なんにもできません
どこからともなく、アレン・ハウトはやってきた。
歳は今年で二十五歳になる。
見聞を広めるためなどと称して、取り巻きの腕に覚えがある青年たちを引き連れて一カ月ぐらい家を空けても平気でいる彼は、どこにいるとかの連絡もろくに寄越さない。
どうも男爵だけは、取り巻きの何人かに命じて逐一報告させているらしいのだが、その情報がいちいちブレンニールまで回って来るかと言えば、ほとんど来ない。
そうなると、ブレンニールにしてみれば「どこからともなく」としか言いようがないタイミングでアレンは出現することになる。
そもそも彼は近辺にはいたのだが、まだしばらく戻るつもりはなかった。
しかし、リアントゥム男爵家と我が家の揉め事を噂で聞いて、急遽やってきたというわけである。
「正確なところが知りたい」
道々、噂レベルの情報を集めながらやってきたアレンが欲したのは、まずは正しい情報であった。
アレン様が帰ってきた、と聞き付けて彼の元に駆け付けた者たちがいる。
彼らは、今回の事件においてエリックにいたく同情し、その元凶たるリアントゥム男爵家への敵意に燃え、さりながら家中の大半がブレンニールが取り付けてきた条件に不満はあれども従う他あるまいと落ち着いてしまったために浮き上がってしまっていた、強硬派とも言うべき人々であった。
「アレン様、聞いてください!」
その顔は一様に、曇天の雲間に太陽を見たごとく、すがり付くような色に満ちていた。
豪胆で、武張ったことを好み、リアントゥム男爵家の侮りを受けていることをよしとせず、日頃より奴らに負けるなと兵士たちに発破をかけているのがアレン・ハウトである。
「よし、話せ」
アレンは彼らの話を聞き、果たしてすがった彼らの期待通りの反応を示した。
「ブレンニールは、そんな腐った条件飲んだのか」
「飲んだどころか」
アレンが自分たちに同調してくれそうだと踏んで、勢い込んで彼らは言った。
「ブレンニール殿が、自ら提案したという話ですぞ」
「ああん?」
「あまりこのようなことを言いたくはないのですが……」
「かまわん、言え」
と、言われて実際は言いたくてしょうがないその口は滑らかに動いた。
「ブレンニール殿は、リアントゥムの長男であるリード殿のことがいたくお気に召したようで、誠実なお人よ、立派なお人よと吹聴しているような有様」
「なんじゃ、そらぁ」
「まさかブレンニール殿に限ってそのようなことはあるまいとは思うのですが……どうしてもあの方が、リード殿に籠絡されたようにしか見えぬのです」
アレンは席を蹴った。
「あのハゲ! どこにいる! とりあえず話を聞きたい」
ちなみに、ブレンニールは別にハゲてはいない。
日中は執務室にいる、と言われてアレンは城館へと向かった。
その場にいた者たちも続いたが、その人数が増えていき、城館前に来る頃には三十人に迫る人数になっていた。
強硬派とは一線を画して自重していたものの、本心では不満を溜め込んでおり、アレン様がやると言うなら自分も、と合流してきた者が決して少なくなかったのである。
蹴破らんばかりの勢いでドアを開けてなだれ込んできた一団を見て、ブレンニールは不平分子が軽挙妄動して自分を殺すという行動に出たのかと思った。
「アレン様!」
だが、その先頭に、主君の長男を見て事態がそう単純なものではないことを悟った。
怒気を隠そうともしないアレンに促されて、ブレンニールは事の次第を話した。
リードとの交渉の話の際には、リードに籠絡されてあちらの有利に運ぶようにまんまと乗せられたのであろうという、聞えよがしの声がアレンの背後の者たちから浴びせられた。
ブレンニールは、当人としてはあくまでも戦争回避という目的のために、出来うる限り最善に行動したつもりであり、そのように見られるのは心外であった。
「正式に調印はしてないんだな」
一通り話を聞いたアレンは言った。
話の中には、ミレーナが男爵名代としてその調印を行うためにこちらに向かっているという話も含まれており、それはすなわち調印が未済であることを示している。
