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ちょっとした歴史のお話

 隣室であるミレーナの部屋のドアを叩くと、イリアの声が返ってきた。彼女もまた音を聞いて起きていたのだろう

「おれです。恵一です」

「ケーイチか」

 イリアは最初は恵一のことをアマモト殿と呼んでいたのだが、どうも堅苦しいなあとずっと思っていて、何回か稽古をつけて貰った時に名前で呼んでくれと頼んで、こうなった。

 相手は年上なので、この方が自然で落ち着く。

「なにかあったようだな」

「はい。お嬢様は」

「いや、寝ている。……寝付きはいいんだこの子……いや、お嬢様は」

「じゃあ、ちょっとおれたちで様子見てきます」

「ああ、頼む」

 イリアがついているからミレーナは大丈夫だと見なして、恵一はケイトとアンと三人で音のする方へと行った。

 階下の受付で旅装姿の男と宿の者が押し問答をしている。

「だから! 伝令だと言っているだろう」

「いや、ですから、既にもうお休みになっておられますので」

「至急の連絡事項なんだ!」

「いえ、しかし」

 どうも旅装姿の男がついさっき到着し、連絡事項とやらをミレーナに伝えたがっているのを宿の者が止めているようだ。

 せっかく休んでいるお嬢様を、こんな時間に叩き起こしたくないという気持ちはわかるが、至急の連絡というのならば、やはり理があるのは伝令の男の方だろう。

「どうしましたか」

 階段を下りながら声をかけると、宿の者はもちろん恵一をミレーナの護衛と知っているので、救われたように事情を説明した。

「わかりました。お嬢様に聞いてみます」

「おお、頼む」

 融通のきかない対応に苛立っていたらしい男もまた、救われたように言った。

 再びドアを叩き、イリアにことの次第を伝えてミレーナにお伺いを立ててもらうと、至急の伝令と言うならばすぐに会うとのことなので、恵一は男を呼んでともに部屋に入った。

「至急、とのこと……でしたので……このような……恰好で……失礼しま、す」

 ミレーナは、パジャマの上に急いで外套を羽織ったらしい格好で椅子に座っていた。

 ちらちら見えるパジャマがピンク色で凄く可愛い、とか思いつつ、いや自分は護衛なのだ、依頼主のパジャマ姿に鼻の下伸ばしてどうすると気を取り直し、その気を向ける先として、とりあえず万が一この男が伝令を装った刺客だった場合を想定して、無駄に鋭い眼光で男の背中を睨み据えた。

「お嬢様にはお休みのところ、こちらこそ失礼を働き申し訳ありません。ブレンニール様より急ぎお渡しせよとの御命令でしたので」

 もちろん男が刺客なんてことはなく、男がそう言って差し出したのは正真正銘、代官のブレンニールという人物からの書簡であった。

「い、え……いつ、いかなる……時でも……しきゅー……ならば、会う……のが……」

 ミレーナは、はっきり言ってとても眠いらしく、声がまともに聞きとれない。なんとか言わんとすることを整理すると、いついかなる時でも至急の連絡とあらば聞く、それが男爵の名代である自分の使命であるから気にすることはない、と、とても立派なことをおっしゃっているのである。

「ふむ……ふむ……」

 ミレーナは渡された書簡に目を通した。

 でも、見るからに、これあかんがな半分寝とるがなと言わざるを得ない有様であり、伝令の男もミレーナの男爵名代としての責任感ある言葉への感動が早くも消えて、大丈夫なんだろうかという顔になっている。

「お嬢様、失礼いたします」

 と、イリアが横から声をかけた。

「お目覚めになられていないようなので、お目覚めをお手伝いさせていただきます」

「あ、おねがい……します」

 一体何をするのかと思う間もなく、イリアの手がミレーナの耳たぶを掴むと、けっこうな強さで引っ張った。

「んきゃっ」

「お目覚めでしょうか」

「……はい、ありがとうございます」

「大変失礼いたしました」

「いえ、よくやってくれました」

 改めて、ミレーナが真面目くさった顔で書簡に目を通す。どういう反応していいのかわからない恵一たちだったが、どうもミレーナは完全に真面目らしいので賢明に無言を貫いた。

