ルル
自信に満ち溢れ、恐怖など微塵も感じさせぬ不敵な面構えのリーンは、凄まじい強者のオーラを身にまとっていた。
待たせたわね、と言う声も何もかも頼もしげで、待ちに待った彼女がやってきてくれたのだから魔王など恐るるに足りずとか思いたくもなる。
しかし、実のところ別に待ってはいないし、来られたら非常に困るというのが本音である。
「け、怪我はもういいの?」
少しでも痛いとこがあったら後方でエリスに治療してもらってた方がいいよと言いたげに恵一はお伺いを立てたが、リーンは彼女が命を捨てる覚悟をした時に浮かべる朗らかな笑みを顔中に広げて力強く頷いた。
「よっしゃ、行くわよ」
と、言いながら恵一の後ろに立つ。
「……早く行きなさいよ、早く!」
思いっきりケツを蹴られた。
なにすんだよ、と言いかけて了解した。この部隊(五人だけだが)の隊長は恵一で、戦闘に際しては恵一が先陣を切り、自らはその後に続く、というアレがまだ生きているらしい。
「ほらぁ! ぼさっとしてるから逃げたわよ!」
もう一発蹴られた。
確かに、ぼさっとしている間に魔王はさっさと森に向かって、それを阻もうとする兵士と交戦に及んでいた。だが、やはり立ち向かおうという兵は少なく、すぐにでも突破されそうだ。
一瞬、けっこう時間が経ったはずなのに、まだヴェスカウ伯爵家の歩兵は到着しないのかと彼方を見やろうとしたが、
「ケーイチが行かんで誰がやるのよ!」
もう一発蹴られたのと、そのリーンの言葉により止めた。
そうだ。おれがやらねば誰がやる――
「よし、行こう!」
「おう」
突き進む先に、魔王がいる。苦り切っていた。
返す返すも、先程引き返したロスが効いている。いくらむかつくからと言って、あんな奴は無視して逃げていれば、今頃は森林の中に身を隠せていたかもしれない。
元の世界の自分だったら、絶対にあんなことはしなかったはずだ。
むしろ、こちらの世界に来て強大な力を得てしまったことにより、自分の感覚が狂ってしまったのではないか、と思う。
以前ならば、臆病さから来る状況判断力があり、そこらの見極めにはけっこう自信があった。
「くそっ! このっ!」
鑓を振る。だいぶ少なくなってきた。他は、もう遠巻きにしているだけで鑓の届く範囲には入ってこない連中だ。
「えい、鬱陶しい、黙ってろ!」
左下に顔を向けて叫ぶ。
そちらから、絶えずルルの嗚咽のような声が聞こえてきて、張り詰めた神経に少々障ったからである。
だが、黙れと言われて口をつぐんだが、ルルは歯を食いしばっている。
つい先程、嫌っていた挟撃の形に持ち込まれてしまい、右の敵を叩いている隙に左から肉迫されてしまい、咄嗟にルルを盾にした。
必ずそれが効く、とも思ってはいなかったのだが、近付いてきた敵は一瞬の躊躇いもなく剣を振ってきた。
「てめえ!」
慌てて「盾」を持った左手を引きながら、盾にした張本人のくせに、魔王は怒りを顕わに言った。
鑓を振ってその敵は打ち倒したが、ここは戦場だ。そんなことに気後れして攻撃が鈍るような者がむしろ少数派だ。
ルルは、剣がかすったようで、顔を負傷していた。
もう、盾としては使えないかな、と思った。
そう思ったなら捨てればいいのに、その割には大して労わる様子もなく再び左脇に抱え込んだ。
この場で役立たずめが、と打ち捨てれば、とりあえずルルは痛い思いや怖い思いはしないで済む。
だが、ルルに本当のことを隠して哀れな被害者として振る舞うような才覚があるかと言えば、それは全く無い。それに、部下も幾人かは生け捕りにされて尋問を受けるであろうから、そちらから正体がバレる恐れはかなりある。
今は誰もが、ルルのことを盾にされている人質と認識しているが、そうなれば罪無き哀れな少女ではなく、魔王の第一の部下として、時には作戦方針を定めていた老人の弟子であることから重要参考人として拘禁尋問されるに違いない。
それらのことを考えて、あくまでも連れていこうとか、そういうことまでは全く考えていない。
ルルを抱え込んでいるのは、逃げた後にこの世界で生きるための案内人として使いたいというのと、苦し紛れに盾にしたらこれがけっこう使えたから、というだけの理由だ。
