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魔王になる

 先輩は、けっこう頑張った。単純な殴る蹴るでは口を割らなかった。

 そして、一番恐れていたことがやってきた。矛先がこっちに向いたのだ。

 殴られ、蹴られ、それでもそこそこ耐えたつもりだが、相手はやくざだ。拘留期間が過ぎたら釈放しなければいけない、なんてことはない。

 間違いなく、こいつらがやったのだと確信している以上は、延々と続けるつもりだ。

 手段も、これだけではあるまい。想像もしたくないことだが、道具を使って死んだりしないようにしつつ痛め付ける方法を、いくらでも知っているし、やるのに躊躇いも無いだろう。

 そのどこかで、絶対に耐えられなくなって自白するに決まっている。

 どうせ最終的には吐かされるのならば、それまで苦しむのは馬鹿馬鹿しい。それに早く自白した方が、多少なりとも印象はよいだろう。

「言います。全部」

 叫ぶと、自分に間断的に加えられていた衝撃がぴたりと止んだ。

 恐る恐る顔を上げると、男たちがじっと見ている。

 息を整えて、全てを洗いざらい話した。

 自分は巻き込まれて止むなくここまで従って来ただけで、ブツを盗むのも、その際に二人を殺したのも後から聞かされたことなのだ、と。

 いかにも、先輩に全責任を負わせて自分の罪の軽減をはかっているような内容だが、それが事実なのだ。

 おそらく先輩は物凄い形相で自分を睨みつけているだろうが、知ったことか。

 事実なのだ。先輩が、自分をだまして巻き込んだのだ。

「おう、相棒は吐いたぞ」

 と、水を向けられても先輩は強情に否定した。

「知らねえ。殴られるのが嫌でデタラメ言ってんだろうが、おれはどんなに痛め付けられても、本当のことしか言えねえ」

 さすがに、先輩は根性あるなあ、と思ってしまったりもしたが、相手が相手だ。

 拷問はエスカレートし、爪をはがされ、その傷口を塩水につけられ……。

 よくもまあ、これだけ色々と考えるものだと思うような、多種多彩な、しかし決して命の危険には及ばない様々な方法によって、痛め付ける。

 警察でも裁判所でもない、やくざである彼らにとってはっきり言って証拠は相棒の自白だけで十分なはずだ。

 なおも、執拗に自白を求めて拷問を続ける必要は無いように思われるが、もうこれはこれ自体が制裁なのだ。

 吐けばよいが、別に吐かずとも、結局は有罪判決を一方的に下して裁くつもりだ。

 だが、彼らとて一方的な断罪者ではない。その上には組織の上位者たちがおり、それらに対しては、彼らもまた裁かれる立場なのだ。

 こうしてなんとか、小売したため多少は減っているが、大半のブツを取り戻すことができたものの、当日の取引は流れており、それだけで失態である。

 それなりのペナルティは与えられているはずであり、その鬱憤を晴らすために先輩への責めは嗜虐的と言っていいレベルになっている。

 彼らにしてみれば、八つ当たりではなく、ぶつけるべき者にぶつけているのだからその鬱憤晴らしは正当そのものであり、全くなんの遠慮も同情も無い。

「わかった……わかったよ……認めるよ……も、もう、止めてくれ」

 交代で、延々と倦むことなく繰り返される拷問に、とうとう先輩が折れた。

 時間の感覚が無くなっているが、おそら数時間は耐えていたから大したものだ。

 既に、体の各所に取り返しのつかない傷を負っており、日常生活を送るのにも支障のある状態だ。

「よーし、認めたな」

 男たちは、ある種の達成感に満たされた表情であった。

 後の処理は、テキパキと手慣れたものであった。シートを広げ、そこに先輩を横たえてシートを巻きあげてくるみ、そしてガムテープでぐるぐる巻きにする。

 さらにその上からロープを巻いてきつく縛る。

 ああ、あのまま海に沈められるか、どっかに埋められるんだろうなあ、と一時は確かにともに夢のような話を語り合った「相棒」であった先輩の末路に、こんなことに巻き込まれた恨みは別にして一抹の同情を禁じ得なかった。

 はて? おれは、どうなるんだろう?