だが、敢えてアレンは念を押すように言った。
「……はい。お嬢様の到着を待って調印式を行う予定です」
その意図を少しはかりかねて、ブレンニールは恐る恐るそろりと声を出すように答えた。
「よし、まだ調印してないなら、これからどうとでもなる」
にやりと笑ったアレンの意図を察して、ブレンニールが青ざめる。
「ま、まさか、これから交渉のやり直しをするおつもりでは」
「そのつもりだ」
アレンの言葉に呼応して、周りの者たちは歓声を上げた。
さすがアレン様だ――という声に、自分のこれまでの苦労を否定する響きを感じてブレンニールは苦々しい表情になる。
それでは私の立場が無い――
だが、それ以上にブレンニールの胸中を満たしたのは、リード殿に申し訳が無いという気持ちであった。
それが溢れてしまうのを、ブレンニールは押さえなくてはならなかった。
家中を説得するためだったリード賛美が、不平分子には自分が彼に籠絡され取り込まれたように思われていたというのをたった今、目の当たりにしたばかりである。
「もっと大勢から話を聞きたい。ああ、そうだ、エリックの家族はどうしている。さぞや心痛しているであろう」
「案内させていただきます」
「うむ」
先導する者に着いて、アレンは執務室から出て行ってしまった。
他の者ももちろんそれに続き、誰もいなくなった執務室にブレンニール一人が残された。
解決したと思っていた事態の急転に愕然としつつも、ブレンニールはミレーナへの書簡をしたため、信頼できる者に託して宿場町に急行させた。
その後、さあ交渉のやり直しだと意気込むアレンとそれに同調する者たちに遠慮してか、職務上の用事がある者を除いてはごく少数の者しかブレンニールには会いに来なくなった。
疎外感を感じつつ、日常の処理せねばならぬ業務は継続的に発生するので、それを処理することに没頭していた。
そんなところへ、ミレーナたちが到着したのである。
「ありがとうございました」
ブレンニールの話が終わると、イリアが言った。
そして、イリアはこの件に関して完全なる中立を貫くことを宣言したのである。
交渉の場へ姿を現さないのはもちろんだが、助言の類もしないというのだ。
「そんな」
思わず、恵一は言っていた。声こそ出さぬがミレーナも同じ気持ちに違いない。その証拠に彼女はとても不安そうである。
一週間をともに旅して、年上で自分よりもずっと大人で腕が立ち、常に冷静沈着なイリアに頼る心情が恵一には芽生えていた。
もっと付き合いの長いミレーナはさらにそうであろう。
「イリア殿にはお立場がありますから」
と、言ったのはブレンニールだ。
彼が言うには、イリアは姫様――すなわちこの国の王女の臣であり、今回はあくまでも王女がミレーナに対する好意で、彼女の護衛につけたということになっている。
だが、いかなる形であろうと今回のことに関してイリアがミレーナに力を貸せば、それはミレーナ個人ではなくハウト男爵家への助力と受け取られてしまうだろう。
イリアが自らの判断で動いていると見る者はおるまい。必ず主人である王女の意を受けて動いているのだと思われる。
そうなれば、相手方であるリアントゥム男爵家では、姫様が敵に回っているのかと思いこんでしまうかもしれない。。
そのような事態は、イリアとしてはなんとしても避けたいところである。
ブレンニールとしてもそれは同じであった。
姫様は我がハウト男爵家の味方だ――
姫様は我がリアントゥム男爵家の敵だ――
それらの勘違いがろくな結果を招くまいと彼は考えていた。
一見、ハウト男爵家の利益を思案するならば、その勘違いを利用して王女の威を背景にして交渉を有利に運ぶ手もあるのではないかとも思えるが、バレてしまったが最後、姫様の威光を騙って利を得ようとした卑劣漢と言われてしまうだろう。
もしもバレなかったとしても、リアントゥム男爵家の者たちの怒りはハウト男爵家に向くであろう。