そのうちの、盾としての用途に見切りはつけつつあるものの、案内人としてのそれがまだ残っている。
こう書くといかにも酷いが、それらの見返りにこれまでろくなことの無かったルルに、剣闘士で大儲けした金でいい暮らしをさせてやろう、とは一応思っている。
ルルが泣いているのは、怖いのと、痛いのと、そういうことであろう。だが、ここさえ切り抜ければ奴隷の境遇からは思いもしなかった人生が開けるのだ。
その時になれば、自分に感謝し、自分を尊崇し、自分に着いてきて――正確には無理矢理連れてこられているのだが――よかったと思うだろう。
それで、なんの問題もない。怖いのも、痛いのも、そして盾にされるのも、その時になればそんなこともあったなあ、って話だ。
大体、こいつは奴隷でろくな人生歩んでこなかったような奴だ。その辺の辛さに対する耐性は強いだろうから、問題ない。
――と、そんなふうにバッサリと考えていた。
だが、ルルの方はそんなふうにバッサリと生きているわけではなかった。
彼女が泣いているのは、結局、自分は奴隷であり、道具であるのだと認識したからに他ならない。
いや、物心ついた頃から、奴隷であり、道具であり、そのことはわかりきっていたことではないか、と言われればその通りではある。
その境遇から抜け出す方法が無い以上、それを認めてしまうことが最も楽な生き方だった。
自分の境遇を叩きこむと同時に、それをやり過ぎて心が完全に壊れても売り物の価値が下がると考えた奴隷商人は、よい主人に買われれば人生拓けることもある、と適当に吹き込んだが、ルルにとっては、それを信じることもまた辛い生に楽を与えることだった。
迷わず、信じようとした。楽だったからだ。
一人の老人に色々と調べられた。難しい顔で、楽にしろと言われて強張る身体を精一杯弛緩させていると、やがて老人はにっこりと笑った。
「なかなか、素質がある」
老人と奴隷商人が少し会話した後に、商人もまたにっこりと笑った。一度も見たことのない笑顔だ。
「喜べ、よい人に買ってもらったぞ」
頭を撫でられた。ルルは単純に、自分がよい人に買われたことを、ともに喜んでくれているのだと思ったが、要するに商人がルルにつけていた値段よりも高い額を老人が提示したのだ。
自分は、老人の弟子という立場になった。色々と教えてもらった。主人と奴隷、ではなく師匠と弟子だというのが、ルルの人生を明るくした。
実際のところ、しっかりと老人はルルの主人であり、彼女が奴隷であることには変わりはないのだが、彼女の意識の上では自分は奴隷ではない、それよりも幸せな弟子という存在なのだということに、疑いもなくなっていた。
そんなに愛されているようには見えない、と魔王には思えたが、まあ実際そんなものであった。だが、そもそも愛されたことがないルルにとっては、愛情の多寡は問題ではなかった。少しでもそこに愛があれば、自分は愛されているのだと実感することができた。
老人の目的であるところの、自分の能力を使って連れてきた異世界の人間を魔王として押し立てて世を乱すことも、特に問題視はしなかった。
お師匠は、なにやらこの世界自体に恨みでもあるらしい、とは推察できたが、理由を聞いた時に教えてくれなかったので、それは自分が知る必要の無いことなのだと思い、気にしないことにした。
物心ついた時には奴隷として売り物だった、という境遇は間違いなく人生ハードモードと言える。重たい辛い経験を積んできた。
だが、経験自体は極端に狭いことは否めない。世界、と言っても、どこかしら自分には関係ないもののようにしか思えなかったし、それをお師匠と魔王が荒らし回ってもそれをもって彼らに嫌悪感を抱くようなことはなかった。
二人のせいで、たくさんの人間が死んだり酷い目に遭っているということはもちろん理解していたが、それは運の悪い人たちだということで片付けた。
どのような主人に買われるか――という運不運で人生が決定する立場にいたルルにとって、そうやって片してしまえば、それは大した問題ではなかった。
同情心が絶無というわけではなかったが、それはあくまでも運が無かったことへの同情であった。
