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アン

 近くの村に少女を運び込んだ。それほどレベルが高くはないが治癒士がいたので治癒の魔法で傷口だけはすぐに塞ぐことができた。

 失血による衰弱で寝かされた少女は、しばらくして目を覚ます。

「おう、起きたな」

「まあまあまあまあ」

 少女が目を開けて最初に見たのは、自分に向けられた装填済みのクロスボウ、次にそれを持つ女、そしてそれをなんとか宥めようとしている男であった。

「あたしらの邪魔した理由を教えてもらおうか。クマさんは仲間だから、とかくっだらねえ理由だったら撃つぜ」

「まあまあケイト……うん、でもね、それはおれも知りたいな。ようく考えて言うんだよ、わかったね。このお姉さん、ホントに撃つかもしれないからね」

「かもしれない、じゃなくて撃つよ!」

「うー」

 少女は、俯いている。

「……そっちの人、ありがとう」

 恵一に頭を下げた。

「ん、なんだい」

「さっき、助けてくれた。だから、ありがとう」

「そ、そうだよ、感謝しろよなー」

 恵一に感謝しろとさっき言ったのはケイトなのだが、こうもあっさり感謝の意を表すとは思っていなかったらしく幾分戸惑っている。

「でさ、なんでおれたちの邪魔したのかな」

「おう、それだよそれ」

「なんでもいいから理由を教えてくれないかな」

「なんでもよくねえよ、さっきも言ったけどくだらん理由なら容赦せんよ」

 恵一が懸命に少女の口を開かせようとするのだが、ケイトが片っ端から潰している。

 だが、ケイトの言ってることは変わらないのだが、声音や態度は明らかに柔らかくなっている。

 少女が恵一にお礼を言ったことにより、少しは話が通じると認めたのであろう。

「あのクマは……助けてくれた」

「ああん? 助けた……って?」

 少女は、話し始めた。

 彼女は、物心ついた頃には父親と二人で森で暮らしていた。

 森の獣人たちは共同体を作っている場合もあるが、彼女と父が住んでいた森にはそれほど強固なそれはなく、獣人たちは各家族で離れて生活し、必要になると呼びかけて助けたり助けられたりしていたらしい。

 つまり、組織らしい組織はなく、長らしい長もいなかった。

 ひとたび長の命令が下れば複数の獣人が各々の役割に従って動く、というような行動は望むべくもない。

 それで、別に困っていなかったし、みんな対等に付き合って楽しく暮らしていた。

 組織が作られるのは、作業の効率化が求められてのことであるが、基本的に採集によって日々の糧を得る獣人たちにはあまりその面での必要性がない。

 それでも、地域によっては獣人たちが森の中に集落を作り、長を選び、その長の命に服して行動する組織を作っていることはある。

 そういった獣人たちは、組織のもう一つの、或いは最大の目的を知っていたのであり、少女の父たちはそれを知らなかった。

 それは、他の組織――作業を効率化するための集団――からの攻撃から自分たちを防衛するためである。

 人間の集団による襲撃に、為す術が無かった。

 少女の父親は強く――娘の言うことなので贔屓目はあるかもしれぬが――勇敢に戦ったが、それはどうしても個人による抵抗に過ぎず、個々の力では劣っていたとしても集団で効率的に襲ってくる人間たちに勝てるはずがなかった。

