霧ノナカ
三日間は毎日警察に呼び出された。
事件の事もそうでない事も、根掘り葉掘り聞かれた挙句、同じ問いに何度も答えさせられる。
疲れ果てたが、無職になってしまった那智は、家で殺人天使といるより警察でいた方が随分ましに思えた。やたら明るい殺人天使の態度も鼻に付く。
真面目くさった若い刑事の話は十回以上繰り返されていて、次の言葉もわかる位だ。
デリヘルのオーナーがヤクザ紛いだった事、それを知らずに働いていた那智に対する説教。
知らない訳などない、警察に引っ張られたら知らないと言えと言われているのだ。
あの店がどれだけ違法で、どのくらいの金がヤクザに流れていたかの説明。
(タバコ、吸いたいな……)
貧乏ゆすりをしながら、刑事の顔に一瞥をくれる。刑事の言っている事は正論で合法的で人道的だ。これぞ正しき道というものだ。そんな事思ってもいないくせに。
これは刑事としての自分を取り繕う『タテマエ』と言ったところだろう。誰にでもこんなことを言う、決まり文句のようなものだ。なんだか那智は急に馬鹿らしくなった。
横で机に腰掛ける殺人天使に気付きもせず説教を垂れるこの刑事にも、刑事がいる事で、デニムパンツの後ろポケットに入ったタバコを取り出すことすらできない自分にも。
綺麗な殺人天使にも。何が正しいのかさえ、よく解からなくなってきた。
「ヘヘヘ……」
笑いが漏れた。
その刹那、那智は髪を掴まれ机に何度か顔を打ち付けられた。
「やめとけ! 未成年だぞ!」
声が聞こえた時、机に赤い色がポタポタと零れる。
鼻血か――
(俺に流れているものは、あんなにきれいにあの人を染めるのだろうか……?)
刑事は、鼻血をなかったことにする代わりに、今日はすんなり帰してくれるという。
その話を飲んで、解放される。
ご丁寧に家まで送ってくれるという話を丁重に断って、警察署の外に出てみれば、案の定殺人天使がニコリと笑って手を挙げる。那智はそれから眼を逸らすと、駅に向かって歩き出す。
「なあ」
後ろを付いてくる殺人天使に、振り向きもせず声をかける。
「なんだよ、珍しいじゃん、お前から声をかけて来るなんて……」
嬉しそうに近寄ってくる。
「今後、俺に付きまとうなら、ちゃんと話してくれないか。アンタが何者なのか」
那智の言葉に、いつもにやけた顔に真顔を作って那智を睨むように見つめた。
「そう望むなら…お前さ、クソみたいなお安い価値観とやらを捨てて、『アタマ』をフラットにして聴きやがれ!」
「何だそれ……?」
突き出された人差し指を払い除ける。
「お前にはクソでも、こっちはそれを信じて生きてきたんだ……。自分が今ここにいるのはその物差しがあるからだって思っている。 それを捨てろって言われて、すんなりいくと思うか?」
「すんなりいこうがそうでなかろうが、そうでもしねえと俺の事なんか理解できるかよ」
口角を片方上げた嫌味臭い笑み。顔まで傾いて那智をバカにする。
その顔を睨み付けて何も言わない那智。
「まずは、己の存在を否定しろ。そっからだ」
もう怯まない。そんな言葉には――
「じゃあ己の存在って何かって教えてくれよ」
那智が半ば挑戦的に言うと「へえ」と殺人天使は嬉しそうに笑う。
そう来たかという所か。
「自我だよね。お前自身だ。信じてるだろう? それがどこにあるんだよ? ん?」
「ここにある」
那智は頭を指差す。
「ほう。で? それは何の為?」
答えに迷う。
「この体で、生きて行くためだろう」
「何故、お前だと? 他の誰でもないと認識できる? それはいつから?」
「それは……、生まれた時から。これが俺の身体だからだ」
この時点で、那智は答えに苦しむ。
「じゃあ、何処までがお前なわけ? 爪や髪の先? 細胞の一つ一つ?」
「……そうだよ」
「ならさ、これ、捨てたら……、どうなわけ?」
殺人天使は、那智の髪の毛を一本、引き抜いてつまんで捨てる。
「体から離れた時点で、俺じゃない」
「じゃあ手は? 足は? どこまで切り離せば、お前の自我は頭から消える? どこも切り離さなくても、死ねば…消えるよな」
那智は黙りこむしかない。
「それを踏まえて、お前の頭にいる自我ちゃんは、いったい何をしてるの?」
那智の顔を覗き込む殺人天使。
無言の那智を、後ろから抱え込むように――
「言ってやろうか? お前はただの循環する物質に過ぎないんだよ。死んだ? 死んでねーよ、元素まで遡りゃあ、存在するんだ。何ひとつ消えちゃいない。お前の体を作る物質はこの世を作っている。だけどお前の自我だけは死ねば消える。消えるのはそれだけ、後の物質は形を変えて存在している。どうだ? 自我がまったくもってどうでもいいって事が理解できたか?」
バカに言って聞かせるような殺人天使の鼻に付く態度にも慣れた。
「つまり、俺は形を変える為の作業をしているだけだ。俺が袋を破って。今度は神が作った別の袋を満たすんだ。この世の何も傷つけていない。 もっとも、お前らが大事だなんだと騒ぐ自我とやらに、意味があるなら別だが――」
