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やっぱり駄目だった

 エイロンの街には、公会堂があり、そこが交渉の場として使用されてきた。

 両者の城館からの距離が同じぐらいになるような位置にあり、そしてそのようなある程度のスペースが確保できる建物があるという条件に適ったためにエイロンは選ばれたのである。

 領地としては、リアントゥム男爵領ということになっているが、ハウト男爵領とも近く、付き合いが無いわけではない。

 そして今日、口舌によって火花散る交渉の場であった公会堂の一室は、両男爵家の和解の調印式の会場としての栄誉を与えられることになった。

 精一杯に飾られた会場に、立会人であるイリアの姿があった。

 彼女から見て右にハウト男爵家の一団、左にリアントゥム男爵家の一団がいる。

 もちろん、ハウト側の先頭にいるのはミレーナであり、リアントゥム側のそれはリードである。

 一応、アレンはこの部屋には入室はしていたが、一番後ろの方で目立たないようになりを潜めている。

 イリアに促され、ミレーナとリードが彼女の前にある広い机に向かって歩いていく。

 ミレーナの右後方に恵一はいた。

 リードの方も、後ろに一人従えている。

 護衛であるが、あくまでも儀式を飾る装飾品の一つのようなもので、実際にこういった場所で相手方を害そうとする者などそうそういない。

 しかし、過去そういった例が皆無というわけではないというので、それなりに緊張して恵一はその場にいた。

 とは言っても、先方の人間とミレーナが接触する場所には立会人のイリアがいる。

 こちらは、この場でリードを襲うような馬鹿げた真似をするつもりは全く無いので、何かあるとしたら向こう側が仕掛けてくる場合だろう。

 だが、その時は、イリアが和解の調印式で狼藉を働いたとしてこれを排除し、ミレーナを守ってくれるであろう。

「御両者、本日はこのイリア・カム、調印の立会人を務めさせていただきます。我が主君

に捧げた剣に懸けて」

 決まった口上である。イリアがそう言うと、ミレーナもリードも深く頷いた。

 イリアの主君とは言うまでもなく、ヤシュガル王国の王女である。それに捧げた剣に懸けての誓いとあらば、それは主君の名誉に懸けての誓いも同然であり、破れば主君の顔に泥を塗ったことになる。

 それゆえに、その言葉の重みも増すというわけだ。

 イリアは、両者の交渉自体には徹底的に関わらぬようにしていたが、既に条件等が決まった上で、儀式として行われる調印式の立会人を務める程度の独断は許されていた。

 実のところ、両男爵家にとっては立会人に適当な人物として、すぐ近くにいるという利便性から選ばれたところがある。

 当初、両家ともに付き合いのある某伯爵家の人間に立会人を頼んでいたのだが、アレンが引っかき回したせいで一度調印式が流れた際に、こっちも忙しいから別の人間に頼めと降りられてしまったのである。

 某伯爵家としては、なんだかややこしいことになりかねぬので素早く身をかわしたのであろう。これもまたイリアと同じで、儀式としての調印式ならともかく両家の交渉自体に関わることになる危険性を嫌ったのだ。

「読み上げさせていただきます」

 イリアは手にした紙に書かれた和解の条件について一つ一つ読み上げていった。

 ミレーナもリードも同じ内容が書かれた紙を持っており、イリアの声に合わせてその文面に目を走らせていく。

「以上です。内容に間違いはありませんね」

 読み終えてイリアが言うと、二人はそれぞれに間違いの無いことを宣言した。

「それでは」

 イリアが持っていた紙を机上に置き、それをミレーナの方へ向けて滑らせた。

 そこで、イリアの後ろにいたゆったりとしたローブを着た初老の男性が歩み出てきた。

 彼は、レベル25の認定を受けた魔術師であり、今回の調印のために来ている。

「この契約に同意することを誓いますか?」

 男がそう言うと、紙がほんのりと光ったように見えた。

 ミレーナは紙の上に手を置き、目をつぶり、一言一言に力を籠めて言った。

「私、ミレーナ・ハウトは、グランフル・ハウトの名代として、当契約に同意することを誓います」

 一秒……二秒……三秒……静寂に支配されたままに時は過ぎ、やがて男が頷いた。

「魔術印を確認いたしました。ミレーナ・ハウトは、当契約に同意したものと認めます」

 男の声に、ミレーナが長く長く、緊張の途切れたことを示す息をついた。

 恵一はその後方で、これが話に聞いていた魔術師が絡んだ契約かと興味を持って眺めていた。

 ケイトに話だけは聞いていたが、こうやってやるのか。

 なんでも、あそこで内心では契約に同意していない場合などは、魔術印が発現せずに立会人の魔術師は不同意を宣言し、契約は流れてしまうのだという。

 借金の契約だったらその場で、てめえハナから返す気ねえなと蹴り出される程度で済むが、これがこういった貴族同士や或いは王家同士の席上で発生すると、最初から騙す気だったのかということになり、過去には講和が無かったことになって戦争継続になったこともあるという。