 少女は、目の前で父親に何本もの矢が刺さるのを見て、逃げ出そうとしたところを捕まった。

 人間たちは、捕まえた少女を担いで急ぎ森を出た。

 彼らの目当ては、子供の獣人であった。

 父親と二人だけなのは、格好の標的であったのだ。

 縛られ箱に入れられて担がれて、長い間暗い中で揺られていた。

 途中で、父の死を実感してしまい、泣いた。

「うわあ!」

 もう時間の間隔が無くなった頃に、下の方から声がした。

 と、同時にふわっとした感覚がして、衝撃が来た。

 目に、光が入ってくる。

 自分が入っていた箱が割れて壊れていた。

 どうやら、担いでいた者が落としたようだ。

 それまで絶望して呆けていた少女は、そこで素早く我を取り戻した。逃げるチャンスだと思った。

 手足を縛られているので這うしかできなかったが、それでも逃げようとした。

「てめえ!」

 それを見た男が、少女を捕まえようとする。やっぱり、駄目か、と思うのと、

「馬鹿、ほっとけ!」

 という声がするのと、少女を捕まえようとした男がふっ飛ぶのと同時だった。

 そこには、巨大なクマがいた。

 クマは飛んだ男を追っていき、意識を失っている男の首筋にかぶりついた。辛うじて生きていた男の命もそれで尽きたようだった。

 男がいたところに、短剣が落ちていた。

 おそらく、クマの横からの一撃を貰った時にベルトが千切れて、そこにぶら下げていたのが落ちたのだろう。

「うがっ」

 少女は、再び希望を抱いて飛び付いた。

 手は、左右の掌を向かい合わせにして手首同士が結束されていたために、掌で挟むようにして短剣の柄を持つことができた。

 それで足首を結束していたロープを切断する。

 次は、左右の足の裏で柄を挟んで刃の部分を立てて固定し、そこに両手のロープをこすり付けるようにして切った。

 時間はかかったが、その間にクマは先ほどの男を食うのに忙しく、少女には目もくれなかった。

 自由になった少女は、他の男たちがいなくなっているのを確認すると自らも逃げ出した。

 逃げに逃げて、しばらく森で暮らしていた。食べられる草、木の実などについて父から最低限のことは教えられていたので、森の中であれば少女はなんとか生きられた。

 父はもういない。

 元いた森がどこなのかもわからない。

 行く所が無い少女は、この森で暮らすしかないと思っていたが、まだ年端もいかぬ女の子なのである。

 一人は、どうしても不安で寂しかった。

 そんな時に思い出されるのは、あのクマであった。

 父から聞いた話――獣人の中には獣を自由に操る者がいるという話。

 もしかしたら、あのクマは自分を助けてくれたのでは。

 少女は、戻ってきた。

 あのクマと一緒に暮らせるかもしれないと思って。

 そして、そこで恵一とケイトに出会ったのである。

 人間を殺した悪いクマを退治しに来たというのを聞いて、少女はクマを守ろうと思った。 そもそもあのクマが殺した人間は、自分の父を殺して自分をさらった悪い人間であり、そのためにクマが退治されてしまうのならば、今度は自分が助けなくてはいけないと思った。

「ふうむ」

 恵一は、もともとの目的であった自分たちを邪魔した理由よりも、少女が父親を失った経緯に同情してしまい、そちらに心が持っていかれてしまった。

「そんで、実際に攻撃されて目が覚めたってわけか。ったく、短絡的だなあ。まあ、ガキだからな」

「なあ、ケイト。この子に悪気は無かったんだし、こう、漠然とクマに仲間意識持ってたとかいうわけじゃないんだしさ」

「あー、はいはい。あたしだって鬼じゃないぜ。……いきなり父さんを殺されたっていうのは、そりゃかわいそうだと思うよ……」

 ケイトがクロスボウを下ろしたのに、ほっとして恵一は少女を見た。

「そういえば、名前はなんていうの?」

「……名前は、無い」

「え、無い?」

 少女は幼いが、かと言って産まれたばかりではあるまいに、名前が無いとは。

「アンジュの娘……そう呼ばれていたし、そう名乗ってた」

「アンジュ……それがお父さんの名前なんだね」

「うん」

 基本的に父と二人で暮らしていて、接触するのは他の数家族だとそれで通じるし不便というほどのことは無いのかもしれない。

「あー、あたしもそんな詳しくないけどさあ。獣人って、大人になったら自分で名前を決めるんだよ、確か」

「へえ」

「そりゃ、兄弟が多いと区別するために仮の適当な名前つけたりはするらしいけど」

 名前は、産まれてすぐに親などがつけるものだという以外のことが頭に無かった恵一にとっては、新鮮なやり方であった。

「そうですね。それで大人になったら自分で名をつけるわけですけど、やっぱり親の名前にちなんだ名前にしたり、そのまま親の名を名乗ったり、その区別のための名前を少し変えたりする場合が多いらしいですね」