鼻先十センチ。殺人天使の話す時の距離。
「そんなものはナーイ」
そう言ってギャハハハと下品に笑う。人間にとって自我こそ存在で、それが全てだ。
しかし今それを否定されて、その意味を考えても浮かんでこないのだから。
今頃、鼻の頭が痛んできた。
「畜生」小さく呟く。
「那智、飯でも食おうぜ。俺はさ、ただ飯食えんだぜ。だけど、お前無理じゃん、だから奢らせてやるよ。それで、もっと、色々教えてやるぜ……」
強引に肩を組む。殺人天使にあった日と同じだ。
「この世界の事を――」
そう耳に注ぎ込む。
逃げたいと思った。たけど逃げられない事くらい理解できる。
「それ、聞いて、その上で、俺…生きている意味ある?」
殺人天使は弾かれたように笑う。
「だから、お前は馬鹿なんだよ。意味なんてあってもなくても、そんなものはどーでもいいんだっつーの」
「そろそろ――、アンタの事を俺は聞いていいのか?」
何の嫌がらせか、リリカの死の後来たファミレスの同じ席で。
頬杖をついて、体をねじるように窓の外を見る殺人天使。
「ん? その前にドリンクバー、入れてきて。コーラよろしく」
視線を外にやったまま、グラスを差し出す。
那智は溜息だけを吐き捨てると、グラスを奪い取る。
「氷、入れ過ぎんなよ!」
殺人天使の声が、那智の背中を追いかけてきた。
ご要望通り、四角い氷を三つ入れ、コーラを注いでストローを曲げて刺す。そして、足早に席に戻ると殺人天使の目の前に差し出す。
「お前、ストローの口んとこ触ってないだろうな?」
そう言いながら、右手を手前にヒュッと動かし空を掴むように拳を握る。
その刹那、キキキキ―ッと車のブレーキ音。ドンという音の後、ガシャガシャと自転車が倒れる音。天使は頬杖のままストローを咥えた。
店内からも叫びが聞こえる。今まで殺人天使が見ていた外の景色には赤い印が打たれた。
ゴロリと横たわる力無い身体に、薄く開いた眼。口元からツーと流れた血の筋。
若いサラリーマン風の男が倒れている。左の足がありえない方向にグニャリと曲がっていた。
「突っ立ってないで座れよ」
そう言われて、やっと自分がまだ立っていたことに気付いて、腰を下ろした。
「どうした?」
「何が?」
「何も言わないのか?」
「言ったところで、何もわかっていないとバカにされるのがオチだ……」
ふふんと笑って、那智を見据える。
「分かってきたじゃねえか――」
また、薄透明な羽が白く光り出す。
カラカラと軽快な音を出して廻る彼のグラスの氷と、叫び声を上げる人々が同等のモノに見えた時、殺人天使は優しく笑う。
「それじゃ、話を始めようか」
「何から話そうか? そうだな、お前らは自分らの考えが、人間という動物独自の物だとは、思ったことがあるか?」
「それ位はわかるよ」
ムッとしたように切り返すと殺人天使は、やっと頬杖をやめて背もたれに寄りかかる。
「それで、何故、この世界の頂点のように考えることができる?」
頂点?自分たちが頂点だと? そんな風には思ってはいない。しかし、確かに、下等ではないと思ってはいる。
「人間はそう大した事ことないぜ。人間が手にいれた物なんて、せいぜい作業を短縮する技術や、たった数十年生き伸ばす医療がやっとだろ? そんなのはお前らが下等だと言っている動物だって多少はやってる」
「人間は考える動物で…言葉を喋る事ができる」
那智の言葉に、へへへと笑って殺人天使は那智を指さす。
「他の動物だって声でコミュニケーションは取るさ。それに、言葉が通じるのは、その言葉を知っている人間に限られる。同種でも場所が違えば声のコミュニケーションですらままならない。それを統一することすらできないんだよな。お前らはそれをバベルだなんだと神のせいにするんだったよなあ。しかし、お前らは言葉を複雑にしすぎた。より多くの無駄な情報をやり取りするためだ。だけど、そのせいで、すべてが回りくどくなった。寿命が少し伸びた事すら無駄にしているんだ。考えてもみろ、人間ほど子育てに時間をかける動物がいるか? ちゃんと言葉を話し、理解し使いこなす人間になるまでに何年かかる? この時点で、自分たちの種族が、どれだけコストがかかる上に役に立たないということが、理解できるだろ?」
那智は頷く事はしなかったが、殺人天使は続ける。
「その上、人間という動物は極めて凶暴で、捕食以外の目的でも他種を襲う。それに飽き足らず、同種同士でも殺しあう。人間は、何でも食う。奴らの毒になるモノが、地球上に少ないうえに、毒さえも何とか食おうとするし、克服する習性があり、言うなれば、地球上の全てが人間の餌だ。どんな環境でも、柔軟に対応して、何処ででも増える。人間の質と量は管理が必要だと思うだろう?」
那智が、自分の事を病原菌のように感じて、生きるのが嫌になりそうな気がした時、殺人天使が言った。
「さあ、腹が減っただろう? 飯を食おうや」