王家に忠義なことを誇りとする彼らは、公然と王女を敵視などできない。そうなるとその矛先はハウト男爵家しか向かう先が無い。
あいつらがお得意の「政治」で姫様をたぶらかしたに違いない! と激昂するサマがありありと想像できる。
ブレンニールは、悪い事態への想像力が高い人間であった。
イリアが中立を堅持しなければならぬ理由はわかったが、それでも恵一はやはり心細さも手伝って恨めしい気持ちを消すことができなかった。
ミレーナの護衛という同じ目的を持って旅してきたイリアと恵一は、必然的に協力者の関係であり、すっかり彼女に仲間意識を持ってしまっていた恵一としては、中立ですら薄情に思えてしまう。
「それでは、すぐにでも出ていきます」
「え?」
「宿は適当に自分で探すので」
「え、いやいやいや! イリアさん!」
「なんだ」
「いや、何言ってるんですか、ここに泊まればいいじゃないですか」
突拍子もないことを言い出してどうしたというのだろう。
「いや、中立だからな。この城館で厄介にはなれん」
「そ、そこまでしないでも……」
どう考えてもやり過ぎだ。別に城館に泊まるぐらい、いいではないか。
「……私がいることは、すぐにリアントゥム男爵家には知れるだろう。そうなれば、彼らは様子を探りに来るはず。それに対するポーズだよ」
イリアが言うには、彼らはイリアに監視をつけて動向を探ろうとするかもしれない。街の宿屋で監視にさらされていれば、ハウト男爵家の者とは接触していないという証になる。
これが、ハウト男爵の城館にいれば、その中にまで監視が行き届くとは思えず、そうなると彼らはイリアの動向に把握できない部分を多く抱えてしまうことになる。
その不明の部分に、何か彼らにとってよからぬことをしているのでは……という疑念が生じる余地ができてしまう。
いわば、監視されることによってアリバイを得ようというのである。
説明によって、理解はしつつもどうしてもミレーナの心細さを思うと納得はできかねる恵一である。
「お嬢様のこと、頼むぞ」
という別れ際のイリアの言葉にも、満足な返事はできなかった。
恵一たちは、城館内に一部屋あてがわれた。家臣とかではなく来客用の部屋らしく、かなり豪華な部屋である。
身分としては臨時雇いの護衛に過ぎぬのだが、同時にミレーナの命の恩人でもあり、ブレンニール辺りがそちらを重視して決めたのだろう。
「うっひょお!」
ケイトなんかは大はしゃぎで柔らかい布団の感触に、歓声を上げている。
「うっひょお!」
と、こっちはなんかちょいちょいケイトの真似をするようになってきたアン。そんなことでいいのか、と思わないでもないが、そうやって二人が仲良くなっている感じなので、それはそれでいいかとも思っている。
「こりゃあ、飯も期待できっぞ」
「飯! 楽しみ!」
テンションうなぎ登りの二人を見る目に、どうしてもてめえら気楽でいいなおい、という感情が乗ってしまうのは仕方ない。
「あん? どーしたんだよ。ケーイチ」
で、それをケイトに察知されてしまった。
「いや、楽しそうでいいなあ、って思ってさ」
「楽しくて悪いか。あん?」
「別に悪いなんて言ってないだろ」
「悪いって言ってるような目だぜ」
「……」
そう言われては、自覚があるだけに何も言えぬ。
「あのなぁ、ケーイチ。あたしらが気を揉んだって今回のことはどーしょうもねえんだぞ」
「いや……それは、わかってるさ」
「あたしらは自分の仕事やってりゃいいんだ。イリアさんにも頼まれてたろ」
「仕事か……」
ミレーナの護衛。
それをやるつもりはあると言えばあるのだが、その必要性があるのかと言えばあんまり無いと言わざるを得ない。
城館内に入ってしまえば、ある意味そこにいる兵士や或いは文官ですら全てミレーナの護衛と言えるのだ。
実際、このようにミレーナとはやや離れた所にある部屋を与えられたのは、ここにいる間はお嬢様の護衛はこっちでやるから、お前らはゆっくりしてていいよ、ということである。