 と、逸早く従順に自白したことだし、このまま解放される可能性はゼロではない、という淡い期待を粉砕する言葉が、男の口から出た。

「よし、こっちの奴は楽に死なせてやれ」

「え?」

 こっちの奴、というのは自分に他ならぬ。

「ま、待ってください!」

 必死に――もう、そりゃもう必死に、懇願する。

「ん? なんだよ」

 男は、不思議そうに言った。いや、なんだその不思議そうな感じ。なんだよもなにも、決まってるではないか。

「んん? おめえ、まさか生きて帰れると思ってたんか?」

 そう言って、いっそう不思議なものを見るような顔をしていた。

 当たり前のように、自分の死を断定する男に悪寒が走る。

 そして、この時この場において、男はそれを断定する力を持っていて、自分がそれに抗う術など無い。

 哀願した。必死に、もう、必死にだ。死にたくないと、そのためならなんでもすると、元より自分よりも上の者に対してどのように下手に出ても、そのことに抵抗など無い。

「ホントに、ほんっとうにおれは知らないで巻き込まれただけなんです! 知ってからも先輩が怖くて逃げられなくて」

 その哀願の様子に、ほんの少しは憐憫の情を刺激されたような目を男はしていたが、それだけだ。そういう目をするだけで、その憐憫はおしまいである。

「兄ちゃんがなんにも知らねえで巻き込まれたってのは、証拠はねえけど……まあ、おれはそうなんじゃねえかなって思ってるよ」

「そ、それなら!」

「でも、兄ちゃん、知り過ぎた」

 男たちにとっては、顔を見られた上で何をしたか――違法薬物の取引に拷問、果ては殺人までをも知られているというだけで、口を封じるに足りるのだ。

「……ぜ、絶対誰にも言いませんから!」

 男は、苦笑いともなんとも形容し難い、笑みを漏らした。

「いやぁ、兄ちゃんは、こんなこと黙ってられる人間じゃあねえよ」

「そ、そんなことないっす!」

 死に物狂いで断言する。内心では、もちろんその通りだと思ってはいる。一日二日ならともかく、この先ずっと永遠に秘密にしていられるか自信は無い。

「まあ、兄ちゃんさ、さっさと逃げとくべきだったんだよ」

 嘆息とともに、男は言った。

 先輩が怖くて逃げられなかった、と言うが、それでも逃げようとしたらいくらでもその機会はあったはずだ。拘束されていたわけではないのだから、寝ている間にでも逃げられたはず。

 こっちの言い分としては、その気になったことは幾度もあるが、でもいざやろうとすると恐怖が先に立ってしまい、無理だった。

 寝ているフリをして、先輩が自分を試しているんじゃないか? そんなことを考えてしまって、踏ん切れなかったのだ。

「それでも、逃げるべきだったんだよ」

 男は、言い切った。

 先輩と行動をともにしていたせいで一緒にさらわれて、こういう状態になった。知り過ぎてしまったのも、そのためだ。

 それでも、もし捕まった先輩が自分を共犯として――或いは主犯として名前を挙げたりしたらと思うと、恐ろしくて――

「それでも、逃げるしかなかったんだよ」

 男は、また言い切った。

 逃げても、逃げなくてもリスクはあったのだ。それならば、まだ逃げた方がリスクは少なかった。

「……兄ちゃんよ、なんだかんだで、このまんま上手くいけば分け前貰える、っていう気持ちも、少しは、あっただろ?」

「いや、そ、そんなことは……」

 ひたすら恐怖している日々だったが、無かったとは言えない。でも、それでも、それはあくまでも恐怖を押し殺すために敢えて上手くいった時の明るい未来を想像していただけで、積極的に期待していたわけではない。

