32 まだ見ぬ地へ (前)
見開かれたハルンツの瞳が、戸惑いを叫んでいる。「何故、助ける?」「何故、手を差し伸べる?」声なき声で、叫んでいる。
この少年は、何故こうも正直なんだろう。宙に精霊文字を書き連ねながら、玄徳の口元に笑みがこぼれる。
きっと、彼なら大丈夫だ。その力を悪用する事はないだろう。感じた印象は、次第に根拠ないまま確信に変わっていく。
「深呼吸をして、そう、ゆっくり、大丈夫だ」
玄徳の指示に素直に従って、ハルンツが深呼吸をする。少しずつ、少しずつだが青白い気炎も、揺らぎながら消えていく。
「すごく、ありえない光景見ちゃった…」
マダールと呼ばれた少女が、床に座り込んだまま呟く。その言葉が全てを表している。呪術の心得があるものなら、『ありえない光景』だったろう。
完全に気炎が消えたのを確認して、拍手を打つ。呪術による使役から解放された風の精霊たちが、四方八方につむじ風を起こしながら去っていった。
「殿下、お怪我は」
「殿、殿は大丈夫で」
「で、殿下!何かありました…こ、これは?」
ようやく正気になった周偉と義仁が立ち上がり、扉を蹴破って踏み込んできた守長と警備隊の者達が、部屋の惨状を見て声を失う。
御簾は破け、床に玄武の宝冠が転がり、床や壁は風の精霊の飛び回った跡が、切り裂かれるように刻まれている。
「すまぬ。とっさに風の結界を張ってしまった。あぁ、取り合えずこの者達に茶を。ゆっくり落ち着くのが先だ」
「え、あ、茶でございますか?」
「三人分だ。後はよい。下がっていろ」
好奇心と動揺でたじろぐ守長に命令をして、取り合えずの人払い。さて、どのように噂されるのやら。
「何故、助けてくれたのですか」
気を取り直した義仁が、素早く髪の乱れを直しながら落ちた宝冠を止めなおす。されるがままに任せながら、玄徳はハルンツの呟きを聞いた。
「呪術が使えるのなら、あのままボクを捕らえれた。朱雀の方は、そうしようとした。貴方は、何故に助けたのですか」
「そうさなぁ、何故であろう」
助けられた者に「何故助けた」と聞かれるほど、答えれないモノはない。助けたいから、助けた。これだけの答えなのだが、それで満足しなさそうだ。
しばし宙を睨み、首をかしげて呟きだす。
「おそらく、朱雀殿は怖かったのだろうよ。たしかに白王家の血を引いた共生者ではあったが、あの方には呪術を行使するほどの力はなかった。そんな朱雀殿にとっては、『金翅』が唯一の頼みだったんだろうな。闇の中で、子供が無闇に泣き叫んで棒切れを振り回すのと同じだ。…いや、吾がすごい訳ではない。その、あぁ…なんだ、助けなければと思ったから助けたまで。理由など要らぬ」
喋っていて、何故に恥ずかしくなるのか判らぬまま天井を仰ぎ見る。この少年は、正直すぎる。相手の心の中まで照らしてくる。隠していた闇まで強く優しい光で満ち溢れさせる。精霊が愛でるのも、納得だ。
「そんな事より、お前の連れはいいのか?放って置かれて、随分と戸惑っておるぞ」
「え、あっ!マダールさん、リリスさん、怪我してない?」
驚いて後ろを振り返るハルンツに、玄徳と義仁が苦笑いをしてしまう。すっかり同行者を忘れていたらしい。涙目の少女がハルンツの腕を二度と離さない形相で掴んでくる。
「どーなってんのぉ!ハルンツは怪我ない? 火傷は?」
「なんか、ハルンツちゃん、玄武の方と知り合いなの?朱雀殿とか、すんごい名前が聞こえたんだけど…」
「うん、その、話すと長くなるし」
「吾は構わぬ。ちゃんと話してやれ。ハルンツも自らの口から話した方が良いだろう」
ちらりと振り返ったハルンツに、苦笑いしながら頷いてやる。その途端、花咲いたような笑顔になり、床に額を叩きつける勢いで頭を垂れた。
「…」
まるで、子犬のような無邪気さだ。今さっき、全身から憎しみと怒りの気炎をあげた本人とは思えない。魔術師のような気迫で精霊を集めた少年は、申し訳なさそうに二人に説明を始める。
自分が、何者か。何故白王家に狙われたのか。知らせてから関所を越えては、二人にも大罪を負わせてしまうから、黙っていた事。申し訳なかったと,素直に頭を下げている。そんなハルンツに二人は頷き、体を頭を撫でていく。
「もう、心配させないでね。いい? 今度、なんか秘密持ってたら許さないわよ!」
ハチミツ色の髪を乱して、ハルンツの胸倉を掴んで脅迫めいた言葉を言う美少女。
「いやぁん! リリス、泣いちゃうからねっ! ハルンツちゃん、もう勝手しちゃ駄目よっ」
つないだ手を振り振り、よく響く太い声で可愛らしい言葉をかける美青年。そして、笑顔で頷くハルンツ。
「…義仁よ、何故だろう…あの恐ろしいまでの力を持ったハルンツが、常人に見えるぞ…」
「あの面々と旅をなさるのが危険に思えます。考えなおしましょう、殿」
「護衛の兵をつけましょう。国境警備隊に声をかければ、殿下の即席親衛隊がすぐ用意できるでしょう」
「え、それはまずいだろう」
呆然と『微笑ましい友情の光景』を見ていた玄徳が、我に返って否定する。
「警戒されるのが一番に怖い。楽人二人の心配はともかく、ハルンツが吾に刃を向ける事はない」
「何故、そう思われますか?」
ヒゲを撫でながら笑みを浮かべて問う周偉。その姿は、師が弟子を見つめる目だ。出来の良い弟子の答えが、待ち遠しくてたまらない。
「正直だから。仇を受ければ仇で、恩を受ければ倍で返す者だろう。それに彼なら、力で自らを失う事はない。その中で過ちを犯すかもしれないが、道を誤まる事はない」
横の義仁が「根拠のない事を言ってよいのですか」と言わんばかりに睨んできたのに気付き、玄徳は咳払いして追加する。
「吾の勝手な考えだ。そうだな。彼らの了解を得て、少ない護衛をつけよう。これで良いか」
「そうしましょうっ」
有無を言わせぬ勢いで、義仁が同意して異論を言わせぬ強さで周偉を見据える。
「ようございます。では、至急要請してきましょう」
「ちょっと待ったぁぁぁぁ!!」
背を向けた周偉に、甲高い少女の声が引き止める。
「そっちで物事進めないでちょうだいっ。こっちだって条件があるのよ!」
いつから話を聞いていたんだろうか。マダールと呼ばれていた少女が、啖呵を切って叫ぶ。この者は、自分が誰を前にしているのか、知っているはずだ。この勢いだと、すっかり忘れているのか。とにかく無礼をものともせずに、対等に怒鳴ってきた。
「稀代の魔術師エアシュティマスとその子孫と旅をすんのよ!手ぶらで同行するの?!」
それはお前も同じだろう。
ハルンツを除いたこの部屋にいる者全てが、そう言いたげにマダールを見た。でも、彼女はひるまない。