らをあざ笑うかのような笑みを浮かべて、囲炉裏の炎に微笑みかけた。
「己より強い者を妬み、権力を求める者はいる。それでも、神殿は真理と誠実を求める場だ。ハルンツには合っているだろうし、そなたは多くを変えれるはずだ。吾と違い、偉大な力を持っているのだから」
「…それは、違います」
はっきりと、ハルンツは玄徳を見つめた。視線を感じ顔を上げた玄徳は、眉間をよせていた。
「ボクの力は、何にも役にたたない。でも玄徳さんは違う。その地位と人を惹きつける力で、李薗という国を動かせる」
「なにを戯言を。そなたの力が役に立たないと?吾が国を動かせると?」
「そうです」
どうして、気付かないのだろう。玄徳は、人の上に立つ全てを持っているのに。先を読む視線も、冷静な考えも、仕える人の事を思いやる心も、持っている。そして、誰もが羨む大陸でも有数の名家の生まれ。
「玄徳さんは、全てを持っている。才能も、家柄も。ボクは違う。偉大な力?…その使い方すら、知らない」
初めて玄徳と出会った時、怒りで自分を見失い炎を上げてしまった。自分すら思い通りにできない力など、偉大な力ではない。
「神殿で学べばよい。ハルンツなら、すぐに魔術を扱える」
「それで世界を征服するのですか?…田舎の、海南道の里にいた時、幾人もの幼子を看取りました。ダショーの子として、魂を幾つも送りました。貧しくて、薬なんか買えなかった。医者はいないし呪術使いもいなかったから、祈祷も出来なかった。ただ、手近な薬草を煎じたものを飲ませて、手を握る事しかなかった。次第に呼吸が乱れて、うわ言で母を呼んで、虚ろに魂が抜けていくんです。ボクは、見ているしかなかった。祭文を詠んで、見送る事しか出来なかった。あの時は、もっと自分に力があればと思いました」
呪術を知っていれば。薬草を知っていれば。自分より幼い命を助ける方法が、その力が欲しいと。