16 決意
大広間は、静まり返っていた。
鼻につく椰子酒の臭いが、ハルンツの中の感情に火をつけていく。周りを取り囲む村人の戸惑いと苛立ちの雰囲気に、理性の壁が耐え切れずに崩れていく。
これを口にしては駄目だ。頭のどこか彼方で警告の声がしたが、感情の渦が底へ巻き込んでいく。深く深く、意識の底へ、警告を引きずりこんでいく。
「ボクもダショーも、誰のものでもないんだ!帝のモノでも朱雀のモノでも、この浜のモノでもない!だから、ニライカナイには、行かない!行くなら、勝手に行け!」
思わず振り切った腕から、弧を描いて人々へ茶碗の酒が振りまかれる。その動きで、自分が何を喋ったのか、気付かされる。言ってしまった。高まった胸の鼓動が微かな不安を呼ぶ。吐き出した息の熱さが、さらに興奮を呼び寄せる。
「分かって言ってるのか?ハルンツがいなけりゃ、どーやってニライカナイまでいくんだ。大体、伝承にしかない島なんだぞ。本当にあるんだか判んねぇのに」
「ニライカナイはあるよ。島はある。だからここにボクらがいる。星見の航海術は、この村に伝わっているじゃないか。一度外洋にでたから、その術が残っているじゃないか!なんでそんなに人に頼るんだ!」
村の若衆の中でも一番の頭が、一歩進んでハルンツを見据える。詰め寄る頭の瞳の中に、ハルンツは自分の顔を見ていた。
夢で見たダショーと同じ青を含んだ瞳が、目尻を引き上げて睨んでいる。
「俺達が、人に頼ってるって?なんだそりゃ」
「浩芳様は、たまたまこの村を訪れていただけなのに、船支度まで手伝ってもらってるし。ダジョーが消えたら僕について来いって、都合よすぎるじゃないか!そんな勝手、ボクは付きあわない!」
「てめぇがここに居たから、この災難がきたんだろう。何とかしろよ。この村に災難を呼んだのは、ダジョーの子のお前がいたからだろう」
頭の瞳にあるのは、苛立ちと恐れ。あぁ知ってる。この瞳に、今まで縛られてきたんだ。
「この血は、ダジョーの血はこの村の皆に流れてるじゃないか。だから、帝は朱雀家を使ったんだろ。この災難はこの村皆の問題なんだ。だから、みんなはニライカナイに逃げればいい」
荒ぶる気持ちが、話すたびに研ぎ澄まされていく。今、自分は大切な決断をしようとしてる。
そう、心が気付きだす。警告は、これまでの自分の世界が変わる予兆。これが、きっと選択の時。
自分の道を選ぶのか、否か。
「ボクは、この浜を出る。世界を見る。自分の力を、見つける。ダショーの血が狙われるなら、返り討ちにする。そのための力を手に入れてやる」
それで、この苛立ちと恐れと嫉妬から、全て断ち切ってやる。
ボクを取り囲むこの村人から、全てを頼る村人から。ボクは自分の道を選ぶ。
「浩芳様、ご迷惑をおかけしました。父さんと村人がかけた迷惑を、忘れてくれなんて都合いい事言えませんが…出来るだけ償いますから」
まともに顔を合わせて謝れず、思わず顔を背けて大股で歩き出す。人垣が真っ二つに割れて道が作られていく。
「待て!ハルンツ!お前、トンサを置いていくんか!お前の父親だろう!」
しわがれた声に振り返ると、ぽっかり空いた布団の場所に、長老が立っていた。
肩で息をして立ち尽くしていた。枯れた手足に、何度同情しただろう。その罵声に、何度縋ろうとしただろう。思わず、ボクの口に苦笑いが浮かんでしまう。
「いまさら…長老だって、トンサは父親じゃないと言ったじゃないか。ボクが出て行くからって、そんな事言わないで下さい。何時だって、助けて欲しかったのに、誰も助けてくれなかった。怒鳴られても、殴られても、皆知らない顔してたじゃないか。みんな、人任せで自分の事しか考えてないじゃないか。みんな、父さんと同じ瞳をしているのに。みんな、父さんと同じじゃないか」
立ち尽くす長老を振り切り、前を見据える。天幕の外で、夜明け前の闇の中に父さんが立っていた。
