34 義仁の悩み
「あぁ〜ねむぅ〜」
マダールのいつもの呟きで、その日も始まる。それは、平和の象徴。昨日も、そしてきっと今日も何事もなく平穏に過ごしていく為の通過儀式のようなものだ。
東桑の関所を出発して七日。旅の仲間が増えた事にようやく馴染んできたところだ。ハルンツにとって、やや年上とはいえ同年代の人とこれだけ密着して生活した事が初体験だった事もあり、食事の支度から挨拶から戸惑いだらけだったが慣れてきた。皆で食事をする時は一人だけで食べ始めない事すら、知らなかったのだから。この七日間は驚きと恥のくり返しだった。でも、それもマイペースのマダールに救われ、リリスに助け舟をだされ、玄徳に『それらしく周りに合わせろ』という妙で的確な助言をもらい、義仁に作法を教わっていくうちに、戸惑いもなくなってきた。いきなりクマリや神殿にはいる前に、この仲間に会ってよかったと、何度思った事か。
高原特有の澄んだ朝の風に頬を撫でられながら、ハルンツは上機嫌で揺れる荷馬車の上にいた。ここ二日の悪路のせいで泥だらけになり旅慣れた風格すらでてきた荷馬車に二頭の馬の手綱を操る義仁、後ろでうたた寝をするマダール、爪を磨くリリス、擦り切れた庶民の着物を着ても威厳だけは残り大商人の御曹司に見えてしまう玄徳。ハルンツは布に包んだ三線を取り出す。揺れる荷台の上で、器用に弦を張り替えだす。
「玄徳さんのくれたコレ、上等の弦ですね」
「ハルンツちゃん、まだ音を出してなかったの?」
「だって、夜より朝の空気で新品の音は聞きたいですよ。昨日から我慢していたん、ですっ!よし、こんなんかな」
昨夜の宿屋で、マダールが『上納品』とタカった上質の絹の弦と楽器が早馬で届いたのだ。あの冗談のような約束を早くかなえてくれた事に、マダールもリリスも大喜びで弾きまくっていた。マダールの寝不足が酷いはずだ。
ハルンツは慣れた手つきで弦を張り余った弦を巻いて、陽の中で光沢のある輝きを放つ三線をうっとり眺める。
「絹の弦なんて、初めてですよ」
「音いいわよぉ。全然違うんだから。ほら、なんか弾いちゃってよ」
棹に張った感触を確かめながら、指で爪弾き調律をしていく。絹特有の『シュッ!』という擦れた音が、残存の音に切れ味を加えていく。
「いいわねぇ。私も何か弾こうかしら」
リリスが琵琶を取り出す。もちろん、絹の弦に張りかえ済みだ。素早く調律をはじめると、マダールも起きだす。まるで、ご飯の匂いに昼寝から起きだす幼子だ。寝起きの顔で、ヨダレを
拭くより先に懐から横笛を取り出した。
「よい音だな。うん、吾も何か弾こう」
その途端、いななきと共に荷馬車が急停止する。
「申し訳ありませんっ。殿、手綱をお願いします」
冷静沈着という印象の義仁が、疾風の如く御者の席から荷台へと滑り込んでくる。まるで追い立てるように、主君の玄徳に手綱を握らせた。その有無を言わさぬ速さに玄徳も従っていた。そして、我に返って深く溜息をつく。
「何故だ。吾が弾いてもよいではないか」
「恐れ多い。殿に弾かせる訳にはいきません」
「せっかく楽人と共に旅をしているのだ。このような機会に手合わせをしてもよかろう」
「いえいえ。殿のような貴人の出されます音、ありがたすぎて」
「そう思うのに、吾に手綱を持たせるか?」
「馬を休めては、今宵の宿場に着きませぬ」
言葉巧みに義仁は玄徳に手綱を持たせて、荷台の中からもう一台の三線を取り出してしまう。そして、一通りの調律を終えると勝手に弾きだしてしまった。その強引さに驚きながらも、ハルンツ達は義仁の音にあわせていく。音楽があれば、反射的に弾いてしまう楽人の悲しい性だ。すっかり置いてかれた玄徳は、しかたなしに手綱を握り御者の席に座る。