それに……そもそも今のミレーナに必要なのは物理的な脅威に対して剣を振るう者ではない。
イリアという、心が許せて頼りにできる人間と離れた彼女には、その代わりになる人間が必要だ。
自分がそれになれるというのは思い上がりだろう。自分はそれほど大した男ではない。
だが、ミレーナにとっては自分は命の恩人という燦然たる存在である。
彼女がそう思っている以上、恵一はやはりミレーナにとって特別な存在であるはず。
それが、彼女を力付ける役に立たないだろうか。
そんなことを考えていたら、ケイトが立ち上がった。
「んー、飯にゃまだ早いよなあ」
と、言いながらドアへと向かう。どうやら恵一は考え事をしていて気付かなかったが、ドアがノックされていたらしい。
「うぃーす。……って、これはこれはお嬢様!」
ケイトの言葉に、恵一も立ち上がる。
「どうぞどうぞ」
とケイトに誘われて、ミレーナがやってきた。
「おくつろぎのところ、すみません」
「いやいや、飯まで暇してたところです。なっ、ケーイチ」
「はい、ていうかお嬢様なら大歓迎ですよ」
恵一は浮き立った声で言った。離れた部屋になってしまい、会いにくくなってしまったのが困りものだったのが、こうして向こうから会いに来てくれたのだ。
「すみません。みなさんよくしてくださるんですけど……正直、あまり知っている人がいないのです」
ミレーナは王都暮らしが長く、領地には馴染みが薄い。
そもそも、彼女は到着後すぐにでも男爵の名代として調印に臨む予定だったのだ。
調印式自体は明日以降であろうが、そのための打ち合わせは今日にでも始めるつもりで彼女なりに張り切っていたのだ。
それが、一連の騒動の結果、調印なんぞ望むべくもない状況になってしまい、目下のところやることがないのである。
あんな条件飲めるか、交渉のやり直しだ! という者にしても、正式な調印はしていないと言っても今更交渉のやり直しなど申し出るのはまずいのではないか、という者にしても、それはいわばアレンに賛成か反対かであって、間違いなく今のハウト男爵家は彼を中心に動いている。
そうなると、全てのお膳立てが整ったところに男爵の名代という役割として現れ、その役割を演じることだけを期待されていたミレーナの存在は、完全に宙に浮いてしまった。
身の回りの世話をする者は当然おり、それらは完璧に近い精度で職務を遂行してくれるが、ミレーナの身の置き所無き空虚な気持を埋めてくれるものではない。
自然と、彼女の足は一週間の旅をともにして、多少は打ち解けることのできた連中のところへと向かった。
「私は、どうすればいいのでしょうか」
いきなり、そんなこと言われてもどうせいこうせいとは言えないが、恵一は必死に考えた。
その必死な恵一を見て、いささか呆れている様子のケイトが言った。
「いや、どうもこうもあたしらじゃどうにもならんって。いい知恵もないだろ」
その通りではあるのだが、ミレーナのために必死になってる時にそうズバッと断定されると反発したくもなってくる。
でも、いい知恵は、確かに無いのだ。
「お嬢様、失礼な物言いになりますけども、お嬢様にできることって無いと思うんです」
ホントに失礼なこと言い出したので恵一は止めるが、聞きゃしない。
「元々、話が決まっとるところに男爵の名代として調印するのが目的だったんですけん、そのお膳立てがグチャグチャになった以上、どうにもなりませんわ……」
「それは……」
「お嬢様から、兄上に言って、それで兄上が今の行動止めるんなら話は別ですけど」
「……それは、無理です。私がいくら言ってもお兄様の意思を変えるなんてことは……」
「それなら、やれることはないんですから、のんびりと話が決まるのを待ってればいいんです」
ケイトの言うことはいちいち正しかったりする。
どうするか、と言ってもそれは何かをすることができるという前提でのことだ。もう前提からして駄目なのだから、どうもできん、という答えしか出ないのである。
