17 旅立ち
枝に囲まれた空は、どんどん白を増していく。淡く赤味を帯びて光りだした空は、今日も晴天を約束している。
旅立ちには、ふさわしい穏やかな日になりそうだ。
「さて…」
一人呟いて立ちあがる。着物についた落ち葉を払い、深呼吸をする。
もう、これで終わりだ。未練ないよう、心の整理はついたのだから。
「ハルンツー!おーい!」
落ち葉を踏む乾いた足音も近づく。この数日で聞き馴染んだ声に驚いて立ち尽くしていると、体のあちこちに炭をつけた秀全が走ってきた。
「探したぞ!」
「…わざわざ探してくれたのは嬉しいけど…」
思わず口にしてしまった言葉に戸惑う。慣れない暗闇の場所を、懸命に探してくれた証拠に、掴んだ手の平は汗をかいていた。体から漂ってくる強い炭の臭いに、森を探し回った時間を感じる。
「もう、もう、ボクは戻れないんです!それで良いんです!」
「違うって。もう、船出したんだ。ほら!」
斎場の外、焼け出され遮るものがなくなった丘へ強引に引きずられる。
朝焼けの空と、白に赤に色を変えて光る海原。海と空しかない世界が広がる。
その海原の中、十数隻の丸太を幾つもつないだだけの質素な船団が、線を描いて沖を目指している。
真っ白な帆を広げる準備を始めたその船達は、沖に停泊した浩芳の貿易船と比べればあまりに小さい木の葉のようだった。
「夜明けに、船出するって、言ってたから、探してたんだけどな。間に合わなかった」
まだ肩で息をする秀全は、海を見下ろしたまま座りこむ。
「みんな、悪かったって。お前を長く苦しめてしまったって。すまなかったって、そう伝えて欲しいって」
「…待ってくれれば…よかったのに」
「顔、あわせれないってさ」
最後まで、人任せで伝言を頼むなんて。顔をあわせれないだなんて。
苛立ちと、それと真逆の感情がこみ上げてきて、思わず丘を駆け下りる。
後ろから秀全の声が聞こえたが、焼けた切り株や倒れて炭になった木々を飛び越えていく。
一目、顔を合わせなくては。
ただその衝動と、どうしようもない愛おしさで訳も分からず叫んでいた。
斜面を落ちる木の実のように駆け下り、砂浜を突っ切り、海へ飛び込んでいく。水の抵抗に足がもつれて、体が波にぶつかり壁となる。
「待って!待って!まだ言ってないじゃないか!勝手に行くな!」
もがくほどに、海が意思を持つように体にまとわり付く。
木の葉のように見えた船影は、近くで見れば思いもせずに大きく、勢いをつけて沖へと進んでいく。止まることも、遅くなることもなく、ますます勢いをつけて進んでいく。
「勝手に言いたいことだけ言っていくな!まだボクは何も言ってないじゃないか!」
ありがとう。ただ、その言葉だけでいいから。
色々あったけど、その全てに。ありがとうと、伝えたいのに。
腰まで浸かってもがき歩くハルンツの彼方、朝日を目指すように進む船影は見る間に小さくなっていく。
『あやつらも、悩んだんだろう。…海の底 深淵の底で眠るエンキよ 穏やかな波を与えたまえ。父なるエンリルよ その御息に幸福をのせ祝福の風を吹かせたまえ。行く手を遮るものはなし 陽は穏やかに注ぎ込み 潮は彼らを蜜と乳の溢れる土地へと導くだろう それは約束されたこと 定められたこと 彼らの航海に幸あれ…』
ダジョーの声が響くと、穏やかな西風が吹き始める。
真っ白な帆を張って船はさらに勢いをつけて進んでいき、やがて海と空の境界へ消えていった。
「やぁ、もう、キレイに何もなくなったねぇ。この浜を見て、海南道の兵隊は驚くだろうねぇ」
「そうですね」
「旦那様、暢気に言わないで下さい。ほら、そろそら時間です。奥様の船見えてきましたよ」
夕闇が迫った刻、沖の彼方に大きな船が近づいてきている。浩芳の船よりやや小ぶりだが、これも立派なものだ。
残された大天幕の下で別れの食事をしていたが、船影を確認し伝書を受け取った途端に片付けが始まった。