「あ、治癒士さん、いたんすか」

「おっさん、いたのかよ」

 それは、少女を治療してくれた治癒士であった。ちなみに、ここは彼の家の一室なのでいるのは別におかしくない。

「ええと、三人の中でリーダーはどなたなんでしょう」

「あたしだけど、なんだい」

 ケイトが当然のようにずいと乗り出す。まあ、確かにこの三人――ていうか獣人の少女を一味扱いするのは間違っているが――では、ケイトがそれだろう。

「いや、代金のことで」

「金の話か」

 ケイトと治癒士は、こそこそと部屋の隅っこに行って話し始めた。

「あー、心配しないでいいからね」

 少女が不安そうにしているのを見て、恵一は言った。

「うお、ぼったくるなあ」

「いや、相場ですよ相場」

「おう、先生、話聞いとった? あいつすげえかわいそうなんだよ」

 金の交渉はあっちに任せて、恵一は少女に聞いてみた。

 これから、どうするつもりか、と。

 先ほどの話で、少女は元いた森がどこかわからなくなっており、行き場所が無いのが判明している。

 元の場所がわかるのならば、そこへ帰り、付き合いのあった別の家族のところで世話になることもできただろうが。

「……森で、暮らす」

「でも、この辺りには獣人は住んでいないんだろう?」

「うん……」

 もしも住んでいるのならば、彼女もそれらに接触していたはずで、一人の身を不安がってクマのいる場所へ戻ってくることもなかった。

「もし、もし君がよければ……おれたちと一緒に来ないか?」

 すっかり彼女に同情していた恵一は、そうしたいと思っていた。王都ともなれば、森の中のように自由には生きられない。獣人ゆえの差別も受けるだろう。

 それでも、森で一人で暮らすよりはいいのではないか。

「でも……」

 と、少女が見たのは治癒士と交渉中のケイトである。

「ああ、ケイトには……おれが頼むよ」

 まあ、それが筋であろう。おれたちと来ないか、と言いながら行くのはケイトの家なのだ。

「いや、怖い人だと思っているかもしれないけど、そんな悪い子じゃないんだよたぶん」

 ケイトが先ほど見せた少女への同情は、心からの素直なものであった。

 だから、きっとケイトも頼めば受け入れてくれる。

「いや! そもそもさ!」

 なんか、交渉が白熱しているらしくケイトの声がでかくなってきた。

「あいつの親父が殺られたのは、あたしら人間の不届き者がやったことでさ、これはあたしら人間の罪じゃんか!」

 声だけでなく、話もでかくなっている。

「……まあ、私も、あの子には同情してないわけじゃあ……」

 治癒士はそう言って、立てていた指を一本折った。

「おおう、それでこそ世のため人のための治癒士だよ。あたしは前からこの世で一番偉大な仕事は治癒士だと思うとったよ!」

「ははは……」

 やや苦笑いっぽいが、治癒士が笑い、交渉が成立したようだ。

「いやぁ、四百ゴールドだよ。あたしもできるだけ値切ったんだけど、おっさんにも生活があるけん、この辺が限度だね」

 四百、ということは約四万円。

 恵一の感覚だと、ゲームの新機種買える値段であり決して安くはない。

 この世界の金銭感覚というものがまだ身についてはいないが、あれだけの傷を短時間で塞いでくれた治療代としては妥当なところなのだろうか。

 どうも、医者にかかって四万円といったら相当な重病重傷という感覚が恵一には依然としてあるのだが、それは元いた世界では日本をはじめとする多くの国家が保険制度を敷いているから、費用が低くなっているのである。

 当然、穴も不備もあるのだろう。そういうニュースもよく見る。

 それでも、やっぱり無いよりゃ遥かにマシなんだなあ、と恵一はしみじみ思った。

「あ、ケイト。それでこの子のことなんだけど」

「おう、それよそれ!」

 ケイトは、きっと少女を見た。

「あんたの治療費あたしが払ったかんね。これはもうあたしはあんたの命の恩人ってことだよ。これはもう恩返しするしかないよ。クマ畜生にすら恩返ししようとしたあんたの義理堅さに期待しとるけんね」

「え、それは……」

「そいつ、連れて帰るよ。仕事手伝わせる。嫌だって言っても連れてくぞ。どうでも嫌なら今すぐ四百ゴールド払わんかい、おう」

「え、ああ、それは……まあ、そんなお金持ってないだろうから、うん」

「よし、決まりだ。なぁに恵一、心配すんな。ガキだから戦いには使えんだろうけど、獣人ってのは鼻が利くし、すばしっこいし、使いどころはきっとあるぜ」

「あ、うん、そうだね。その辺はケイトに任せるよ」

 自分が頼むしかないなと思っていたが、ケイトが金出してそれを回収しないわけがなかった。

「よし、それじゃあ行くぜ。そろそろ準備ができてるだろう」

 表に出ると、荷台にクマの死体が積まれた馬車があった。

「おおー」

 巨大なクマなのでなかなか壮観である。心なしか、見物している村人たちの自分を見る目も敬意をこめたものに思える。

 王都への街道沿いに住み着いたクマなどは、この小さな村にとっては人や物の流れに影響を与える死活問題になりかねぬと考えれば、クマ退治した者へは自然とそういった目が注がれて当然であろう。