だが、正しいからといって正解とは限らない。
ケイトの言葉を聞いて、ミレーナはわかってはいたのであろうが現実を突き付けられて消沈している。
それは正解ではなかった。
少なくとも、ミレーナの心を救いたいと思っている恵一にとってはそうだ。
「あの……お嬢様は、なにが心配なんでしょう?」
ミレーナが焦燥感を抱いているのは、なんらかの具体的な心配事があるからなのではないかと恵一は思った。
「いや、正直、なんの役にも立てないけど、話聞くぐらいならできますから」
内心の不安を溜め込まずに、誰かに吐露するだけで気持ちは楽になるものだろう。
「うん。そのぐらいならお役に立てますぜ」
ケイトもそう言って、寝転がっているアンを呼んだ。
「おう、アン。お嬢様に尻尾お貸しせえ」
「んむ、わかった」
というわけで、アンの尻尾を両手で撫でたりこねくり回したりしながら、ミレーナは話を始めた。
結局のところ、彼女の不安は一つである。
「戦争になってしまわないかと……それが不安で……それを思うと何かしなければと……いえ、もちろんケイトさんが言ったように自分には何もできることは無いというのはわかってはいるんです。それでも、何か……何かしなければ、という焦りばかりが先に立ってしまって……」
戦争。
聞いた瞬間、恵一はあまり縁の無い言葉だけに非現実的な感じを持ってしまったのだが、考えてみれば元いた世界ですら恵一の住んでいる国がその火中にいないだけで、世界のどこかでは常に戦争は勃発している。
恵一の国である日本ですら、直接的に関与していないだけで間接的にならばいくらでも関わっているのであるから、戦争に非現実感を抱くというのは自分の想像力が足りなかったのだ、と恵一はちょっと反省したりした。
「ええっと、兄上は、一度決まった話を無しにしようっていうんですから、そりゃまあ向こうは怒りますよね」
「はい……お兄様は正式な調印はまだだ、とおっしゃって、それで通すおつもりなのでしょうけど……そうは言ってもお互いの全権代理同士で話はついておりますし、そのことを大勢の人間が知っているわけですから」
口約束ではない。あくまでも最終的な調印が済んでいないというだけで、条件等は文章にしてお互いが持っているのである。
「さっきのおっさ……えーっと代官の人の話によると、向こうのリアントゥム男爵ってのは、自分らの強さに自信があって、こっちのことを弱いと馬鹿にしてるんだよなあ……こりゃいかんね」
ケイトの言う通り、いかん状況である。
アレンの交渉やり直しというのは、実質やっぱりこの条件じゃ納得できんからそっちがもっと引け、と言っているのに等しい。
ここまで話が決まっていたところに、この条件はこっちが有利すぎる、もっとそっちに配慮してやるからやり直しだ、とか言う奴は普通いない。
リアントゥム男爵家としては、当然ふざけんなという反応をするはずであり、もしも交渉やり直し自体には応じたとしても一方的に譲歩することはありえないだろう。
例えば、首謀者への処罰をもっと厳しくしろ、と言えば、じゃあその代わりにリードが謝りに行くのは無しな、と条件を出してくるに違いない。
リードだって、穏便な解決を望んでいる穏健派なのは確かだが、単なるお人よしというわけでもない。
一人殺しているのを、こっちは追放で済ますのだから、その代わりに自分が頭を下げに行くという条件を呑んだというところはあるはずだ。
どう出るかは不明ではあるが、とにかくその方向性が怒りを伴う方へと行くのは避けられぬところであり、まず間違いなく揉める。
揉めに揉めたその挙句、問題の解決を戦争に委ねるという可能性もゼロではない。
その際に、相手が自分より強いと確信しているのと、弱いと確信しているのとでどちらが決断のし易さに繋がるかは明らかである。
「えっと、戦争なんて、本当にありえるのかな」
恵一は、ケイトに向かって言った。
実のところ、やはり恵一は日本で普通に生きてきただけに、どこかに戦争イコールいけないことという意識があり、そう簡単に戦争に訴えるのだろうかという疑問がある。