出会った時はこの村一番の荒くれ者でも腕の立つ漁師だった。でも、この一年で漁にも出ず酒に溺れた代償に、筋肉は衰え贅肉をつけていた。屈強な浜の男の面影はなく、澱んだ瞳でこちらを見て驚き立ち尽くしていた。
この日が来ることを、心の隅でどれだけ願っていただろう。
殴られるたびに「ずっとこのままだ」と思っていた。罵られて、遠見をさせられて、殴られて、それがこのまま続く毎日だと思っていた。いつまで苦しみが続くのかと、考えるたびに自分の心の柔らかい場所が血を流していた。
まさか、占い師をさせられた事で村の崩壊を招くなんて、ニライカナイに逃げなければいけないなんて、こんな結末になるなんて。
「ハルンツ、お前…ドコ行くんだ」
「おばぁに、別れをしてきます。それが終わったら、この村を出る」
「この村出て、どこ行く。お前に行く場所なんて、あるんか」
「呪術を学びに、どこか神殿のある街へ。ここじゃないトコに行く」
まっすぐに、外へ向かい歩く。たじろぐようによろめいた父さんの前に立ち、いつの間にか背丈が並んでいることに気付く。去年、初めて会った時は見上げていたのに。
「…さよなら」
近くの篝火から一本の薪を手に取り、海と天幕に背向けて前を見据えれば、真っ暗な夜明け前の森が広がる。
一歩踏み出すたびに、天幕の明かりは小さくなる。砂浜は、離れていく。
鎮守の森の終わりに、ぽっかりと樹が生えずに広がる場所がある。
村中の大人が入れば一杯になるその空間に向かって、樹は祝福するように枝を伸ばして茂っている。昼間なら木漏れ日が神秘さを強調する場所に,夜明け前のほのかな明るさが漂っている。
楊燕に森の大部分は燃やされたが、この斎場だけは燃えずに残っていた。辺りにはまだ炭の匂いが漂っているが、樹や草自体から蛍火を発光してるような感覚に襲われる。
先の墓参りで薪の火を消してきて良かった。ここで明かりは不要だ。中心に座り、空を見上げる。夜明けの空は、優しく色を変えていく。
秋と春の祭りで斎場になるこの場。まだ小さい頃は祭りの時だけ見る大勢の村人に、ひどく怯えておばぁにしがみ付いていた。
握り締めたおばぁの皺くちゃで冷たい手。いつもつけてた薬草の臭い。禁忌で顔を隠す為に薄布を巻いたハルンツを、好奇心で覗き込もうとする子供達のざわめき。
全てが閃光になって脳裏を駆け抜ける。残されるのは、溜息のみ。
別れをする?それは自分の一方的な行為だ。もう、おばぁはここにいない。違う所から自分を見守っているはずだ。
沢山の遠見をしてきたボクが、一体なにをしている。自分の気持ちを慰めているだけだ。所詮、ボクも自分が大事な村人と変わりがない。自分自身のことしか、考えてないじゃないか。
だから、村を出るんだ。自分の欲求を叶えるためだけに、村を捨てるんだ。
『泣いておるのか』
突然の声とともに、半透明の幽体が顔を上から覗き込んでくる。見知ったその顔に、思わず口元が緩む。幽体が話しかけてくるなんてひどく不自然な事なのに。
「ただ、綺麗だから。ここから見上げる空は、すごく綺麗だから」
『…そうだな。ここは心地よい。しかし…このまま村を出てよいのか?』
「この村を出るのは、ボクが望んだことだから。ずっと待ち望んでいたんだから。気にしなくて、大丈夫。貴方は、誰の人生も狂わせていない。みんな、自分の意思でニライカナイへついて行ったんだろうから」
『…そうか。先の術の同化で私の思い出を見たんだな。だから、先に私を庇うようなことを言うたか…』
「ただ、ただ、あのまま黙っていられなかったから。結局、これはボクの我が儘なんだから…」
世界を見たいという衝動。呪術を学びたいという欲求。ダショーの子として背負うものから逃げたい欲求。
ボクは、これから一生、自分の欲求と衝動に従った後ろめたさを背負っていくんだろう。