「兄貴……」

 何時の間にか後ろに回っていた若い男が、言った。

 兄貴と呼ばれたその男は、頷いた。

 そのことの意味を理解して、今一度命乞いをと開いた口を後ろから塞がれた。左右からも別の男たちの手が伸びてきて動けないように拘束されてしまう。

 首に、細長いものが侵入してきた。

 必死に首を捻じって後ろを見ると、注射器を持った男がいた。

 何かを、注入された。

 何か、はもはや考えるまでもない。

 叫んだ。

 必死に、叫んで、必死に、四肢を動かして、必死に、涙を流した。

 だが、塞がれた口は叫び声を出すことはできず、取り押さえられた手足はろくに動かすことができず、ただ涙だけが両目から溢れ出て、頬を流れた。

 やがて、押さえていた男たちが手を離した。

 理由は一つだ。押さえないでもよくなったからだ。

 全身の感覚が失われてしまったようだった。

 口は塞がれていなかったが、もう声を出すことができず、手足も動かすことができず、やはり涙だけが滂沱と頬を濡らした。

 もう、自分は涙を流す以外のことはできないのだ。

「すこーし、気持ちよくなってきただろ」

 男が言った。そうなのだ。そうなってしまった全身に痛みはなく、むしろ気持ちがいいのだ。

「後は眠くなって、そのままさ……」

 言われたそばから、眠気が襲ってきた。眠ったらいけないとこの期に及んで抵抗を試みる。眠ったら、そのまま……。

 だが、歯を食いしばることもできなければ、瞼が下がらぬように力をこめることすらできない。

 視界に上から幕が下りていく。そして、その幕はいわば彼の人生という劇の幕でもあった。

 おれ、このまま死ぬのか?

 そう思えば、思考は無駄なことを知りつつも過去へと遡り、分岐点ごとに後悔の念を刻みつける。

 先輩の隙を見て逃げ出していれば――いや、そもそも今回の仕事をなんとしても断っていれば――そもそも先輩となんか付き合わなければ――そもそも、馬鹿にしてた昔の仲間と同じようにさっさと仕事に就いて「つまんねえ」人生を送っていれば――

 不意に、声が聞こえた。

 男たちの声ではない。そんなものは、自分の聴覚はとっくに拾うことができなくなっている。

 聴覚に限ったことではない。視覚も嗅覚も触覚も、もはや感じられないのだ。

 指一本動かせず、何を感じることもできずに、浮遊して漂っている感じ。

 そんな、現世から浮き上がったような状況で、その声は妙にはっきりと聞こえた。

「あなたは、このまま終わる方ではない」

 その言葉の意味を咀嚼する思考力すらもはや乏しい。理解したところで、この終わりかけた状況でどうしろと。

「あなたは、大いなる秘めた力を持っている」

 そりゃ、けっこう。そんな力があったら、こんなとこで死にゃしねえだろうに。

「だが、その力は、この世界では封印されている」

 じゃあ、意味ねえじゃねえか。

「我々の世界においでいただければ、その力を存分に発揮できるのです」

 声は、異様な真剣さを帯びていた。もう、なんでもいいよと思い、その思いすら薄れていく最中にあって、別に聞きたくもないその声は、やはり、妙に、やたらとはっきりと聞こえるのだった。