それよりも、彼女としては自らの人生を明るくすることに忙しかった。
どういうことがそれに当たるかと言うと、殊更単純に言ってしまえば褒められたり、優しくされることである。
それだけと言えば、それだけなのだ。これほど他愛も無い願いもあるまい。
そして、それを得るためには老人に言われた通りに働き、魔術の腕を磨くことだ。
魔王の軍は膨れ上がり、人数が増えたがルルにはあまり影響が無かった。彼らは、魔王を極度に恐れ、その側近である老人のこともそれに準じて恐れ、その弟子であるルルのことは、さすがに恐れはしなかったが、触れてもなんの得も無しと考えて無視した。
基本的に、そういったことはあるがままに受け容れることにしているルルは、この人たちは自分を褒めたり、優しくしたりはしないようだと悟ると、こちらも無視することにした。
やがて、ヴェスカウ伯爵という――なんでも世界における偉い人と魔王様が戦い、勝ったものの甚大な被害を受け、魔王様も深い傷を負って後退し、砦に入った。
お師匠は無傷だったので、ルルは別段そのこと自体を深刻には受け止めていなかったのだが、そのことでお師匠が苦脳している様子だったので、心を痛めた。
あまりルルに構ってくれず――すなわち褒めたり優しくしたりもしてくれないのが辛かった。
これまでの身の回りの世話に加えて、覚えて間もない治癒魔法で傷を癒して差し上げるように、と命じられて毎日魔王様へ治癒を施した。
お師匠は、凄い魔術師なのだが能力が超特化型であり、治癒魔法が使えない。ここで自分が上手くやったらきっと褒めて貰えるだろうと思い、励んだ。
そのことで思わぬ副産物を得た。
これまでお世話していたものの、まるきりルルのことを見てもいないような無関心ぶりを示していた魔王様があれこれと話しかけてきて、お師匠に、かのお方には服従せよと言われているのでそれに応えていたところ、とても褒めてくれたし、優しかったのだ。
褒めたり、優しくしたりしてくれる人が、一人から二人に増えたことは、ルルの人生を明るくした。
ルルはそうとはっきり意識していたわけではないが、ある意味では魔王様はお師匠よりも特別な存在であった。
それは、二人の接し方がやや違うことに起因する。
お師匠は、褒めるのも優しくするのも、ルルがその期待や要請に応えたことへの報酬のような感じがどうしても拭えず、そのことに不満を持っているわけではなかったが、ある部分が欠落していた。
欠落していること自体を知らず感じぬままに生きてきたルルだが、魔王様によってそこを埋められることにより、そこにはそういうものが入るのかと初めて知った。
無論、しっかりとした自覚を抱くには至っておらず、なんとなく、二人とも褒めて優しくしてくれる人だが、魔王様の方により魅かれるものを感じていた。
名前を、褒めてくれたのが彼女にとっては大きかった。
ルルという名前は、最初のうちはろくに喋ることができずに「ル」という言葉を延々と口にしていたために適当につけられた名前である。
名前というものは、突き詰めていけば結局のところ、ものを識別するための記号という面はあるものだが、ルルのそれは正に記号であった。
ルという言葉を延々と……と言うのも、聞いた話で自分がそのようなことを口走っていたという記憶が一切無く、お前がそう言ってたからそこからつけた名前なんだぞ、と言われても実感は無に等しい。
もちろん、自分が産まれた瞬間の記憶は全く無いが、少なくとも母親にあたる女性の体内から外界に出てきたのは間違いなく、もしかしたらそこには父親にあたる男性もいたかもしれず、祝福された可能性もゼロとは言えず、もっと別の、両親が頭を捻って考えた本当の名前が自分にはあるのではないか。
そんなことを、果てしなく漠然と考えていないわけでもなかった。
お師匠は、その辺りには無頓着で、商人から聞いた名前というか商品名をそのまま使用していた。
ほんの少し、その名前は本当の名前じゃないのではないか、と思ったりもしたがそれは主人へ逆らう行為な気がしたので口にはしなかった。
今から思えば、なんでもいいから、お師匠が新たに名前をつけてくれれば、自分はそれを受け容れ、それを大切にしたのではないか、とも思う。