突然止まった荷馬車に驚き、偵察に来た後ろのお忍び警備隊をかなり驚かせる事に気付くのは、この後だいぶ経ってからだ。
白王家の人間に手綱を取らせ演奏した楽人が半ば伝説化することになる事を、まだ誰も知らない。
「すいません、モモズを追加していいですか?」
熱々の山羊の乳と芋のスープを飲み干して白いヒゲをつけたまま、ハルンツは玄徳と義仁に聞いてみる。この旅の面々で財布を握っているのは彼らだ。正確には義仁だが、彼の主にもお伺いをたてるところがハルンツらしい。玄徳は義仁に目配せをして、給仕に追加を頼む。
あれから予定より早くに宿場町についたので、取り合えず腹ごなしにと食堂に入った。それから半刻ばかりで、粗末なテーブルに並んだ料理は消えていった。
「すごい食欲だな。まぁ…そなた細いから少し食べたほうがよいが」
「おなか、痛くなるわよ」
「痩せの大食いってやつ?」
「目立つのは避けたいので、これで最後ですよ。宿屋でも食事が出来ますし」
それぞれに念を押されながらも、湯気をたたせたモモズが運ばれてくると満面の笑顔になってしまう。
羊のひき肉と香辛料を小麦の皮で包んで蒸した料理は、適度なボリュームに手ごろな値段でどの食堂でもおいてある庶民料理。それでも貧乏旅行をしてきたハルンツにとって、今まで食べられなかったご馳走だ。口の中が火傷しようと、ハフハフと食べたい。
「ハルンツちゃんの幸せそうな顔見てたら、さっさと食えなんて言えなくなるわね」
「いえ、困りますが」
「じゃぁ、なんか弾いて待ってようか」
「目立ちます」
「…あんたケンカ売ってんの?」
マダールが義仁を睨む。美少女の凄みに隣のテーブルの一団が息を飲むが、当の義仁はゆっくりと茶をすする。
「私達は楽人よ。人の集まるところで演奏したって文句は言われないわ。まして、こんなに活気ある食堂だもの。今まで歓迎されても迷惑がられた事はないの」
義仁の冷静沈着な姿に刺激されたのだろう。マダールがこれ見よがしに、手荷物からの二馬線を取り出す。
「目立ちますから、おやめなさい」
「楽人が目立って何が悪い」
もう、売り言葉に買い言葉だ。マダールはリリスにも懐から出した横笛を渡す。
「ちょっと…今は私達だけじゃなくて玄徳もいるのだから目立つのはマズイわよ」
「では、吾も弾こう。誰も吾が楽人になるとは思わぬだろうから、誤魔化せる。ハルンツ、借りるぞ」
「フェ?」
モモズを咥えたハルンツが顔を上げると、玄徳が素早く三線を取り出し弓を構える。
「と…おやめください!」
殿と叫びそうになった義仁の顔が、見る間に青白く血の気が引いていく。この場で身分を明かす「殿」を使わなかったのが不思議な勢いだ。
「そうこなきゃ。東歌いくわよ。せーのっ」
玄徳がのってきた事に喜んで、マダールの合図で一斉に弦が震え周波をもった空気が震えた。
玄徳が弾く三線から、暴力的な音量で半音域ずれた旋律が半拍遅れであふれ出す。
「むぎゃっ!」
ハルンツはモモズを喉に詰まらせ、給仕はお盆の上の飲み物をひっくり返し、あちこちで酒を吹き出しむせる客が続出する。
次の瞬間、怒号と罵声と野次が店内を占領する。
食べかけのモモズと共に5人が外に放り出されるまで、時間はかからなかった。
「義仁、知ってたら止めればいいのに…」
「言える訳、ないでしょう…殿の唯一の欠点が楽狂いの楽音痴だなんて…」
「あんなに音楽好きなのに音痴って、哀れねぇ」
「う、うるさい!黙れ!そなた達となら、上手く弾けると思ったのだっ」
「でもあの店主、勘定とりませんでしたね。ただで沢山食べれちゃいましたよ」
夕刻せまる宿場町で、うなだれて歩く四人にハルンツは励ましかける。
クマリは、まだ遠い。