 ミレーナが、印を認められて安堵の息を長く吐いたのは、それゆえである。

 今回、違反の際の罰則としては、ケイトの時のような具体的なことは定められていない。

 個人の契約ではなく、組織と組織の契約だとそれが一般的なようだ。

 ケイトが金貸しと結んだそれと違うのは、魔術印の確認のための魔術師の立会人とは別に、調印そのものへの立会人がいることだ。

 今回はイリアであり、当初の予定では某伯爵家の人間であった。

 王女にしろ、伯爵家にしろ、両男爵家ともに顔を潰して敵対するのは避けたい相手である。

 それゆえに、その立会人の存在が契約違反の抑止力になるのだ。

「それでは」

 イリアがそのまま紙を今度はリードの前に差し出す。

 男がリードの方へと移動して、先程と同じように、

「この契約に同意することを誓」

「待てコラぁ!」

 言おうとしたら、なんか乱入してきた。

 乱入者は、あんまり手入れされていない金髪を頭の後ろで縛った女性であった。

「何者だ!」

「調印式の席上だぞ!」

 ハウト男爵家の側から、そんな声が上がる。

「リ、リアッセ!」

 リード・リアントゥムが叫んだ。

「リアッセ様!」

「なぜここに!」

 その他のリアントゥム側の人々も叫んだ。

 それらのことから、女性がハウト男爵家ではなく、リアントゥム男爵家の関係者であることは明白であった。

「調印したの!? ねえ、したの? してないの? どっち!」

 有無を言わせぬ畳み掛けるような口調で、リアントゥム家の随員に詰め寄る。

「あちら側が魔術印を済ませ、リード様がこれからやるところです」

「ああ、よかったあ」

 女は、胸に手を当てて言った。

 瞬間、あどけなさが面上に浮いてとても幼く見えた。

 恵一も、この乱入者に対して身構えていたが、最初に見た時に受けた印象は、美人だけどきっつそうな人だな、であったのが、なんだ意外に無邪気な人なのかな、というものに改められた。

 女が、そのあどけない顔のまま、机に近付いてくる。

 みんな、飲まれていた。

 リアントゥム家の者たちは困惑しきっているし、ハウト家側も大差無い。

 さすがにイリアは呆けてはいないが、意図が全くわからずに動きをとれない状態であった。

「兄様」

 唖然とするリードに、女は言った。

 その一言で、その場にいた人々は、このリアントゥム家の関係者らしい女性が、関係者どころかリードの妹、すなわち男爵の娘であることを知った。

「まだ魔術印してないんですよね?」

「あ、ああ……」

「ああ、よかったあ」

 もう一度、女性は言った。

 言いながら、物凄くさりげなく既にミレーナが刻印済みの調印文書を手に取る。

「間に合ったわあ」

 びりびり――と。

 彼女は、あどけない顔のまま、あっさりと文書を破り捨てたのであった。

「リリ、リッ、リアアアッセエエ」

 甲高い声で、リードが叫んだ。

 それに少し遅れて、両家の者が騒ぎ出す。

「こんなもん、調印するか!」

 楽しそうに、本当に凄く楽しそうに、女性は笑った。

「リア、リアッセ、お前、何をしたかわかっているのか!」

 温厚温和で知られるリードが、激昂し、椅子を蹴って立ち上がった。

「見ての通りです」

「おま、おま、お前という奴は……まったく……本当に……もう……」

「まあ、兄様、お任せを」

「お前に任せたらえらいことに」

 と、いうリードの言葉を聞いているのかいないのか、女は、ずんずんと前に出てきた。

 自然、机の向こう側にいたミレーナへ接近することになる。

「あ……」

 恵一は遅ればせながら、自分の役目を思い出し、この女からミレーナを隠すように前に出た。

「ん? ふふ」

 女は、敵意の無い笑みを見せた。

 護衛か、健気よの、とでも言うような笑みだ。

「アレン・ハウト! ……ではないわね、貴方」

「え、あ……は、はい。私は、ミレーナ・ハウトと申します。アレンは兄です」

 この状況だが、さすがにケイトに「気品がある」と言われるだけあって、ミレーナは丁寧に答えた。

「ああ、ハウトのお嬢さんか」

 そう言った女の顔にも声にも、アレンの名を呼んだ時のような険しさは無かった。

「アレン・ハウト。どこよ、出てこい」

 で、またアレンの名が出てくると、それに従って険しい感じになる。

 とりあえず、この女がミレーナに対して無闇な敵意は持っていないようだと思い、その点についてはやや安心したものの、それでも調印式に乱入してきて無茶かます女であるから何をするか予想ができない。