魔王様は、新たな名付けを行ったわけではないが、ルルという識別記号を可愛くていい名前だと言ったのだ。
ルルという名前を、自分の名前としてこれからも生きていこうと思った。
名付けをしてくれたわけではないが、同じことだった。
ルルは、自分でその感情を言語化するまでには至っていないが、心のどこかでこの人は少なからず自分に情を持っているらしいということを認識し、そのことに膨大な喜びを感じていた。
自分は、そういうことをされるに足る存在である。
そう思ってもいいのだ。
少なくとも、ルルは老人に対しては自分の奉仕とそれへの報酬はほぼ同等であると思っていたが、魔王とのそれは、むしろ奉仕と報酬が釣り合わず、自分は過大な愛情を受け取っている、という認識だった。
それへの依存が高まっていることに無自覚なままに、この人と一緒にいれば、自分の人生はもっと明るくなるのではないかと。
強引に老人と引き離されてしまったことには、どうしようもなく動揺し、錯乱したがそれをやったのが魔王であり、彼とともにあるということは、幾分か彼女の精神を落ち着かせた。
まだ、自分の人生には明るい未来がありうる。
そこで、盾にされて無造作に振り回されたのは、それを打ち砕いて余りある仕打ちであった。
以前のルルならば、そこまで嫌な感情は抱かなかったはずだ。
むしろ、こんなことでも自分が役に立てるなら……とすら思っていたかもしれない。
主人の役に立たなければ生きている価値など無い、という幼児期からの奴隷教育の成果だ。
だが、もうルルは、それから脱しつつあった。
自分には、それ以外の価値があるのではないか。
この人は、それを認めてくれるかもしれない。
当のその人に盾にされたのは、著しい心的衝撃を彼女に与えたが、魔王は依然として自分がルルをそんなふうに変えてしまったなどと思いもよらずに、まあ、どん底の不幸そのものの生い立ちで人生を諦めきったルルならそこまで傷付いたりはしないだろう。後でいい暮らしさせてやればいいさ、とある意味、能天気に考えていた。
或いは、そこでお前のおかげで助かったと声をかけてやれば、幾らかルルの心が崩壊するのを防ぐ支えになったかもしれない。
意識に変化が見られると言っても、以前のものが根こそぎ無くなっているわけではないのだ。やはり、どんな形であれ、褒められたら嬉しい。
それをしないのは、魔王が思い至らぬとか、無神経であるとかいうわけではなかった。
さすがに、そんなん言えんぜ――
と、善人ではないが、極悪人ではない魔王こと山崎雄平は、思っていた。
そのことは、彼がルルを盾にする行為が、決して褒められたことではないと認識し、そのことに一抹の後ろめたさを感じている証であった。
そこで笑って、お前を盾にして助かったぜ、ありがとうよ! などと平然と言えるような神経はさすがに持ち合わせていない。
それに、そもそもルルの心情を思いやるほどの余裕が持てる状況でもない。
勝てぬとはわかっているだろうに、勇敢に向かってくる敵兵を倒すのに忙しい。
だが、それももう終わりだ。もう向かってくる奴はいない。
目の前に人影が躍り出る。まだ死にたい奴がいたか――舌打ち。
あいつだ。あの、自分の渾身の一撃を防御する厄介なガキが、またやってきた。だが、鬱陶しいとは思ったものの、絶望はしない。
こいつには、ルルの盾が効く。
見せつけるようにルルを掲げると、怒りの形相になったが、あからさまに困っている。チョロいもんだ。
「おい、その子を放せ!」
勇ましく言ったが、そうしてもらわんと手が出ませんというのは表情でわかる。
「なによ、あれ」
と、そこで気付いたが、さっき軽く叩いてやった女が一緒にいる。手応えはよくなかったがすぐに戦線復帰してくるとは思っていなかった。
あれには、一太刀貰っている。
耳が少し切れた程度だが、傷付けられたことには腹が立っていたし、後方で寝ていればいいものをノコノコと舞い戻って来たのを幸い、報復してやりたい気持ちもある。
だが、それに執着しては危険であるということもわかっている。
「ああん? なによ、それ!」