「私ならば、それができる。これから、あなたの魂が体を離れます。その時に私が手を伸ばしますから、決して抵抗をしないで」

 ああ、そうかそうか。まあ、勝手にしろ。

 抵抗するなと言うが、抵抗しろと言われてもできるとは思えない。動けず、感じず、もう今の自分は半分死んでいるようなものだ。

 その微かな思念も、閉ざされていく。

 何もかもが無くなるかという寸前に、全身が震えた。

 感覚が消失して、それそのものが消えたと思い込んでいた体が震えた気がした。

 声は出ないが、もし声が出せたのならば、悲鳴を上げていただろう。

 魂が体を離れる――とかいう先程聞こえた声のせいもあろうが、咄嗟に、魂が鷲掴みにされたと思った。

 とても、嫌な感じだったので、素直に嫌だなと思った。

「抵抗しないで」

 また、さっきの声が聞こえた。

 抵抗などしているつもりはない。ただ、嫌だから嫌だなと思っただけだ。それが抵抗になるというのか。

「もう少し、もう少しです。抵抗しないで……」

 嫌だと思うだけで抵抗していることになるというのならば、このとても嫌な感じを受け容れろと言うのか。

 嫌だ、と強く思った。

 だが、同時に魂を掴まれているという、およそ想像すらしなかった感覚によって、それをなしている何者かに対し、抗い難い屈服を感じてもいた。

 もう、いい。わかった。要するに、何も思うなと言うのだろう。そうしてやる。何も感じず思わず考えず、されるがままに――


 目を開き、上半身を起こした。

 周囲の状況を確認すると、それは建築物の中であり、自分はベッドに横たわっていたようだ。

 お世辞にも、ちゃんとした家屋には見えなかった。掘っ立て小屋、という印象が真っ先に浮かんだ。

「あっ……」

 起き上がろうとすると、声がした。

 見れば、部屋の出入り口らしきところに、一人の少女が立っていた。

 一目見て、まず抱いたのは違和感だ。

 その正体に気付く前に、少女は慌てた様子で身を翻した。

 少女は、誰かを呼んで、自分が目を覚ましたことを告げているようだった。

 背格好や顔立ちからは、幼い少女ということが一目瞭然であったが、表情だけが妙に大人びており、そのズレが違和感の正体だ、と気付いた時には、一人の老人が先程の少女を伴って部屋に入ってきた。

「おお、お目覚めになりましたか」

 声に、聞き覚えがあった。

「爺さんが、おれをここに呼んだのか」

 あまり深く考えずに、思ったことを言うと、老人は頷いた。

 聞きたいことはたくさんあったが、疑問を整理することができないぐらいに混乱もしていた。

 文句を言ってやろうかとも思ったが、死を寸前にしていた自分が、今やそれを遥か遠くに感じるほどに意識も感覚も取り戻しているのはそのおかげだということはなんとなく察したので、それは引っ込めた。

 幾つか質問をし、それへの答えを総合すると――ここは自分が生まれ育っていた世界とは全く次元を異にする異世界であり、大きな力を持つ魔術師である老人が、自分を連れてきた、ということであった。

 老人は、その能力によってこちらの世界を覗いており、自分のことを秘めた力を宿した存在として注目していたらしい。

 なんとか、こちらの世界に連れてきたかったが、どうアプローチしていいか悩んでいたところ死にそうになっていたので多少強引にだが引っ張ってきたのだ、と。

 老人の話がどこまで本当かはわからないが、ともかく自分はもうその異世界とやらにいるのである。

 思わず、帰る方法を聞こうとして、その声は口中に消えた。

 帰る方法があったとして、帰りたいのか?

