13 貴人
「貴様偉そうに…名を名乗れ」
「そうさな」
風に乗るようにゆったりと、半透明の衣を揺らめかせて砂浜に降り立つ。真昼の太陽が照りつける場に、幽体が存在する。そんな光景にハルンツは目尻から涙を零しながら見蕩れていた。
これが幻でない証拠に、浩芳も秀全も逃げ惑っていた村人も異様なこの光景に釘付けにされている。
「幾つも名があった故、忘れてしまった。もう、何百年も経ってしまったな」
切れ長の瞳が、興味深そうに辺りを見渡す。まだ浩芳ほどの歳ではない青年の姿で、緊迫した雰囲気を楽しむかのように笑みを浮かべていた。
「さて、呪術を使う心得とは、なんであるか判るか」
「は…?」
突拍子も無い台詞に、楊燕の眉間に深い皺が出来る。細い眼がさらに細められる。
「無心であることよ。精霊を意のままに扱ってやろうなど、恐れ多い事は考えてはならぬ。女、そなたは大きな過ちを犯したのだよ」
結い上げた髪を揺らすように周りを飛ぶ風の精霊が、幽体の差し出す手で遊びだす。
「この世の法則の中で、神と精霊の御力をほんの僅かに貸してもらう。その心がなくては呪術は扱えぬ」
「無…無礼な!そのようなこと、稚児でも知っておるわ!」
「知っていても、出来なかった。でなければハルンツに負けなかっただろうよ」
「貴様!」
激情する伎妃を尻目に、幽体は振り返る。
この人は、誰なんだ。
「ハルンツ。先程の大祓は見事であった。さすが私の息子よ」
知らない。この人、知らない。
「誰なんだ」と眼で問いかけてくる浩芳と秀全に首を振る。
「私は手を貸さぬが、口は出す主義。この場を使い、一つの呪術を教えよう。私の声に全てを委ねろ」
いいのか。この人に従っていいのか。
息子じゃないし、そう、ボクの父親はあそこで腰を抜かしているじゃないか。
「大丈夫。お前はダショーの子だろう。なら、不可能などない。精霊が常に見守っているのを感じるだろう」
この人,ダショーだ。
微笑む眼差しに、確信した。
ボクのご先祖。この血の始まりの人だ。
「さあ、大祓の時の気持ちを思い出せ。全ての気配と音に身を委ねろ。その身を共鳴させろ」
そうだ。やれる事があるのなら、全てをやってみよう。ボクを信じてくれるこの眼差しを、ボクも信じてみよう。不可能などない。目の前を変えたければ、自分の出来る事を全てやるんだ。ね、おばぁ…。
「さぁ、私に全ての意識を集中してみろ。一字一句、抑揚と気の込め方の全て、伝授しよう」
笑い出す膝に、力を込めて立ち上がる。
空を見上げる視界の端で、浩芳が秀全を引きずるようにハルンツの背後に引っ張っていく。
深い深い青空は、吸い込まれるように澄み切っていた。海底から見上げる魚のように、ボクも見上げよう。包み込む大気に同調しよう。
意識が、広く浅く深く、浸透していく。
「常夜の闇を纏う冥界の女神エレシュキガルよ 金星の姉よ 冬の寒さと暗闇に君臨する女王よ」
「常夜の闇を纏う冥界の女神エレシュキガルよ 金星の姉よ 冬の寒さと暗闇に君臨する女王よ」
背骨の芯から凍りつくかのような冷気が漂ってくる。黒い霧が空気の粒子の間から、湧き出るように染み出てくる。闇の属性を持つ精霊。
「楊燕様、妾の後ろへお入り下さい!結界を張ります!」
素早く砂に指を走らせて円陣を描く伎妃の気迫に、楊燕が錆びた刀を握ったままに従う。
呪文を唱えながら、精霊文字を幾つも書き連ねていく伎妃の指先が僅かに震えている。
楊燕はようやく気付く。帝国の歴史で、触れてはいけない陰の文書に書いてあった文が脳裏をかすめる。
『帝国の祖はリ。 されどその事実に触れることなかれ。クマリは李薗の崩壊の牙を秘める虎。手を出すことは凋落の始まりなり』
「「エレシュキガルの僕、夢幻の精霊よ 闇夜の力を授けよ その片鱗をもって」」
「「この者達に 自らの所業を見させよ ガルラの力で 縛せよ 縛せよ 束縛せよ」」
この村の祖は間違いなく麿と同じエアシュティマスだ。この幽体は村の血はクマリと言った。ではこの幽体の正体はなんなのだ。圧倒されるこの魔力はなんなのだ。それではまるで…エアシュティマスはクマリ族となってしまう。あの忌み嫌うクマリ族が!帝国の歴史が矛盾してしまう!
「「縛せよ 縛せよ ガルラの闇の力で 縛せよ 縛せよ」」
円陣を囲む黒い霧が一層、濃く深くなっていく。砂に書かれた精霊文字の一部からも霧が立ち上る。
目の前で呪術を行う二人が、幽体がエアシュティマスだと言うのか。すでに二人の言葉が重なり合い復唱しているハルンツは、完全に幽体と同調している。
「「束縛せよ」」
「楊燕様ぁ!」
伎妃の絶叫に敗北を知る。漆黒の闇に、視界を奪い取られた。
「なにが…起こったんだ…」
秀全の目の前で、何処からか湧き出した黒い霧が二人をつつみ、絶叫と共に霧の中から倒れた二人が現れた。
突然の展開に、浜辺で目撃した群集は、逃げる事も忘れて見つめていた。
「おそらく、幻覚を見ているんだろう。自分が今までやってきた行為を、罪を見させられているんだろうさ。この二人だから、よほどの悪夢だろうね」
「悪夢、ですか…。いつ目覚めるんですか?」
背中に火傷を負わされたのに相手を気遣うような秀全に、浩芳は苦笑しながら幽体を見上げる。
先とは別人のような和らいだ眼差しの幽体が答えた。
「三日三晩、見続ける。大丈夫だ、命までは取らん。…半分とはいえ…ナキアの血を引いた子孫を殺しては、冥界に落ちてから責められるやもしれんからな。そこの男。この李薗の家人、さっさとこいつらを持ち帰れ」
幽体がそう言い放つと、弾かれたように家人と下人が天幕から飛び出してくる。恐る恐る円陣に近づき、すでに崩れているのを確認してから担いでいく。一番安全と思う天幕の中へ運んでいく。
「家人よ、時の帝に伝えよ。この村の血を一滴でも流せば、宮中であろうが祟ってやる。クマリに刀を向けるのであれば、私が前に立つと」
「…殿下になさった事を繰り返すのか。妖の者よ」
「妖の者?ふふ…そうか、この世は随分と時が経っているのだな」
幽体は泣きそうな顔を一瞬だけ、見せた。ゆっくりと浜辺を見渡して、胸を張って言い放つ。
「私の名の一つはエアシュティマス。死後はダショーとも呼ばれたようだがな」