 恵一は、依然として、女とミレーナの間の位置を維持しつつ、事の成り行きを見守ることにした。

「アレン・ハウト。どうした。来てないの! 臆したか!」

 言いたい放題であるが、確かアレンは今日は一番後ろの方にいるはずだ。

「キンタマついてんのかコラぁ!」

 リードって人の妹ってことは、一応アレも男爵令嬢であり、つまりミレーナと身分立場は同じなんだな、と思ってたとこにミレーナの口から絶対出てこない言葉が出てきた。気品の欠片も無い。

 てか、あんなの男爵令嬢に限らず、こんな大勢の人間がおる公式の場で言い放つ女はいねえ。

 ケイトだって、こういう場では言わないぞ、家では平気で言うけど、と呆れつつ、男爵令嬢には違いない何かを恵一は見ていた。

「アレン・ハウトだ」

 そこへ、アレンが出てきた。

「おう、逃げたかと思ったわよ」

「一番後ろにいたから、前に出てくんのに時間かかっただけだ」

 アレンは、苦り切った表情である。まあ、色々と無理もない。

「話には聞いている。リアッセ・リアントゥム。男爵の娘でリード殿の妹」

「そうよ」

「……リアッセお嬢様。何を考えているんだ。こんなことをしてどうなるかわからんのかね」

「交渉のやり直しでしょ。まだ正式な調印前だったんだから」

 挑発的な表情で、リアッセは言った。

 それが、暗に、あんたと同じことをやっただけだ、という意味だと悟ったアレンが叫んだ。

「馬鹿野郎! 調印前だからって、式の席上で調印文書破るような真似が許されるか!」

「許すも許さんも、調印はまだされていないってことよ」

「リアッセ!」

 二人の間にリードが割って入ってきた。

「アレン殿、このようなことになって申し訳ない。この馬鹿は、今回の経緯をよく知らんのだ」

「兄様!」

 言うと同時に、リアッセの右腕がリードの襟首を掴んでいた。

「あなたがそんなだから!」

「リアッセ! いい加減にせんか!」

 兄妹が揉み合い、リアントゥム家の随員たちが引き離そうとする。

「お二人とも、落ち着いてくだされ!」

「リード様、怒りをお静めください!」

「お嬢様、頭突きはお止めください!」

 なんかもう、ここにいたら巻き込まれんじゃねえかという感じになってきたので、絶対こんなもん巻き込まれたくねえぞと思った恵一は、ミレーナを促して後方に下がった。

 リアントゥム兄妹が、随員たちによって室外に連れ出され、随員の中では最も年長らしい男が、残った。

 その男も、このようなことになってしまったことをアレンとイリアに詫びると、出て行ってしまった。

 苦り切った……というも表現が足りぬぐらいに苦り切りまくったアレンは、吐き捨てるように、

「……確かに、アレでは、調印どころではない」

 と、言った。

 その後、イリアの所へ行き、

「イリア殿、御足労願って立会人の務めを果たしていただいていたのに、このようなことになってまことに申し訳ない」

 と、頭を深々と下げた。

「いや、まあ、お気になさらず」

 イリアの言葉に、もう一度頭を下げて、アレンは部屋を出て行った。

 一体自分はどうしたものかと恵一はミレーナを見た。

 しかし、彼女も事態の急転に全くついていけぬようで呆然としている。

「いやぁ、えらいことになったなあ」

 部屋の外にいたケイトがやってきた。大体何があったかはわかっているようだ。

「とにかく、宿に戻ろうぜ」

「ああ、そうだな。……お嬢様、戻りましょう」

「え、あっ……はい」

 宿に戻ると、一足先に帰着していたアレンが苛々とした様子で歩き回っていた。

「とにかく、調印のやり直しだ」

 交渉のやり直し、とはアレンは言わなかった。

「調印式の席上での狼藉は無礼極まりないが、頭の悪い妹殿の暴走なので目をつぶってやる。明日にでも調印式のやり直しだ。式の最中は妹殿を拘束しておけ、とリード殿に伝えてこい」