「ふむ……ふむ……うーん」

 それほどに驚愕したというわけではなさそうだが、ミレーナが困った顔になったのは見て分かったので、いったい何事だろうかと恵一はケイトと顔を見合わせた。

「イリアさん」

「は……失礼します」

 イリアが書簡を受け取ってそれに視線を走らす。

「む……うーむ」

 やっぱり反応は同じだ。困ったことになったな、という顔。

「あの……いったい何が」

 思わず口にしてから、さしでがましいかと思い直し、慌てて、

「差し支えなければ、教えていただけないでしょうか」

 と、付け加えた。

 イリアがミレーナを見る。

「秘密にすることでもありません。どうせすぐにわかることです」

「は……」

 ミレーナの了解を得て、イリアが書簡の内容について説明した。

「ハウト男爵の長男……つまり、お嬢様の兄上が城館にやってきた。来る予定はなかったらしいのだが」

 長男ということは、つまり順当にいけば次の男爵となる人だ。それが男爵領の中心的な施設である城館へとやってくるのはおかしくないことだが、まったく予告なしにやってきたというのに多少の違和感は覚える。普通それほどの身分の人間が訪れる時には前もって知らせておくものなのではないだろうか。迎える方にだって準備があるだろう。

「は、はあ」

 元々、この旅の目的は男爵の名代としてミレーナが領地に行き、トラブルとやらの決裁の類を行うためのものだ。

 そこで予定になかった兄上がやってきたところで、その人ならば男爵の名代としての資格はあるだろう。ミレーナがわざわざここまでやってきたことが無駄になってしまうのかと、これまでの旅路を思って徒労感のようなものは覚えるが、それ自体がそれほど困ったことなのだろうか。

 そのことを言うと、ミレーナとイリアはやっぱり困った顔をしていた。

 イリアがまたミレーナを見やった。ミレーナが頷くと、イリアが口を開く。

「……今回のことは、代官が既にほぼ話をつけていてな。お嬢様が男爵の名代として立会人に対して宣誓し契約を交わして終わる話なのだ」

「はあ……」

 なんだか聞いていると、ますます男爵の名代と認められる人間であるならミレーナでも、その兄でもよさそうな話である。

「……言いにくいのだが、アレン殿……ああ、それが兄上の名前なのだが……アレン殿は何かと事を荒立てる傾向が無いとは言い切れないと言っても過言ではないようなお方でな」

 基本的に物事をずばっと言い切るイリアの回りくどい言い方で了解した。つまり、事を荒立てるのが大好きな兄らしい。

「その兄上が、ブレンニール殿がまとめた話がお気に召さないらしくてな」

「は、はあ……」

「今はまだ暗い、こんな中を出発はできんが。予定を早めて明るくなったらすぐに出よう。それでよろしいですか?」

 イリアが明日――と言っても時間的には今日――の方針を決めてミレーナに決定を仰ぐ。

「はい、そうしましょう」

 ミレーナが決定を下し、方針は決まった。

 まだ明るくなるまでは時間があるので、できるだけ寝ておこうということで恵一たちは部屋に戻った。

 伝令の男は、その辺の床にでも寝ると言っていたのだが、空き室があったためにそこで一眠りすることになった。

「うーん、なんか変なことになってきたな」

「ああ」

「……なんか揉めて長引くことにならんだろうなあ。あたしあんまり帰るの遅れるとやばいんだけど」

 そういえば、ケイトはそういう契約を交わしているのだった。

「まあ、やばそうなら事情を話してケイトだけ先に帰るといいよ」

「ああ、まあ、事情を話せば大丈夫だよな」

 ケイトは純粋な戦闘力ではそれほどに頼られているわけではないから、恵一が残れば護衛の任務放棄とは見なされずに金も払って貰えるだろう。

 恵一としては、実はケイトがいなくなると色々心細かったりもするのだが、それはしょうがない。もしかしたら金貸したちは、契約を盾にして利子を払おうが払うまいがケイトに身を売ることを強制してくるかもしれないのだ。

 利子を払えるうちは払って貰っていた方が彼らにとって得なのは確かだが、彼らは何よりもケイトが仕事中に死ぬことを恐れている。おそらく、今回の要人の護衛のような仕事も嫌がっているはずだ。

