14 夢と幻
真昼間の白い砂浜で、幽体がきっぱりと宣言をする。
「即刻、街道を南下する一万の兵を撤収させよ。そなたらも今すぐこの村から立ち去れ。エアシュティマスの名において、雷を落とすぞ」
言い切る勢いに押されるよう、天幕から下人たちが飛び出していく。
「天幕は捨て置け!各自の荷物は置いて置けばよい!殿下の身の回りの品を、持てるだけ持って行けい!」
「輿はまだか!早よう殿下を連れていけ!」
沈む船から鼠が逃げていくように、一目散に大きな荷物を抱えた下人達が走っていく。
もう、この村にこれだけの人が集まることは、二度とないだろう。そう思えば、確かにこの村は沈んでいく船だ。海底深く沈んで、人知れず秘境になっていく。
「ようやった。初めての呪術、しかも説明もなしに相手と同調して呪術を行う離れ業、ようやった」
視線を上げると、エアシュティマスと名乗った幽体が微笑んでいた。触れることのない半透明の手が、そっとハルンツの頬をなでていく。
「さすが私とナキアの血を引く者だ。ダショーの子だ」
頬にありえないはずの温かみを感じた途端、逆らえない眠気が襲い掛かってくる。
ハルンツが思わず砂浜に座り込むと、浩芳と秀全が駆けてくるのが落ちていく目蓋の隙間に見える。
「安心しろ。そなたには私がついている。私と共にクマリへ、エリドゥへ行くぞ」
その声に誘われるように、ハルンツは意識を離す。地の底へ吸い込まれていく眠気に従い、体も共に落ちていく。
「とうとう、ここまで来てしまったな」
「ソンツェ様」
「私をソンツェと呼ぶ者はおじぃだけになったな。なんだ。泣いておるのか」
夕闇に染まる砂浜に、二つの人影が見える。背が高い若々しい声の男と腰が曲がった老人が、波打ち際で海に沈む夕日を見つめていた。
ハルンツは見慣れた海岸に僅かな違和感を感じて周りを見渡す。
「ブラフ大陸の果てにこんな美しい海があったとは…ナキアに見せたいものだ。クマリもエリドゥも美しい夕日だったが、ここはまた格別だ」
「しかしソンツェ様。なにもこのような僻地に逃げなくてもよいではありませんか。クマリへ、神苑へ行きましょう。どの宮家もソンツェ様の帰還を待ち望んでおられます」
「私が帰ればクマリが攻められよう。エリドゥは私とナキアの血を許すことはない。戦をおこしてはならぬ。争乱は退廃しか生まぬ…いや、これは私の心を偽る方便だろうな。私の一時の我が儘でたくさんの者が泣いたのであろうな。すまぬ…おじぃ」
影しか判らない二人の会話が、打ち寄せる波音に消されそうになりながらも聞こえる。
海辺の影の向こうに広がる違和感。沖にある大岩がはるかに大きい。端に広がる鎮守の森が林のように小さい。なにか、おかしい。
「父上ぇー」
「皇子様、お待ちください」
甲高い子供の声と共に数人の女が駆けてくる。小さな影は全速力で高い影めがけて走り、飛び込んでいく。
受け止められる事を当たり前と思っている行為。相手がどんな事をしてでも受け止めてくれると、信じて疑わない行為。その小さな体全てを使って父親に親愛を伝えていた。
「また移動するとは本当ですか?吾はこの浜が気に入っております」
「うん。父も気に入っておるが…この海の向こうにいけば、もう大丈夫だ。そこで終わりだ」
「海の向こうは、もっと素敵でございますか?」
「そう。ずっと素敵だ」
父親の言葉に気をよくした子供は、首にギュウとしがみ付く。
「共に行こう。ニライカナイは、きっと良い所だ」
幾つもの影は、しばらく海に沈む夕日を眺めていた。背の高い影に従うように、動くことはない。波音だけの静寂に、再び砂を蹴る音が駆けてくる。
「エアシュティマス様、夕餉の支度が整いましてございます」
「うん。では夕餉とするか」
小さな影を抱いたまま、エアシュティマスと呼ばれた高い影が振り返る。
「今宵の魚は吾が釣りました!」
「それはすごい。父に食べさせてくれるか」
「はい!でも、吾も食べとうございます」
「はは。よいよい、半分づつだ」
和やかな雰囲気の中、影が動きだす。夕日と影の加減でエアシュティマスともソンツェとも呼ばれた影の顔が見える。常に口元に浮かべる微かな笑み。切れ長の目元。その瞳は、驚くほど鮮やかな青。
嗅ぎ慣れた魚油の臭いが鼻をつく。ゆっくりと広がる視界に、自分が寝ていた事に気付いた。
妙な、夢を見ていた。
「この浜も安全とは言えない。すぐに移動しましょう」
「まさか。一万の兵が戻ってくるんですかね。ダショー様にあれだけコテンパンにされたんだ」
「あの後、すぐに春陽へ早馬を出したはずです。帝がこの村を…ダジョーの血統を諦めるとは思いません。もう一度、改めて追討の指示を出すはずです。その前に逃げるべきだとおもいます」
耳に飛び込む討論の声。幾人もの囁き声。見慣れぬ白い天井。
寝たまま辺りを見渡せば、昼間に楊燕と伎妃が寛いでいた大天幕の間にいたことに気付く。
高価な敷物に、村人達が車座になって話し合っている。砂浜には幾つも松明が燃え盛っている。まるで大漁祭りのようだ。
ハルンツがまだ夢でも見ているような浮遊感に襲われながら起き上がると、気付いた村人が声をあげた。慌ただしい足音がしたと思えば、おばさんが何人も皿を持って駆けてくる。薄汚れた足で、敷物は砂にまみれていく。
「ほら、まず水飲みな。ゆっくりだよ。ゆっくり」
念を押されて茶碗一杯の水を渡される。なみなみと注がれた水面が揺れている。自分の手が揺れているのに気付くと同時に、ひどく懐かしい声と共に大きな手が両手を包むように添えられた。
「二日ぶりの水だから、体を驚かさないようにな。まず一口目で口と喉を潤せ」
秀全さんと、言いかけて喉が張り付いてしまう。
太い眉が八の字に困ってしまうのを見ながら、ゆっくりと茶碗が傾かれるに任せて流し込んでいく。
清らかで甘い。あまりの心地よさに二口目を急いで、咽てしまった。
「ゆっくりでいいぞ。とりあえず、飯食え。疲れを取らなきゃな」
「そうじゃそうじゃ。この村を救った英雄じゃ」
「お疲れさんだったなぁ。まず休めや」
周りに集まる村人達は、口々にそう言って笑顔で覗き込んでくる。おばさんは湯気の立つ芋粥を差し出す。おじさん達は陽気に踊りだす。同じ年頃の子供達は、物珍しげに近くに寄ってくる。
今まで、ダショーの子として隔離されてきたのに、この変わりようは何なんだ…。