 恵一はなんだかそんな目で見られるのはむず痒い。

 謙虚というよりは、彼は自分がやったことがどれだけのことなのかをよく理解していない。クマ退治は世話になったケイトの借金返済のために、どちらかといえば受動的に行ったものなのであまり自分の手柄だと思うような感覚が無い。

「よーし、できてるな」

「馬車かあ……いや、まあ馬車じゃないとあれは運べないだろうけど、大丈夫? あの馬車借りるのにも金かかるんじゃ」

「ああ、それは大丈夫」

 ケイトが言うには、クマ退治に関して、クマの出没地点から一番近いこの村にギルドから、仕事を成し遂げたギルド構成員に対して便宜をはかるようにとのお達しが来ているらしく、この馬車に関してはタダらしい。

「……」

 獣人の少女が、クマの死体をじっと見ている。

「どうしたの?」

「……このクマが、助けようとしたんじゃないのはわかった。けど……このクマがあそこで来てくれなかったら、助かってなかっただろうから……」

 だから、やはりこのクマに対して彼女は恩を感じているのだ。

「……ありがとう」

 少女は、クマの手を取って、言った。

「おー、義理堅いねえ。あたし、義理堅い奴は好きだよ。恩のかけ甲斐があるってもんだ」

「そ、そうっすね」

「恵一のことも好きだよ。義理堅いからな」

「そ、そうっすかね」

 あまり、自分でそういう意識は無いのだが、どうも自分は義理堅いという評価をケイトからいただいているようだ。

「よし、帰るぜ」

「ああ」

 どうなることかと思ったが、初仕事は上手く行った。とりあえずは、そのことを喜び明日のことは考えないことにしよう。

 王都への帰還は、ちょっとした凱旋後進であった。

 なにしろ、巨大なクマの死体を乗せた馬車が行くのである。注目は嫌でも集まる。

 ケイトに知人から声がかかると、彼女はあのクマを退治したのはこちらにいるケーイチであり、パンチ一発で頭蓋骨粉砕したと、その前に散々醜態をさらしたことはすっ飛ばした話をするので照れ臭かったが、照れ臭いから止めろと言って止めてくれるケイトではない。

 ギルドに到着すると、クマの死体が運び込まれ鑑定の結果、確かに依頼にあったクマであることが認定されて任務完遂のお墨付きをいただいた。

 そうなると次なるは、報酬の支払いである。

「うはははは、三千ゴールドだぜ、三千ゴールド……ああ、治癒士のおっさんに四百送らなきゃ」

 もちろん、ケイトの機嫌が悪かろうはずがない。

「やあ、見事にやったな」

 その報酬はギルドのお偉いさんが持ってきた。例の、恵一のレベル鑑定をした二人の鑑定士のうちのベテランの方である。

「クマの死体を見たが、あれを素手で殴ってやったのかね? うーむ……それだとやっぱりレベル15はあるのかもしれんが……でも確かに鑑定した時は……」

 どうも、恵一のレベルに関してはどこかで引っかかり続けているようだ。

「あのー、このクマ退治の仕事って依頼者は誰なんですか?」

 ギルドの仕事とはいえ、こういった仕事はどこかから依頼があってギルドが仕事として我と思わん者を募集するのであろう。恵一が知りたいのは、ギルドにこの仕事を持ち込んだのは誰かということである。

「ん? ああ、それは確か、近くの村の村長からのはずだ」

「あそこの村か」

「なにかあるのかね?」

「いえ、それが……」

 恵一は、獣人の少女を紹介し、クマの犠牲になったのが獣人狩りをしていた連中の一人であり、他に何人かいたがそれは逃走したことを伝えた。

 もしかしたら、依頼がその生き残りから出ているのではないかと思ったのだ。

「うーむ、その連中はもう遠くへ逃げてしまっただろうな。ギルドへの依頼などするはずがない。それがきっかけで自分たちのやったことがバレてしまうかもしれんしな」

「そうですか……」

 恵一は、少女の父を殺した連中が一人を除いてまんまと逃げてしまったことに釈然としないものを感じると同時に、少なくともこの国においては獣人を殺し、その子供をさらって売り飛ばすような行為が悪事として扱われているのだと改めて認識して安堵した。