 そう言ってから、

「……頭の悪い妹殿、じゃなくて事の次第がよくわかっていない妹殿、と言え」

 と、訂正した。

 使者が、リアントゥム家の逗留している宿へ向かって走った。

 それを見送ったアレンは、さすがに隠せぬ疲労を大きな溜め息にあらわして、どっかりと椅子に腰を下ろした。

「おう、ミレーナ。今日は大変な目に合ったな。もう休め」

 ミレーナの姿を認めて、アレンは言った。

「あ、あの」

「ん?」

「あの方が、リアッセ様なのですね」

「ああ、そのようだな」

 その名前を聞くのも嫌だ、というふうにアレンは天井を仰ぐように椅子の背もたれに体を預ける。

「お名前だけは存じ上げていたのですが、まさか、その、あんな方だとは、思いませんでした」

「ああ、おれも驚いた。あんな馬鹿だとは思わんかった」

 仕方の無いことだが、アレンは彼女に悪意があり、隠す必要も認めていないようだ。

 彼にしてみれば、ほぼ自分の思惑通りに事が運び、それが結実する瞬間に邪魔されたのだから悪意を持つなというのが無理な話である。

「まあ、リード殿たちに説明を受けて今頃青くなってるだろう」

 既に述べたように、交渉やり直しというアレンの無茶をリードが聞き入れたのは、一部始終を明かして世に是非を問われれば、主君である国王をはじめとしてリアントゥム男爵家に味方する者などほとんどいないと考えたからだ。

 それを聞けば、自分のしでかしたことの重大さを痛感するであろう。

 と、アレンは言うのだが、恵一としては直感的にではあるが、そんな殊勝な人間かなあと思わないでもない。

 アレンは後ろにいたから見えていなかっただろうが、恵一はすぐそこで見た。

 調印文書を破る時の、幼女のようにあどけない顔。

 ああいう顔で、ああいう無茶をやらかす人間が、そう簡単に己の行いを反省するであろうかと思うのである。

「ヘイムヴルスに留学していると聞いていたから、まともな人間かと思ったが……」

 アレンの呟きに、ミレーナは反応した。

「ヘイムヴルスですか! 凄いじゃないですか!」

 ミレーナの目が輝いているのを見て、恵一は隣のケイトを肘でつついた。

「ヘイムヴルスってのは学問の都って呼ばれてる街だよ」

「へえ」

 ミレーナの態度から推察するに、そこへ留学するというのはけっこうなステイタスらしい。

「てっきり学問ができるから留学したのかと思っていたが、どうやら学問を全くしないから留学させられたようだな」

 確かに、あれを見てはアレンの言うことが正しいのだろう。

「ああ、それとお前、なんだっけ? ほら」

「あ、恵一です。恵一天本です」

「ああ、アマモトな。ミレーナがお前をつけたいっていうから、どうせ今日は単なる儀式だから護衛なんぞいてもいなくてもいいと思ってつけたが、それなりに護衛らしいことはしてたじゃないか。褒めてやる」

「あ、はい、どうも」

 ちょっと初動が怪しかったが、ミレーナとリアッセの間に立ち続けたのをアレンはそれなりに評価してくれたようだ。


「ケーイチ、時間が出来たし、ぶらつこうぜ」

「ああ、そうだな」

 というわけで、ケイトとアンと一緒に、自分も行きたそうにしているがアレンによって外出禁止のミレーナを置いて出発した。

 とにかく、アレンが近くにいる間は無理だ。

 王都に帰ったら、お忍びにお付き合いしますから、と小声で言っておいた。

 公会堂のような調印式に使える建物とは別に、両家の者が逗留する大き目の宿屋が二件は必要であり、それを基準に選ばれているのだから、エイロンの街はそこそこ栄えていた。

 街をぶらつき買い食いしながら人の話を拾うという、いつもの情報収集を行うと、やはりというかなんというか、調印式で勃発した珍事については早くも噂になっていた。

 話は錯綜しており、アレンとリアッセが殴り合いをしたと言っている者までいる。

「こら、戦争だな」

「血ぃ見な、おさまらんじゃろ」

 すれ違った男たちの言葉に、恵一は思わず立ち止った。

 以前はあれほど心配していたのだが、もう今は戦争になることはあるまいと思っていたのだが。

「おい、ケーイチ、どした」

「いや、今の人たち、戦争になるって」

「あー、なんか言ってたな」

「せ、戦争に、なるのかな」

「さあ、なんないだろ。さっきアレン様も言ってただろ」

「えっと、それはあれだよね」

「ん?」

「リードっていう人が、あの人に説明して、あの人が納得したら、だよね、それ」

「うーん」

 ケイトは、少し考え込んだ。

「あたしは、あの人ってのを部屋の外にいたから見てないからよくわかんないけどさ」

 ケイトはリアッセを見ていないのだ。

「なに、ケーイチから見て、納得しそうにない感じのアレだったん?」

「……うん」

 どうしても、調印式での文書破りのような大事をするとは思えない、あどけない顔が目に焼き付いて忘れられないのだ。

 あんな顔のまんま、平気で殺人でもしかねないおっかなさがある。


 で、その彼女はどうしているのかと言うと……。

「リアッセ! 事の重大さがわかっているのか!」

 という兄の怒声を受けて、平然としていた。

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