20 月夜の虹
寂れた宿屋に似つかない、この勢いある女中はハルンツの薄汚れた旅装を見ても眉一つ動かさなかった。
「一泊で?」
「一泊で」
「飯は?」
「幾らになりますか」
「朝晩付いてエリ銀貨一枚と銅貨が三枚ってところさね。湯屋は使い放題さ」
安い!そう心の中で叫んでしまう。ここまで探し回った甲斐があった。
その感情が顔にでたのだろう。女中は僅かに眉を上げて「ここで決めたか」といわんばかりに、桶に水を張ってハルンツの足元に置く。
荒っぽいが、手早い動作で草履の縄を解き足を洗い出す。されるままに腰掛けて、一呼吸おく。なんとか、今夜は湯浴みで体をほぐせして休めそうだ。
そう思った途端だった。
「こんばんはー。月夜の虹ですぅ。女将さんいます?」
よく通る甲高い声と同時に、女性が飛び込んできた。
「相変わらず流行ってない感じで良かったぁ。今晩お世話になります」
突然入ってきた彼女は、無茶苦茶な台詞と共に、外套を脱ぎだす。
「おんやまぁ。お前さんたち、今晩ここに泊まるんか」
「そうよ。ここ、安い上に湯屋使い放題だもの。ここに泊まらなきゃ東桑に着た意味ないわ」
そう言い放ち、頭巾を落とすと、波打つハチミツ色の髪が舞い落ちた。露わになった顔は日に焼けて褐色の肌をしている。明瞭に通る声にふさわしく、目鼻立ちがはっきりとした顔立ちだ。
外套を脱げば、その伸びやかな手足を踊るように動かしていく。軽やかに、誰もが眼を奪われる不思議な動きだ。
「お前さん達、運がいい。最後の一部屋が空いてるよ」
「ここでも満室になる事があるのねぇ。リリス、空いてるって」
「それはいいけど…マダール、本当に大丈夫?」
リリスと呼ばれた声が、身を屈めて戸口をくぐり入ってきた。
大きな灰色の外套の頭巾の下から、見慣れぬ金色の髪が零れ、光る前髪の奥から紫の瞳が心配げに辺りを見渡す。その顔の造作に相応しく、色形よい唇から太く低い男声特有の声を響かせた。
「この宿でいいの?」
「ここしか空いてないわよ。大丈夫よ。もう一月も経っているんだから」
土間に入ると、二人とも勝手知ったる動きで、奥から桶を取り出し水を張り足を洗い始める。
ただ、その影のある会話と、リリスと呼ばれた人物の異様さに、ハルンツは動けずにいた。
背丈も肩幅も、骨格も立派な男そのもの。そして咽ホトケを動かして出す声は太く低く響くのに、話す言葉は少女のように可憐だ。
「いらっしゃい。また必ずお見えになると思ってましたよ。まぁ、マダールさん、また女っぷりをあげましたね。こちらの人は新しい仲間?」
奥から騒ぎを聞きつけ出てきた中で一番上等な着物を着た年配の女性が、親しげに話しかける。
[こちらの人]とされたハルンツに、ようやくマダールとリリスの視線が回ってきた。
「マダールさんやリリスさんに負けず劣らず、可愛らしい子ですね。貴方は何を担当?今夜の宴が楽しみだわ」
土間が、静寂に包まれる。
「…あんた、誰」
「女将、この坊やと私達、別よ」
無遠慮な言葉でマダールと呼ばれる少女が、萌え出した新緑のような緑の瞳を見開いてハルンツを見る。
こいつ、誰…と思いっきり言いたげに、疑いの視線を身に突き刺してきた。
「この人の名前も知らないし。どういう事?」
「それはこっちです。ボクが先に泊まるってここに入ってきたのに、後から入ってきて泊まるって。困ります」
もう、この町に安宿はないだろう。財布の中身で泊まれる宿屋は、ここしかない。その切迫感で、二人の間に流れる空気が一気に張り詰められた。
「なんだ。あんたら、他人かい」
妙な抑揚の声が、緊迫した空気を吹き飛ばす。最初の女中が、宿帳と硯箱を持って戻ってくる。
大きな尻を「どっこいしょ」と揺らして土間に下りてきた。
「この坊や、あんたんとこの楽団じゃ、ないんか」
「違います!」
「おんやまぁ」
大柄な女中は、いきり立つマダールとハルンツを眺めて、おもむろに宿帳を捲りだす。
「月夜の虹て楽団、半年前に泊まったろ。ここの使用人じゃ、有名さ。異国の美少女と美男の変人と、李薗の三線弾きの美男子って。えーと…マダール、リリス、周趙健」
見知らぬ周趙健と名指しで呼ばれて、ハルンツは反射的に首を激しく振る。
マダールは、顔を見る間に真っ赤にしていき、首を振るハルンツを指差して叫んだ。
「趙健は、こんな野暮ったくないわよ!こんな子供じゃないし、そりゃあ、男っぷりもよくって、こんな、こんな…趙健の馬鹿ぁぁぁああああ!」
緑の瞳から、大粒の涙をポロポロ零して、突然叫び泣き始める。その泣きっぷりに、駆けつけた番頭や手代は戸口を閉め始め、女将は女中から宿帳を取り上げて奥に追いやり、マダールを宥めかかる。
その修羅場に、ただ立ち尽くしていると、横にリリスと呼ばれた美男の変人が足を拭って板間に上がりこむ。
「婚約を誓ったこの宿は止そうって言ったのに…彼女、まだ失恋引きずってるのよ。妙な事に巻き込んで悪かったわね」
「いえ、それはまぁ」
この騒ぎに、この泣き様で、迷惑とも言えずハルンツは、最大の関心を口にする。
「ボクは、今夜泊まれるんでしょうか」