25 玄武の憂い
遠くに雪を抱く山も、霞の向こう。
連なる山々の絶景に、彼は溜息を零す。
「クマリは、あの山脈の向こうか…遠いな。あと何日旅をしなければならないのだ?」
「あと一月でしょう。大霊会には、間に合いますよ」
爽やかな朝の風がそよぐテラスに、湯気の立つ朝食が並べられていく。李薗風の粥を中心として、地元の山菜を炒めたものや、新鮮な卵や、山羊の乳を発酵させた飲み物が、食欲をそそる香りを漂わしている。
そして、食事を運ぶ侍女達は、テラスの欄干に持たれかかり溜息を零す男性に頬を赤らめていた。
よく見れば、男性というのが早いのが判る。十代後半の伸び盛りの少年といってもよい。
だが、纏う雰囲気は大人びていた。
伸びやかな手足の動作は落ち着きがあり、言葉は芯があり人を従わせる力に満ちている。みなぎる気力は、眼に溢れている。
そして何より、身につけているモノが尋常ではない。
見るからに李薗の貴族風に装っている服はには、ふんだんに金糸銀糸が使われて亀を意匠した刺繍がほどこされている。首を伸ばし水神の印である勾玉を捧げる亀。
その紋章を身につけれるのは、大陸に一人しかいない。
「陛下の名代としての役目、果たせるのは玄武家当主 白玄徳様しかおられませぬ」
「…そこよ。義仁、そこが問題なのだよ」
武人とも言われるその逞しい彼が、悩ましげに溜息を零すその光景に、侍女達の動きが止まってしまう。義仁は、咳払いと共に手を叩く。もう、朝食は運び終わっている。
たむろする侍女を追い払うと、念入りにテラスとの扉も、自ら閉めてしまう。
義仁は、優秀な家人でもある。そして、玄徳の乳兄弟でもある。
「おかしいと思わぬか?」
「おかしいのは殿です。今朝から溜息ばかりで…今日は関所を越えますよ。関所を護る兵や官職に、ねぎらいの言葉を掛けて下さらなければ困ります」
「それはちゃんとする。判っておる」
「ここ東桑は、クマリとの境ですからね。この先の難所を越えれば…」
「鎮守の森への祈りもちゃんとする。神苑の番人にも、ちゃんと挨拶をする。問題はそこではない」
遠慮なく注文をつけてくる義仁を軽く睨みつつも、玄徳は促されるまま食卓の席につく。甲斐甲斐しく粥を盛り付け匙を添える義仁の手元を眺めながら、ふと尋ねる。
「人払いは…」
「済んでおります。この会話を聞くには、テラスの下に広がる絶壁をよじ登る他はありません。安心して悩みを打ち明け下さい」
「さすがだな」
この義仁という男は、どこか目立つ風貌ではない。
元は下級貴族の家だったらしいが、父親の時代に家は没落。縁あって玄武家の乳母になった祖母とともに家に来た日から、二人は共に育った。
玄徳の傍ら、義仁も同じ師匠について学んでいったが、その優秀さには眼を見張るものがあった。何度も亡き父と「官僚に推薦しよう」と進めたのだが、「貴族社会で生きるつもりは無い」と断り続けた。
「このぐらいの能力では、世に埋没してしまいます。それならば、玄徳様の影となり、この玄武家を支えていきとうございます。恩に報いたいのです」そう言った日から、実の兄のように慕い続けていた義仁は家人となった。
「それで、何がおかしいのですか?少なくとも、今朝の朝食ではないですよね」
「旨い。それはいいのだが…っ。ここ数ヶ月の宮中だよ」
まだ湯気の立つ粥に舌を火傷し、茶を手に取り視線を落とす。
香りよい湯気を楽しむ表情ではない。
「そもそも、吾が大霊会での陛下の名代になったのは何故だ。ここ数年、いや、即位以来健康そのものだった陛下が、急に体調を崩され気味になられたのは、何故だ」
「それは…陛下は御歳六十を越しました。ご高齢では、体調を壊されても致し方ありません」
「毎晩後宮で美妃達を抱いていた陛下がか?今や横になり日に日に衰弱して、出立の挨拶の折は…痛々しいお姿であった…。人は老いると、あのように急に衰えていくものなのか?」
玄徳)の脳裏に、昨年亡くなった父親の様子が浮かぶ。
確かに、物が食べれなくなりやせ衰える病だったが、その姿とも比較できないほど重症なのは感じ取れた。
「あの時吾は…エリドゥの深淵の神殿に留学した、あの時に学んだ毒薬を思い出したぞ」
「殿、まさか陛下が毒を盛られていると…」
「確信はない。だが…妙ではないか。朱雀家の楊燕殿を次期皇帝の皇太子にと、官僚のいる太極殿から話が出たと思ったら急に陛下が倒れられた。もっとも、一月前の海南道への行幸で体調をすっかり壊されたと聞くが…本当に行幸だったのか。一万もの兵を率いる行幸など聞いたことない」
「朱雀家の楊燕様は病。白虎家の跡継ぎはまだ乳子。青龍家の琥仇様は陛下より老齢で子供は娘ばかり。名代になるのは、今や殿の他になし。これでよいではないですか」
「本当にそう思うのか?これでは、このままでは、吾ら玄武家が企んだ事になりそうで…吾は正直怖く感じている」
茶碗を温めるように包み持ち呟く姿は、北の将軍と噂される姿とはかけ離れていた。
茶に落とした視線の鋭さが、この事に関する憂いを強く訴えている。
義仁は溜息を零しながら、何かを思案する表情をみせた。兄弟のように育った玄徳しか判らない僅かな変化だったが。
「殿の勘は、外れたことがありませんからね。これこそ、祖を稀代の魔術師エアシュティマスに持つ白王家の血が成せるものでしょうか…」
さりげなく喋りながら、頭の中で猛烈な勢いで考えを組み立てているのだろう。お代りの茶を点てているが、視線は空ろだ。それでも、手元を見ることなく一滴も零さずに急須に茶を注いでいく。
「陛下が体調を崩されたのは、太極殿から次の皇太子候補の話が楊燕様と上がってから。ならば、もし毒を盛るとしても、朱雀家か太極殿側でしょう」
「あぁ…しかし、そうだとしても」
「楊燕様が行幸に行かれたのは、陛下の命でしたよね」
「あの失った秘刀『金翅』を授けて直々の勅命だったな」
「ならば、楊燕様が倒れられたのも、関係ありませんよ。行幸が陛下の命だったのは、周知の事実。一万の兵に囲まれた遠い海南道まで、白虎家や青龍家は手を出せなかったはず。むしろ、『金翅』を無くしてしまった心労からじゃないでしょうか」
「………」
「楊燕様が倒れられたのは、心労でしょう。ここ東桑の名刹で祈祷を願うのが良いかと」
「…陛下の息災祈願も頼め。その線で春陽の貴族達を黙らせる。これでよいか」
「御意」
つまり、この件は偶発的に起こった不幸だ…世間にそう思わせる為の祈祷だ。
玄武家は、全く関係なく平安を祈っていると、そう行動で示す。そういう事で…。
「これだから義仁は怖いのよ」
そう呟きながら山菜を食べ始める玄徳」に、義仁は笑みを浮かべたまま香辛料をすすめる。
そうしながら、玄徳の頭に、一つの考えが駆け巡っていた。
これは陛下と帝国を狙った陰謀なのか。玄武家をも巻き込んで失脚させる陰謀なのか。事を性急にはっきりとさせなくては…。