「まあ、やる時はやるだろ」
ケイトは言った。彼女は、彼女或いはこの世界の住人から見て恵一の言動でズレているなと思うようなところがあっても、それを全部記憶喪失のせいということで片付けているので、いちいちそんなこともわからんのか的な態度はとらない。
「最近、大きな戦争は無いけど……地方領主同士の小競り合いなら、そんな珍しいことじゃないよ」
珍しくないことということは、すなわちそれをやってはいけないことだという意識が無いということである。
ミレーナの心配も、もっともなことというわけだ。
「でも、ブレンニールさんの話では、相手の人も戦争はしてはいけないと思ってるわけだから、きっと大丈夫ですよ」
「……だといいのですが」
恵一の気休め以上のものではない言葉では、やはりミレーナを安心させることはできないようだ。
リードが不戦の方針を採っていることは事実であるが、それが今回上手く行ったのは交渉相手であるブレンニールも同じ心だったからである。
これが、相手がアレンとなり、彼が戦争も辞さずという態度で強硬に主張を通そうとした場合、リードとて身内からの、それならばこちらも戦争を覚悟して突っぱねろという声に抗しきれなくなる恐れがある。
「実際、戦争になったらどうなんでしょう」
ブレンニールの話だけ聞いていると、どうも軍事的にはリアントゥム男爵家の方が精強らしいが、同じ男爵家同士である。そこまで格差があるとも思えない。
「え、あ、私も、そういうのはよくわからないのですが……」
ミレーナは、その辺り、疎いらしい。お嬢様と言っても一応男爵家の娘なのだから、家の軍事力のことなどは、ある程度は知っているものだと思っていたのだが。
「……私、駄目ですね」
「え、いや、そ、そんなことはないですよ、うん」
「いえ、なんだか今回のことで、私って本当に何も……男爵家の娘として知っているべきことを知らないのだと思い知りました。王都のどこの屋台が美味しいとか、そういうことばかり詳しくて」
やはり、お忍び外出は常習的なものらしい。
「お父様は、そんなことを知る必要は無いと言っているのですが、やっぱり少しは知らないと駄目ですよね」
「はあ……いや、でも、お父さん……男爵がそう言うのならばいいんじゃないですか」
むしろ男爵はそういうことを知っておくことを推奨しそうなものであるが、やっぱり仲がよくないのだろうか。
どこかに嫁にやるとしたら、嫁ぎ先はそれなりのできればハウト男爵よりも家格の高い家を目論むだろう。その時に、そういったことを知らなくて大丈夫なのだろうか。
それとも、この世界では貴族の令嬢というのはそういったことに無関心に育って歳が歳になったら嫁いで、嫁ぎ先でも家と家の紐帯の機能を果たしていればそれでよし、としているのだろうか。
考えてもわかることではないし、ケイトもそういったことはわからないだろう。ミレーナに聞いていけばわかるかもしれないが、その時は、自分が知るべきことを知らずに育てられている――すなわち、親の愛情が薄いのではないかと彼女が思うような方向に行くのが怖い。
とにかく、恵一の今の目的は、ミレーナにもっと楽になって欲しいということだ。
「こないだも言いましたけど、兄上がやるっていうならやらせたらいいですよ。お嬢様は遊んでたらいいんです」
相変わらずのケイトの丸投げ推奨だが、それが今はむしろ奨めるべき道なのではないかと恵一も思い始めていた。
なにしろ、何もできないのだから、何もしなくてもいいのだとミレーナに思ってもらうしかない。
「そうですよ。とりあえずは、なりゆきを見守りましょう。もしかしたら、そのうちにお嬢様が役に立てる時が来るかもしれません」
「そうですね。何をしようにも、何もできませんからね……あの、またここに来てもいいですか?」
「え、ああ、もちろんもちろん。な、ケイト」
「うす。いつでも来てくださいよ」
「尻尾お貸しするぞ」