予定より遅れたものの屋敷で働く仲間も無事に合流できそうで、安堵の空気が広がり下人達も声には出さずに出発を急ぎ始める。
秀全は手際よく身の回りの物を纏めてしまい、いつのまにか茶菓子も下げられて残るは手の中の茶碗ぐらいだが、当の浩芳は茶を啜る速さすら変えない。
ハルンツは申し訳なく早くに片付けてもらい、ただ浩芳の横に座り相槌相手になっていた。
この浜で、浩芳の相手が出来るのは、ハルンツしかいない。なにせ、まとめるような荷物がないのだから。
「さて、ハルンツはこれからどこへ行くんだい?」
「とりあえず李薗から離れます。それから、どこか大きい神殿に学べればいいかなと…その、特には、考えてなくて…」
話すほどに、浩芳の視線がきつくなるのを感じて小声になっていく。何か、まずい事を言ってしまっただろうか。
どうも自分は時々変わった事を喋るようだと、この数日の経験で学び始めていた。
「ほらね。俺の言ったとおりだったでしょう。世間知らずに先の進路を聞いても困っているだけですって」
「うーん…今回は秀全の心配が当たったねぇ」
浩芳の茶碗を回収にきた秀全は、茶碗と入れ替わりに手早く浩芳に小ぶりな鞄を渡して走っていってしまう。
大人が使うにしては、やや小さい肩掛けの帯がついた革の鞄。
「ハルンツ。君は自分の能力にもっと注意と誇りを持つべきだと思う。君は朱雀の呪術師を二度も負かしたんだ。先祖のエアシュティマスの霊と同調したとはいえ、それはありえない事なんだ。ましてや、正式な呪術を学んでいない子供。そんな存在を、どの国家の誰も、放ってはおかない」
まっすぐに見据えられて、浩芳の瞳を凝視する。黒い瞳は、今までで一番の緊迫の色を含んでいる。
「君の共生者の能力は、一国の運命すら変えてしまうかもしれない。栄華を極めるやも、傾国の鍵になるやもしれない。言っている事が判るかい」
「つまり、ボクを使って戦争をすると?李薗が兵を向けてきたのも、そうなんですか」
そんな。まさか。
そう言おうとした口が、真剣な雰囲気の中で開けなくなってしまう。
戻ってきた秀全まで、神妙な顔で浩芳の話に耳を傾けている。
「それ以上の事態を考えたほうがいい。君は、自覚すべきだ。呪文のみで精霊を動かすなんて業は、エアシュティマス以来なんだから。君の存在は、朱雀家から世界に伝わる。想像以上の速さで、君の周りの全てが変わっていくはずだ。ニライカナイへ旅立った村の皆も大変だが、一番危険で大変なのは君なんだ。全てから逃げて身を護らなければいけない、ハルンツ君なんだよ」
『そうだな。うん…この者は、なかなかに鋭いぞ』
「…今まで、信用してなかったんですか…」
「ハルンツ?」
突然に視線が宙に移り喋りだしたのでギョッとした顔をした浩芳と秀全に、ハルンツは慌てて首と手を振る。
誤解だ、間違いですと。
「そこに、浩芳様とのこの間にですね、いるんです。ダショー様が。エアシュティマス様が」
「ここに?」
「見えませんか?」
腕を組んで偉そうに、ここに立っている。とても偉そうに。
目の前に、黙っていても偉そうなのに、さらに尊大な口調で喋っている。
『そう簡単に姿を見せる訳ないだろう。私はそんなに易い存在ではない』
「そんな…。こないだの、術比べの時は皆に姿を現したじゃないですか」
『あれはお前の危機だったからだ。お前以外に姿を現す理由など無い』
「理由がないって…。皆に見えなかったら、今のボクはに一人で喋っている馬鹿じゃないですか!」
『その通りだが、しかたあるまい。私はお前以外に姿を現すつもりは無いぞ』
「そんなぁー」
『それから、私の事はダショーと呼べ。エアシュティマスやらソンツェの単語をむやみに出せば、お前の身が危なくなるからな』
「…ダショー様…あんまりですよぉ」