女――リーンが叫んだ。恵一から、魔王が掲げている少女についての説明を受けて、憤ったのだ。
「卑怯な真似してんじゃないわよ! 放しなさいよ!」
その激昂ぶりに、魔王はほくそ笑んだ。
こいつにも、盾が使える。
地を蹴って走り出す。追いかけて来るが、どうせ決定的な手は打てないのだ。
それに合わせて周囲の兵士どもも動くが、はっきり言って、もうこの連中は無視していい。絶対に鑓の長さの範囲内には近付いてこない。
恵一は、走り出す直前にリーンに耳打ちしていた。なんとか隙を作るから、そこに斬り込んでくれと。
リーンは頼もしげに請け合って、恵一とは距離をとった。恵一が引き付けてリーンが死角から攻撃するには、両者が接近しているわけにはいかない。
「待て! 逃げるな! それでも魔王か!」
我ながら、安い挑発だなと思いつつ、声を張り上げる。
だが、恵一が試してみようと思っている方法には、なんとしてもあの力が必要だ。つまり、魔王には殺気をこめた一撃を繰り出してもらわねばならない。
魔王が、恵一の謎の力の発動メカニズムを知るわけもないから、そういう理由で殺意を抑えるようなことはしないだろうが、先のように軽くあしらうつもりで殺意なしの攻撃をしてくることはありうる。
「なにが魔王だ! お前なんかただのチンピラだ!」
思い付く限りの罵倒を口にする。チンピラと言ったのは、魔王などという悪には違いないがそれなりの貫録というかカリスマが備わっているべき存在が、女の子を盾にするなどという卑劣というかセコいことをしたことへの怒りと、見た目のせいである。
最初に見た時から、なんか元の世界に、ああいうチンピラいたよなあと思っており、それが出た。
「うるっせえぞ!」
そんなもんに効果があるとも思えなかったが、魔王は鬱陶しそうに振り向き、鑓を振ってきた。何度かあった同じ形だ。右後ろを追走してくる恵一に向けて鑓を振ったのだ。
もちろん、恵一が右後ろを走ったのは、わざとだ。リーンは左の方を走っている。
ぞわっと、来た。身体の中心から力が末端部にまで浸透する感じ。肝心要の第一関門はクリアだ。
剣で鑓を防御する。ここまでは今日何度もやったのと同じだ。
接触した次の瞬間、剣から手を離した。鑓が戻っていく寸前に、両手を伸ばして捕まえる。
「んな!」
魔王は、恵一の位置を確認して鑓を振るとすぐに前を向いていたために、鑓が戻らず、それどころか上半身が引っ張られ、下半身だけが前進したギャップに体勢を崩した。
「てめえ!」
振り返り、ようやく恵一が鑓を両手で掴んでいるのに気付く。鑓は穂先とその下についた斧と同じ形状の刃以外は手で触っても問題無い。
ぐっと鑓を握って足を踏ん張る。まだ、全身に満ちる力は健在だ。
この形には、先程もなったことがある。カツヤに鑓を渡された時だ。あの時は力は発動しておらず、鑓ごと振り回されてしまった。
魔王も、そのことは覚えているはず。
「離せ!」
鑓を振ろうとする。軽々と振れるはずだった。だが、全く動かない。
「なんなんだ、てめえは!」
魔王が叫んだ。紛れも無く、彼の本心だった。
防御できたりできなかったり、踏ん張れたり踏ん張れなかったり、時々によってえらく力に差があるのだ。戸惑いもする。
恵一は気合いを入れて、腰を落とし綱引きのようなつもりで鑓を両手で引いた。
そこまでできるかはわからずに、とにかく全力でやったところ、期待以上の結果になった。魔王を引きずって倒したのだ。
驚愕以外のなにものでもない魔王の顔。今のは、明らかに力負けした。そのことをすぐには理解することすら困難だった。
恵一自身も、今の状態の自分の力があの魔王を無様に地べたに這わせるほどだとは思っていなかったので驚いた。
だが、同時に腕に、
ぴきり――
と、亀裂が入るような嫌な激痛を感じて、背筋が凍った。
これだけの力である。なにか代償があるのでは――とは以前から考えていたことだ。それが、来たとしか思えなかった。力に、恵一の身体が耐えられずに悲鳴を上げているのではないか。
「うおらあっ!」
恵一と魔王、どちらもが驚愕の面持ちで見合った瞬間に、上半身を起こした魔王の後ろからリーンが斬り込んでいった。




