21 音の螺旋
「それでねぇ、李薗中を回ったわけよ。もちろん春陽でも演奏したわよ。すごくウケが良くて、貴族や後宮から専属楽団にして雇う話まであったんだから」
目の前の食事を平らげつつ酒を飲みつつ喋り続けるマダールの顔は、ほのかに赤い。
湯浴みで上気した肌、やや平均より発達した大きな胸元、身振り大きくなると肌蹴る袖口。
ほのかに芳香のようなものが、ハルンツの目の前に漂って戸惑ってしまう。食前酒なんて飲まなければよかったと、少し後悔する。
「なのに、ソレ蹴って、クマリに行くことにしたのよ。だって、大霊会が近いじゃない。各国の王族に巡礼者が集まる大きな祭りよ。そこで歌えるなんて、最高の名誉じゃない。大きな賭けだけど、うまくいったら大金持ちのパトロンがつくかもしれないし。なのに、なのによ」
握り締めた箸を、彩りよく配膳された炒め物の大皿に突き刺して叫ぶ。
「趙健ったら、売上金半分もって女と逃げたのよぉぉお!」
その迫力に、頭をカクカクと縦に振る。
「最っ底の男よね!」といいながら、箸に刺さった肉を食いちぎる。
その容姿に、漂っていた芳香は霧散した。それでも、野生化したお姫様に見えるのは、可憐な容姿の成せる奇跡だ。
「マダール、もうその辺にしなさいな。五回目でしょ。同じ話繰り返してハルンツちゃんが可哀想よ」
「いえ、これで気が済むなら…その、相部屋になったご縁もありますし」
「やーん!ハルンツ優しー!彼氏にするなら、こんな子よねー」
結局、あの騒動で曖昧なまま相部屋になり、食卓をともにしている。
大泣きしていたマダールも、湯浴みを終えて部屋に戻ってきた時には、すっかり落ち着いていた。
ハルンツに謝ったあとに、互いに自己紹介を交わし食事になったが、その時の食前酒がいけなかったのかも知れない。
女将のサービスと言って、あの騒ぎの発端となった女中が平謝りで持ってきたのだが、杯を重ねるたびに、経歴を語る話が『趙健』との馴れ初めになり、いつの間にか失恋話を聞いていた。
幾つもの大皿が空になる今は、マダールとリリスの人柄もすっかり把握できてしまった。
旅をしながら楽器を奏で、生計を立てる生活を物心ついてからしているせいか、人目を奪うほどの美貌のマダールだが、中身は意外なほどに逞しいようで落差激しい。
リリスも、黙っていれば異国の皇子のような金髪に白い肌に物憂げな潤んだ瞳の持ち主なのに、喋れば少女の言葉使いという意外性が強烈で類稀なる容姿すら、色あせてしまう。
二人とも、黙っていれば美男美女なのだから、黙って楽器を演奏する姿は絵になるのだろう。
ぼんやりとそんな事を考えていると、マダールが手を合わせて立ち上がった。
「せっかくだから、何か演奏しようか。失恋話に付き合ってくれたお返しになるといいけど」
「そうね。マダール、良い事言うじゃない」
ハルンツが返事をする前に、二人が部屋の片隅に詰まれた荷物を取り出して中庭に面した扉をあけると、夜空に上った満月が静かに明かりを零している。
李薗風の巨石を並べた庭に月光が溢れるその光景は、天上から世界を見下ろしている錯覚を起させた。
「こんな月夜には、天河節なんかどう?」
「いいわねぇ」
会話の合間にも、素早く楽器を取り出して調弦をはじめる。
リリスは男の大きな手を生かした多弦の琵琶にバチを当て、マダールは細身の棹に三つの弦が特徴の三線を取り出し弓を当てる。
無秩序のように音を出しながらも、互いの音と共鳴する瞬間を探りあう。その一瞬で、二人が共に演奏してきた時間の濃密さが感じられる。
この人達は、プロだ。そう、ハルンツは息を飲む。先の和やかな酒席の雰囲気を一片足りと感じさせない気迫が、冷たい月光に染みていく。
「…、…、っ!」
声にならない目線の合図とともに、弦が一斉に震えた。
マダールの奏でる旋律に、リリスの叩きつけるような音が低くリズムを積み上げていく。悶え求めるような旋律と低音の和音のリズムが、絡み合うように広がっていく。
それは、立ち上る二人の気迫のように螺旋を描いて空へと登り、共鳴を求めるように波紋を広げて染みていく。月の光さえ、この曲の為に世界を照らしているかのような、甘い甘い錯覚。
なんて贅沢な感覚なんだろう。
音と音が重なり合う心地よさに、酔ってしまう。和音の心地よさを超越した、その感覚にハルンツは軽い眩暈を感じた。
今まで楽器をダショーの子として習っていても、それは祭礼用だった。
神や精霊に捧げる演奏ではなく、自分達の心情を表現する為の演奏は、なんて刺激的で色に溢れているのだろう。
叩きつけるリズム、複雑に重なり合う和音の重複。
瞬くような音の連続が、あまりに気持ちよくて聞きほれていた。
その演奏が終わり、最後の一音の震えが消えた瞬間に、深く深く飲み込んでいた溜息を吐き出した。
「…すごい…」
零れたその一言に、二人は困ったように照れるように顔を合わせる。
「素直にほめられたの、本当に久々だな。ありがとう」
「そうよね。おべっかとか、周りに合わせる賞賛は多かったけど、正直な気持ちを貰うのは…やっぱりいいものね」
「本当に、本当に、すごく綺麗で、キラキラしてて。旅の途中の辻でいろんな曲を聴いていたけど、ぜんぜん違った」
余韻にひたり、うっとりと記憶の音を反芻してしまう。そんなハルンツをみて、リリスはマダールに耳打ちする。
「ね、よかったら、ハルンツも何か弾いてよ」
「…は?」
夢から強引に起された感覚で、目の前の二人を凝視してしまう。素晴らしいと賛美した奏者から「何か弾け」とは、どういう事なのだろう。
「冗談、ですよね」
「ううん。その正直な感想を言うハルンツの音が聞きたい」
「左手のタコ、三線の弦を押さえるタコでしょ?」
リリスに指摘されて、思わず左手を隠すが、二人はニコニコと微笑んで三線を差し出した。
「あの演奏の後で弾けって、残酷だと思いますけど」
「大丈夫。下手なんて言わないから」
「音が聞きたいのよ。ハルンツちゃんなら綺麗な音を聞かせてくれそうで」
リリスの言葉に、勇気を持って三線を受け取る。
「もう、一ヶ月半も弾いてませんよ。祭礼に爪弾いていただけですよ」
軽く弓を引いて、弦の感触を確かめる。音を出し慣れた楽器が持つ心地よい柔らかさに、故郷に置いてきた楽器を思い出す。
手取り足取り、祭礼用の古典曲を育ての親のおばぁに教えてもらったっけ。
思い出が一瞬、脳裏によみがえって笑みを浮かべる。そうだ。あの曲にしよう。
「……… 」
息を吸い、軽く眼を閉じて、弓を引いた。
邦楽器の経験がある方は,突っ込み満載だったと思います。はい,作者には邦楽器はおろか弦楽器の経験はありません。それでもやってしまった…。二章では,察しの通り楽器演奏の場面が多々あると思いますが,笑って突っ込んでください…それでも気がすまぬ方はご指摘ください(泣)
ただ,三線とありましたが,三味線ではありません。架空の楽器です。モデルは三味線ですが,弓で弾きませんからね。民族色をだそうともがいた結果だと思ってください。