語られていく衝撃の言葉に、ハルンツは肩を落としてうなだれる。これ以上の悲劇があろうか。この偉そうな先祖霊は自分にしか見えないし、喋り返せば一人芝居にしか見えない。返事をしなければ、怒るだろうし。ともかく、厄介な道行になりそうなのは簡単に想像できる。
「そうか。エアシュティマス様は君と共にいてくれるのか。よかった。これ以上の安心はないよ」
『当然だ。私がついていて身の危険などある訳なかろう』
力づけるつもりで浩芳は肩を叩いてくるが、同時に自信に満ち溢れる返事が虚空に流れる。
まだ衝撃から立ち上がれないハルンツに微笑みかけ、浩芳は鞄を差し出して中身を説明しだす。
村人が最後の心づけとして置いていった食料の干し芋。僅かな路銀。何足もの草履。
「それから、これは私からのも。少しだがこれで足りるだろう」
ハルンツが口を挟むまえに素早く一つの包みを鞄にいれ、もう一つの包みを懐から出して手に押し込めてくる。
「紹介状だ。クマリの大連の一つ、昴家へ行きなさい。道中決して人に見られないように、落とさぬように気をつけて。必ず昴家に着いてから家の者に見せなさい。いいね。昴家だよ」
真っ白な紙に、流れる筆使いで書かれてある。達筆すぎて読めないハルンツがダショーを見上げれば、微笑んで頷かれる。大丈夫ということなのだろうか。
何度か二人の顔を往復してから、勇気を出して問うてみる。
「あの、なんでこんなに良くしてくれるんですか?いえ、疑うんじゃなくて、その…浩芳様と昴家って、どんな関係なんですか?」
「うん、もっともな疑問だ。このぐらい慎重でいいんだよ。さて、どう答えようかな」
楽しそうに頷いて、浩芳はゆっくりと夕日と夜の帳に包まれていく沖の方を見つめながら答えた。一艘の小船が、浜に向かって漕ぎ出している。
「私の祖母は、昴家の出身なんだよ。私の中に生粋のクマリ族が持つ共生者の力が、ほんの僅かに混ざっているんだよ。だから君の力に早く気付く事が出来たし、玉獣を扱えるんだ。そのクマリ族ではエアシュティマス様はソンツェという名前で昴家の一人だと伝えられている。もしそうなら君と私は、遠い親戚にあたるかもしれない。それが本当なら、素敵じゃないか」
下弦の月と星空の下で鎮守の森の丘から見下ろす先、二艘の船が漕ぎ出していく。
真っ黒な海だが、満天の星空さえあれば、玄人の船乗りには障害になりはしない。追っ手の目を欺くには、夜の船出はもってこいだ。
「浩芳様達、無事にエリドゥに着くといいですね」
『まず自分の心配をすべきだな』
現実を突きつけるダショーの言葉に、思わず苦笑してしまう。
本当に、大変なのは陸路を歩いていく自分なのだ。
頼りになるのは、先に浩芳から貰った鞄の中身。村人の出してくれた僅かな路銀と浩芳から貰った多すぎる餞別。昴家への紹介状。
初めての旅を、自分の勘とダジョーの助言のみで行くしかない。肩から提げた鞄の紐を、無意識に握り締める。
『さあ、クマリへ行こう』
「はい。…そうか、ボクはダショー様と故郷へ帰る事になるのかな」
『そうだな。もう帰ることはないと思っていたが、幾千夜万夜の果てに帰るとは…』
夢で見た横顔を見せ、ダショーは眼を閉じた。
たった一人で、この時を待っていたんだろう。帰れないと覚悟しつつ。従う者への想いを引きずりながら。
「一緒に行きましょう。見せて下さい。ボクの魂の故郷を」
『…おう。共に行こう』
この瞬間は、一生忘れないだろう。後悔をもって思い出すか、喜びをもって思い出すか、全てはこの先にどの道を行くかで決まっていく。
途中の山も沼も不動のものだけど、どの選択をとるかは自分の意思だ。ボクは、自分でこの道を行くと決めるのだから。
船に背を向けて丘を下る。
東へ、山脈を越え、大河を越えて、遥か先のクマリへ。ボクは一歩を進みだす。
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