 なにしろ、人権とかそういうものに関しては元いた世界よりは軽いと言わざるを得ない世界なのだ。

 それを自分が変えてやる、などと大それたことを考えつきもしない恵一としてはとりあえず、この国では獣人が無闇に不当な扱いを受けてはいないようだとわかって安心した。

 これならば、この少女も多少の差別的待遇はあれど、ここで暮らしていけるだろう。

「おーい、ケーイチ、帰るぞ」

「ああ」

 三人揃って家に向かう。

 その途中、ケイトが獣人の少女に名前が無いのはやっぱり不便であると言い出した。

「アンジュの娘、って微妙に言いにくいぞ。もうアンジュでいいよな。治癒士のおっさんも、親の名前そのまま継ぐ奴もいるって言ってたし」

 ケイトは軽い感じで言い、恵一もそれでいいんじゃないかなと思ったのだが、少女は拒否した。

 アンジュというのは立派で勇敢だった父の名前であり、今の自分がそれを名乗るのはおこがましいというのだ。

「アンでいい」

「アンジュのアン、か」

「うん……大人になったら、お父さんの名前を継ぐ」

「おーし、アンだな」

 そういうわけで獣人の少女アンがケイト軍団の一員となったのである。

「ひとっ風呂浴びようぜ」

 とケイトが言うので公衆浴場に行くことになった。

 風呂は各世帯にあるというわけではない。むしろ無い家の方が多い。

 その代わりに公衆浴場の値段が安めであり、大体市井の一般市民は二日か三日に一回の割合で行っている。

 これは、国の政策の一環である。

 王都であるから、水利計画もきちんと行き届いている――とはいうものの、水は無限ではない。

 各家庭で風呂を沸かされるよりも、公衆浴場の値段を安めに設定してそちらに誘導する方が使う水も、そして水を湯にする燃料である薪も少なくて済むのである。

「ああ、アンは水浴びにしてくれ」

 やはり獣人と同じ湯船に入りたくないという人間はけっこういるので、アンは中には入れない。代わりに浴場の脇にある小屋で水浴びをすることになった。

 早速の差別待遇に恵一の気持ちは暗くなったが、ケイトが言うにはこうやって獣人が水浴びするための小屋を併設している所はそうそう無いので、この公衆浴場はそういう意味では待遇がよいらしい。

 それで待遇がいいと言われてもどうしても納得はしかねるが、しょうがない。

 恵一は、アンにすまないと思いつつも、体を洗い湯船につかって疲れを癒した。

 この世界にやってきてから、初めて心の底からリラックスできた瞬間であった。

 日本人の恵一としては、湯船につかる、という行為がこの上もなく心地よい。

 家の風呂のことが思い出されて、父と母、そして妹のことが浮かぶ。

「おれより、あいつが召喚されたらよかったんだよな」

 呟いて、笑った。

 妹は、けっこうオカルト好きだったから、こんな世界に飛ばされたら目を輝かせて魔法を習得しようとしたに違いない。

「ん?」

 そんなことを考えていたら、頭の中に不意に何かが浮かんできた。

 なんなのかは、輪郭がぼやけて定まらずはっきりとはわからない。

 おぼろげな記憶。

「あ……」

 そして気付く。

 ずっとこの世界に来る最初のこと、魔王復活を案じて選ばれし者を呼び出した聖女か或いは召喚能力を悪用する極悪愉快犯の少女のことばかり思い出していた。

 それが、やはりこの世界から元の世界へと帰るなんらかの手掛かりになるのではないかと思ったからだ。

 でも、その以前、元いた世界の最後の記憶が無い。

 いつものように、夜遅くまでゲームでもやって普通に就寝したのかと漠然と考えていたが、その記憶もはっきりしない。

 明確に、この世界に来る直前、自分が何をしていたかの記憶が無いのだ。

 記憶喪失というのは、色々と誤魔化すためについた嘘なのだが、そういう意味では部分的な記憶が失われているのは事実だ。

「駄目だ。……思い出せない」

 失われていると、その部分に何か重要なことがあったのではないかと、どうしても考えてしまう。

「なっげえなあ」

 風呂から上がると、ケイトとアンはとっくに上がっていて文句を言われた。確かに考え事をしていたせいで相当長湯をしてしまったのでそのことを謝って、食べ物を買って帰り、また例によってお祝いだと言って、そこそこ豪勢な食事をしてその日は寝た。

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