10 術比べ
雨を降らす事も山を動かす事も出来ない。出来ることは遠見だけなのに、それ以上の事をやらなくてはいけない。
やれるのか?無理じゃないか。でも、無理なんて言えない。もう、報酬を父さんは貰ってしまった。そして多分、もう使い込んでしまったに違いない。
貴人と見物人を前に、この時間が来てしまった。
頭上に広がる暗雲が雨を降らしている。
子供だから出来ないのなら、どれだけいいだろう。もしそうなら、あと幾夜寝れば、大人になれるんだろう。何十夜と経てば、貫禄ある大人の体格になるだろうか。何百夜と経てば、少しは知恵がつくだろうか。幾千夜も経てば、呪術を操る知恵もつくだろうか…それは、無理か。
自分で考えて、思わず口の中で笑ってしまう。伎妃は術を都の神殿で学んだというのに、時間が経つだけで出来るようになると考えるのは、変だ。
「自分でやらな。練習せんと遠見が出来るのはダジョーの子だからさ。他は自分でやらな、なぁんも出来んじゃろ」
そう言われてボクは食べるために釣りを覚え、魚を裁いた。ダジョーの子として生きるためと、祭文の読み方をおばぁが教えてくれた。
時が過ぎるだけで、出来るはずはない。荒れた手を見下ろす。指先の皮が切れた手は、まだまだ細い。いつか大きくなって、この手で何か出来るだろうか。
でも、今は出来る事をするしかない。するべき事、出来る事を、誠心誠意もってやるしか、ボクには道はないのだから。
眼を閉じて空を見上げよう。額に落ちる雨粒に、精霊の苦痛を感じろ。そう、さっきの術で精霊のバランスは崩れてしまった。水が空に在りすぎる。
「八百万の神々の 住まう天地 深淵の果て 全てに響かせ轟かそう」
ボクの知っている数少ない祭文の一つ「大祓」。大晦日に清らかな新年を迎える為に謡う祭文。一年の罪穢れの全てを清めるこの祭文こそ、この場にきっとふさわしい。
ボクに出来る事は、心を込めて謡うこと。
唱える言葉一字一句に命は宿る。ボクという器で発した振動は全てを包む波になる。小さな波は、ゆっくりと響いて整える。
全てのモノをあるべき姿へ、あるべき場へ。それは定められた事。それが美しい世界の理。
「天地合わさる果てにまで 全てを包む風に乗せ 汝の僕ハルンツは謡いましょう」
「これは、大祓の祭文ですよ。この場でコレとは…物知らずにも無礼にも程がありましょう」
耳に微かに届く非難の言葉に、僅かに気がそがれる。
雨粒の向こうからの蔑む視線を肌で感じる。場違い、そんな単語が頭を掠めてしまい薄く目を開ける。
降り注ぐ雨に視界を奪われながら、そっと眼だけを動かし辺りを伺うと、脇息に身を寄りかからせた伎妃の顔が強張っている。紅が引かれた唇が合わさることなく小刻みに震えている。
「すごい……」
秀全の呟きが微かに聞こえた。
その途端、揺れた心が固まる。
大丈夫。自分がやっている事は場違いではないはずだ。根拠のない自信が溢れてくる。
そうだ。大祓を行う自分に迷いがあってはいけない。真っ白な心で、ただ、心地よいこの響きに身を任せよう。
精霊の唄に、自分の声を重ねよう。ボクが精霊達と共鳴するその瞬間の快感に、身をゆだねよう。彼らの力を、感じよう。
全身を打つ強い雨足はすっかり勢いを削がれて霧のようになってきたのを感じる。全身、そして感覚で感じる。吹き始めた風は、穏やかで澄み切っている。
朗々と響いていく自分の声に、酔っていく。
「天道そびえる十二の宮 巡り巡り六十支 永久の契約の下 吾は叫ぼう 汝の威光を栄光を エンリル その御力は世界を回す その慈悲の下 吾らは従いましょう」
一句一字唱えるたびに、精霊達があるべき姿に落ち着いていくのを感じていた。眼を閉じたまま、ハルンツは全てを感じていた。
風は神の息吹。そう、気ままに宙を舞うべきだ。
従うべきは、作り上げられた法則。人間ごときに、使役され続けるものではない。
「これをもって 全ての終わり 全ての始まりとする この拍手は 拍手でなく 神の御息吹なり 鼓動なり」
ハルンツの手が、拍手を打つ。たった一回だけの拍手。
震えた空気は、整えられて凛と光りだす。輝く太陽が、頭上からハルンツを照らし出す。
肌に陽の温かみを感じて、そっと眼を開けた。黒雲は切れ切れに空を流れ、雨の残りが霧のように風に運ばれていく。空気は冷えて澄み切っている。
なんて、きれいなんだろう。この砂浜も空も、こんなにきれいだった。ただ、本当に気を込め祭文を謡ったら、こんなにも世界が清らかに変わった。
これが大祓の意味。呪術の真意。
…知りたい。もっと呪術というものを知りたい。
自分がどこまで出来るのか、知りたい。
この世界に、どんな知恵があるのか、知りたい。
この空の下に世界が広がっているのならば、世界というモノはとてつもなく広いものだろう。
自分の目で、見てみたい。
「ご苦労。見事な大祓であった」
「っはい!」
天幕からの言葉に、慌てて砂浜に頭を付けて平伏する。ぼんやりと立っていて気付かなかったが、座ったとたんに逆らえない程の疲れが押し寄せる。