23 誘惑
手にかかる圧迫は、そのままボクに対する期待のように感じた途端に、恐怖になる。
そんな重みに、耐えられない。なにより、この頼みは受けられない。
「無理です!ボクには出来ません!」
思いっきり身を引いて、手を引きずり出す。
きょとんと、ボクを見てくる二人の顔を見るのが辛い。手を握り締め、視線は次第に下を向く。
「ボクのような演奏では…。ボクは流行りの曲を知りません。かなり辺境の田舎だったから、技術も曲も、大したものは知りませんし」
「なに言ってるの。演奏技術なんて、練習すれば大丈夫よ。曲も覚えちゃえばいいし」
「そうよ。私達が手取り足取り教えてあげるわ」
「それとも…あたし達と一緒は嫌?うん、個性強いみたいだし、こう言われるの多いしなぁ」
「そんな事!」
思わず立ち上がった瞬間、椅子が倒れてしまった。罪悪感に、再び気が落ち込んでいく。そうじゃない。この人達を傷付けるつもりはないのに…。
「やぁね。そんな顔しないでちょうだいな。マダールも、そんな事言わないでよ。判るわよ」
リリスが椅子を直して、ボクの肩を叩いた。
大丈夫、大丈夫。
まるで、幼子をなだめるように。
「なにか、訳があるんでしょう」
「え、そうなの?」
「当たり前でしょう。こんな子供がたった一人、旅をしてるのよ。しかも、国境を越えようとしてこの関所まで来たんでしょう?故郷は海辺って言うのに、こんな内陸の奥地まで旅をしてきたのよ。事情もちに決まってるじゃない。ただの巡礼じゃないでしょう」
リリスの言葉に、驚いて顔を上げていた。この人は、どこまでお見通しなんだ。これ以上の事まで、気付いているのか。いや、まさか。
頭の中で目まぐるしく考えが駆け巡る。このまま、黙り込むか。
でも、この関所の宿町で不審者と思われるのは、まずい。かといって嘘はつきたくない。
リリスは鋭いから、きっとばれてしまいそうだ。なにより、嘘を突き通す自信など、まったく無い。
黙り込んだボクを見る二人の視線に、深く深く、溜息をしてしまう。
「なにか悩みがあるんなら、言ってよ」
「お金は貸さないけどね。困ってるならいいなさいな」
妙に現実的な親切の申し出に、苦笑いして椅子に座りなおす。
逃げた恋人も、二人の人の良さに甘えたんだろう。そう、二人は良い人だから。
「演奏を褒めてくださって、嬉しいです。でも,ボクは、関所を越えれないんです」
ポカンと、マダールが口を開ける。
対照的に、リリスは金色の前髪をかきあげて眉をひそめた。まるで、月に雲がかかったように顔が翳る。
「手形が無いものは、関所を越えれないと、立て札がありました。巡礼者も例外じゃないそうで、一人ずつ手形を確認されていました」
「つまり、ハルンツは手形、ないわけ?」
「そうです。だから、一緒に旅は出来ません」
「なら、大丈夫。一緒に行こ」
ニコッとマダールが笑う。月にかかった雲が、晴れていく。軽やかに、涼しげに、夜風が吹き去っていく。ボクの中の暗い裏切りの気持ちに、光が当てられる。
罪の意識。ボクは、本当の事は言えないのに。
「…あのね、話聞いてたの?」
唯一つ空気が澱んだままの場所から、声が低く低く響く。
「手形がないなら、関所を越えれないでしょ。そうか、ハルンツちゃん、だから巡礼者の格好して」
「だから!だから、一緒に行けばいいじゃん!私達みたいな生まれも育ちも旅の芸人は手形がないから、関所は通過できるのよ。だーいじょうぶ」
リリスの言葉を遮り、マダールは勢いよく酒を注いでボクに差し出す。
「問題解決!さあ飲もう!」
「こら聞け馬鹿マダール!手形が無い者の越境を手助けした者は厳罰っ」
マダールの胸倉を掴み怒鳴るリリスは、男になっていた。先の可憐な女言葉は消えている。
その迫力に強張るっていると、マダールは胸倉を掴んだリリスの手を叩き落とした。
「厳罰?だから?このままじゃ、クマリに言っても大霊会に挑戦も出来ない。こんなチャンス、もうないわ。大霊会は新族長の決定の年のみにされるのよ。今度はいつ?たとえ生きている間にあったとしても、歌える状況かわからない。今しかないの!今、挑戦しなきゃ、いつすんのよ!」
「ばれたら歌どころじゃない。ハルンツちゃん。悪いけど、手形がないから…だけじゃないでしょう。他にも、理由あるんでしょ」
やっぱり、この人に隠し事は出来ない。ボクは、まっすぐにリリスの紫の瞳を見て頷く。
「ボクは、共生者です。共生者は、手形の有り無しに関わらず、通行が禁止されました」
「…ここ最近、どこもきな臭いのよ」
ようやく女言葉でリリスが喋りだす。
妙なもので、これまでの緊迫した空気が和らいでいく。話の内容は、一層緊迫しているのに。
「国境や関所に兵はウヨウヨいるの。こないだは海南道に、一万もの兵が行進したって言うし。共生者は招集されているらしいし。まるで戦でもするのかって、街道で何度も噂が流れてる。クマリは神苑付近にも妖星や妖獣が出てきてるっていうし。ハルンツちゃん、何か…」
関係があるのか?二人の瞳が、雄弁に疑問をぶつけてくる。
なんて正直だろう。なんて強いんだろう。聞いて、それで見ぬフリが出来なければ、この人達はどうするんだろう。
ボクは首を振った。苦笑いで口元が歪む。言えるわけ、ないだろう。
知って罪を犯すのと、知らずに犯してしまうのでは、天と地のような違いがある。
出来れば、巻き込みたくないのに、ボクの中には二人を利用しようという気持ちが燻っている。
なんてズルいんだろう。
「やっぱり、無理です。この話は、聞かなかった事にしましょう…お互いの為に」
これ以上、この二人の前にいたら話してしまいそうで。
甘えてしまいそうで。
人の好意に甘えるのが、癖になってしまいそうで。
心の奥底に沈んでいる、どす黒い罪と邪まな気持ちを、久しぶりに見てしまった。