 その自問に対しては、帰ったってまたあのくだらない人生の続きしかないのならば、別に帰りたくはない、という答えがすぐに浮かんだ。

 それに、またあの地下室に帰ったりしたら、やくざたちに改めて殺されるだけである。

 あっちの世界に未練は無い……どころか、あっちの世界じゃ命を狙われて明確に危険ですらある。

 こっちの世界で、生きるしかないか――

 そう思うのに、さして時間はかからなかった。そして、そう思うのに大いに手伝ったのが老人が頻りに言う、秘めた力、とやらである。

「秘めた力ってのは、なんだ。ホントに、おれにそんな力があるのか?」

 半信半疑ではあったが、老人がわざわざ能力を使って連れてきたということは、まったくのデタラメとも思えず、その声は期待に弾んでいた。

「はい」

 老人は自信ありげに頷いた。

「まことに、運命の悪戯とでも言いましょうか。貴方様のように、産まれる場所を間違えたような方がいらっしゃるのです」

 実際に試してみればわかると促され、外に出た。

 建物は、どこかの森の中に建てられていて、周りには木々が林立している。

 そのうちの一本を、言われるがままに右手で軽く叩いた。

「おっ」

 どうなるものかとやはりまだ疑う気持ちが残っていたが、手応えは確かにあった。どう見てもその程度では揺るぎもしない太い幹が、その一叩きで30度ばかり傾いたのだ。

 叩く、叩く、叩く。

 その度に、傾斜は増していき、四度目で根が地中から浮き上がって幹が地面に接して、倒れた。

 別の木を、今度はもっと力を入れて叩くと、ただの一撃で倒れた。

 これが自分の力か、と別に筋肉で太くなったわけでもない以前と変わらぬ我が腕を見て不思議がっていると、老人が恭しく片膝をついていた。

「やはり、見込んだ通りのお方」

 後ろでは、少女も同じように膝をついている。

 それから、老人と少女はあからさまに敬う態度をとった。

 そんなことされた経験が無いので、他愛も無く舞い上がってよい気持ちになり、この世界のことを何も知らぬ無知さから、老人の言うことに従っていると魔王になっていた。

 いや、さすがに最初は、なんでそんなもんに、とは思ったのだ。

 だが、老人からあなたは他の人間とは隔絶した強さなのだからとおだてられ、さらには魔法とかそういうのが普通に存在している世界のことを知るにつれて、まあそれもアリかと安易に思った。

 部下もたくさんできて、そいつらがまた自分を恐れ敬うので、うん、魔王、いいんじゃない、と悪くない気分であった。

 部下は、老人が目をつけていた盗賊山賊の類である。その根城に乗り込んでいって派手に何人かぶち殺してやると、恐怖して自分に従うことを約束した。

 そういう悪党どもであるから、元の世界でビビるしかなかったやくざよりも凶悪そうな連中であり、それが自分を恐れて平伏すのがたまらない快感であった。

 人を二人殺したという先輩を怖がっていたのが馬鹿馬鹿しくなるほどに、何人も、むごたらしく殺した。

 元々、品行方正な人間ではない。

 力に酔い、誰も彼もが自分を敬い言うことを聞く状況に慣れてしまえば、すっかり魔王として振る舞い、部下たちが村や街を襲い、人を殺すのを督励し、献上される女を夜毎に凌辱するのになんの抵抗も無い。

 勢力圏――魔王らしく彼の勢力圏とはすなわち夥しい血を吸った荒野であった――が拡大するにつれて、行動を起こす前から合流せよと促していた野盗や、噂を聞いて是非傘下にとやってきた連中を吸収して、魔王軍団は膨れ上がった。

 移動中に、三百ほどの軍と遭遇した。

 数の少なさに、あまり気にも止めずに蹴散らしていけと命じると、どうやら率いているのはヴェスカウ伯爵らしいという報告が入った。

「ようやくお出ましか」

 と、言ったのにはわけがある。

 そもそも、ヴェスカウ伯爵という勇猛な武人が治める領地にて活動するという老人の計画を聞いた時には、そんな強いとこじゃなくて最初は弱いとこを攻めて行った方がいいんではないか、と、まだそんなに魔王っぽくなかった彼は危惧したのだが、この周辺で一番強い伯爵を倒せば他の連中は恐れて手を出せないようになる、いくら伯爵とその軍が強いと言っても貴方ならば恐れる必要は無いと説かれて、そうかおれはそんなに強いのかと納得した。

 領内を荒らせばすぐにも出張ってくると思っていたのに、全然姿を現さない。

 伯爵と言えど、この魔王の強さと軍の勢いに恐れをなしているのでは、と言えば、さすがにそれは考えにくいと老人は首をひねっていた。

 老人は、部下の中でも一応それなりに人相が悪くない者をスパイとして放っていたが、そちらから伯爵が伏せっていて出撃できないようだという情報が入ってきた。

 それならば、今のうちに好きにさせてもらおうとばかりに好き放題に暴れまくり、城壁に囲まれた街を陥落させて武威を振るった。

 老人は、なかなかの策士なようで、伯爵の二人の息子を仲違いさせるような工作に熱中していたが、軍の増大につれてすっかり自信が肥大した魔王としては別にそこまでせんでもいいんじゃねえのと軽く考えていた。

 その、三百という伯爵が率いているにしては僅少な軍勢についても、老人の工作がまんまと上手く運んだせいらしく、いかにもしてやったりといった顔で、

「あの数では、万が一にも負けることはありますまい。魔王様が出るまでもない」

 と、言った。

 五千と三百である。魔王もまったく同感だったので、まあもし万が一やばくなったらおれが出るから気張れやと攻撃命令を下して、悠然と構えていた。

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