35 沈黙の森へ
進めば進むほど、森は暗く深くなってきた。クマリの領土に近づくほど、旅人の姿も減っていく。それが、今のクマリの力を現している。
「今夜は野宿なの?」
マダールの心なしか不安げに問いかけに、義仁が速度をやや速めながら頷く。ようやく着いたと思った茶屋は、封鎖され誰もいなかった。人影のない家並みは、寂しく恐ろしげだ。
「ここのところ妖獣が出没してますから、ここの茶屋は封鎖して避難したようですね」
「これでは、一般の者は恐ろしくて歩けぬな」
「やっぱり、港に行ったほうがよかったんじゃない?」
マダールの意見はもっともだ。先の宿場で、この先から妖獣が出たという情報が多く流れていた。大半は、南の海に向かい船でクマリ入りしようと進路を変えていた。陸路を行くハルンツ達を見つけ、多くの宿場の人々が必死に止めてきたのも納得の光景だ。
「本来、星輿で行く旅程だったから時間がないのだ。海路を取れば天候に左右されやすい上に、さらに七日はかかる」
「じゃあ、星輿で行こうよ」
「あれは高価な玉獣を使用して、人数も限られる。四人ならまだしも…」
玉獣はクマリの神苑の森深く生まれる空を飛び人語を理解する高度な獣だ。その頭数は、いくら李薗が大国でも限りがある。まして、警備の者を除いても、ハルンツ達を入れれば5人になる。用意してあった星輿では、定員以上で無理だった。陸路を進むほか、道はない。
人気もない街道で、いつもなら人目を気にしてこっそりついてきた警備隊が、荷馬車を囲むようにして進む。生い茂る葉で、暗くなるのが早い。日が傾くにつれて次第に焦りが大きくなっていく。
「ここから先、駆け足で急ぎます。何かにつかまり、舌を噛み切らぬよう喋らないでください」
警備隊長の声に手綱を打つ音が重なり、荷馬車はさらに激しく揺れだす。ハルンツは、腕の中の三線を握り締めた。
山の中の宿場は、獣避けで大きな塀を張り巡らす。熊や狼にも壊されないような造りで、戦も出来そうな頑丈さの門や塀も多い。だが、今宵ついた宿場が、今まで見た中でも最大級のモノだった。
「これって、中に入ってもいいのよね」
リリスが大きな通り門の扉にかかれた張り紙を読んで、確認の為に振り返る。荷馬車から玄徳に支えられながら降りたマダールは、真っ青な顔をして口元を押さえ茂みへ駆け込んだ。旅なれたマダールでさえ、荷馬車の揺れに耐えれなかったようだ。慌ててリリスも後を追う。こんな物騒な所で一人にしてはいけない。そんな空気が漂っている。
「…『妖獣・妖星の発生により、12番宿場の封鎖を執行する。尚、道に迷われた旅人、獣や妖獣に追われる者がこの宿場を使用する事を許可する。夜間の行動を慎み、焚火を消す事なかれ。吉祥を。 昴 ジクメ』…か。随分と物騒だが有難い。ここで夜を過ごそう。見れば、中の宿場も無事のようだ。炊事も出来そうだな」
確かに、中の宿らしき建物は寂れていても、傷んだ様子はない。玄徳の言葉を受けた警備の者達は、馬車の手綱をハルンツに預け素早く周囲を探りに走り出す。ハルンツは持たされた手綱を手に握り締めたまま張り紙を見上げる。
「昴 ジクメ…?」
「昴家の当主殿だ。クマリ族で族長に一番近い方と言われているな」
ハルンツの背後に、玄徳が腕を組んで立っていた。見ているのは、同じ張り紙の同じ文字。
「今度の大霊会の主役は、おそらく彼であろう。並み居る大連の中でもずば抜けて若く優秀と聞く。ここの封鎖の決定に署名があるし、内政はすでに掌握か。まぁ、吾には劣るであろうが」
「そ、そういう事、自分で言うかな…」
玄徳の自画自賛発言に、リリスに支えられたマダールが歩きながら反論をする。まだ血の引いた顔色だが、先よりは良い。振り返る玄徳の顔が、笑顔になった。
「少しは元気が出たようだな。先に使えそうな建物に入り火を熾しておけ。荷物の中に剣茶がある。渋いが気付けにはなろう」
「殿下、見たところ人影もなく安全かと」
息を乱す事もなく、三頭の馬に乗った警備隊が帰ってくる。その返答に、玄徳は目を細めて森を見つめる。
「ここで怖いのは人ではない。ハルンツはどうだ。何か感じるか」
「…何か、いるのは判ります。ひどく、精霊が怯えていますから。中に入れ入れと、せかしてきます」
「では急がなくては。馬を貸せ。隊長は吾についてまいれ。残りの者は中に入っておれ。義仁、マダールを頼むぞ」
「殿はどこに行かれます?! 」
義仁と警備の二人が慌てだす。その様子を楽しむように笑って玄徳は馬を受け取り、軽い身のこなしで鞍にまたがる。
「周りに結界を張りにゆく」
「じゃ、じゃあボクも」
「そなたまで来て何かあったらどうする。ハルンツは、ここで皆を守れ」
馬上から命令する姿は、さすがに威厳があった。そして、指示も合っている。
ここで怖いのは獣でも暗殺者でもない。妖のモノだ。妖に対抗出来る物は呪術しかない。そして、この場で呪術を行えるのは玄徳とハルンツのみ。もし、二人ともやられてしまえば、残りの者達は哀れな末路のみが待っている。
判っている。けど、役に立ちたい。役に立てないのか。妙な苛立ちに唇をかみ締めると、耳横で懐かしい声が聞こえる。
『焦ることはない。どちらも危険だ。そなたはやれる事を全力でこなせばよい』
「…はいっ」
思わず力いっぱい頷くと、玄徳が驚くように笑い出す。
「よし。では行ってくる」
素早く手綱を操り、濃くなった闇の中へ駆けていく。ハルンツは咄嗟に水の精霊の精霊文字を描き、祝福の字を手の平に書いてその背中に吹きかける。多分、少しは助けになるはずだ。そして、視線を感じて振り返ると疑惑を顔に書いて義仁と警備の二人が仁王立ちして睨んでいた。
「なにをしたのですか」
「お、お守りです。その、ないよりあった方がいいでしょ?もちろん、玄徳サマは呪術の長けた方ですから必要ないと思いますが…」
「当然ですっ。ほら、早く行きましょう。マダール、あと少し辛抱しなさい」
マダールをリリスが抱きかかえるように荷馬車に乗り、義仁が手綱をとり門の中を進んでいく。
その後姿を見送ってから、ハルンツは虚空に笑顔を向ける。
「久しぶりですね。すっかり忘れられたかと思いました」
『馬鹿者。そなたを一人にはせん。よい仲間が出来たので様子だけ見ていたのだ』
半透明の貴人が、夜風に乗るように現れた。ハルンツの先祖であり、この血の始まりの人。ダショーであり、稀代の魔術師エアシュティマスだ。
『今宵は荒れそうだ。私の手伝いがいるやもしれぬ』
何時になく険しい目で森をみるダショーの姿に、ハルンツは門の扉に精霊文字を指で描く。こんなもの、本当にお守り程度だろうが。
「 …空の父と大地の母の祝福を… 」