 翌朝、宿の者に明るくなる直前に起こせと言っていたために、その時間になると各部屋を回ってきた。

 ただ、早く起きなくてはと緊張していると眠りが浅いらしく、その時には恵一は目覚めていた。ケイトとアンは爆睡していたが。

 もう一人爆睡していたであろうミレーナは、イリアに起こしてもらったらしくしっかりと目覚めて起きてきた。

「それでは、私はお先に参ります」

 伝令の男がそう言って走り出した。命令通りに書簡を渡したことを代官に復命し、あわせてミレーナが予定よりも早くこちらへ向けて出発したことを伝えるためだ。

 さすがにそういう役目に選ばれるだけあって、男は俊足を見せて走っていく。

「おい、少し急ぐから、君らも馬車に乗れ」

 と、イリアに言われたために、恵一とケイトも馬車に乗ることになった。

 こんな狭いのに乗ったら何をどうやってもミレーナと接触してしまうのではないか、でもしょうがないよね! と漲っていたところ、思っていたより中は広く、ミレーナの隣にケイトが座り、それと向かい合って恵一が座ることで、接触は回避された。

 前のケイトとはどうしても当たってしまうのだが、やはり我ながら驚くほどにときめかない。

 薄い壁で作りやがって、と思いながらもミレーナと話ができるのは嬉しいことであった。これまでは日中の移動時間は馬車の中と外、宿に着いてからも食事をともにするぐらいでこれだけ接近して表情を間近にして話すことは無かった。

 で、こんな時になんだとも思ったが、こんな機会が次に来るかどうかわからぬので聞いてみた。

「魔王……ですか?」

 ミレーナは首を傾げた。

 魔王云々を夢と断じているケイトは、お嬢様に対してなぁにをアホなこと言っとんじゃボケと言いたげである。

「そういう物語は読んだことがありますけど……」

 ミレーナの反応も、ケイトのそれと大差無い。

「あとは……昔の戦争のことぐらいで……でも、あれは……」

「え? それ、どういうことですか?」

 思わぬミレーナの言葉に、恵一は勢い込んで言った。昔の戦争、という言い方は明らかに実際に過去にあった事を指している。

「あー、そうか、あれも魔王か」

 ケイトも、言われて気付いたとでもいうように頭をかいている。

「ど、どういうこと?」

 ケイトに対しても問いかける。

 だが、どうも二人とも、でもあれは、と歯切れがよくない。

「いや、もうホント、元のせか……ああいや、失った記憶の唯一の手掛かりかもしれないんです。どんなことでもいいから教えてください」

 恵一とて必死である。

「うーん、いや、まあ、一般知識として知っておいた方がいいかもな。魔王とか魔族とか色んなとこで聞き回って揉め事になるかもしれないし」

「揉め事?」

 揉め事、というのは実際に他者との間に起こるものであり、魔王とかそういったものがお話の中のものであるとすれば、少しそぐわない言葉だ。

「ケーイチさ、これまで街で何人か、肌の色が真っ青な人を見ただろ」

「あー、うん」

 ケイトと街中を歩いている時などに、そういった人間は何人も見た。肌の色以外は他の人間とほとんど変わらない。

 随分顔色が悪い人だなと最初は思ったのだが、よく見ると青過ぎるし、手なども真っ青なので他の人間とは違うのだな、とは思っていた。

「色以外はほとんどおれたちと変わらないし、あまりにも溶け込んでるんで、人間によく似た人間と少し違う種族なのかなって思ってた」

「うん、まあ、その通りだよ」

 人間とほとんど同じだが、肌の色が明らかに違う彼らは、イルグート族と呼ばれているそうだ。彼ら自身が自分たちをそう呼んでいた名前であるが、以前は人間たちは違う名前で呼んでいた。

「なんだと思う?」

「さ、さあ?」

「魔族、だよ」

「えっ」

 彼らは以前、といっても本当に遥か以前、千年以上前のことらしいが完全に人間たちとは違う邪悪な種族と考えられていた。

 発端はその両種族の接触が、領土資源の取り合いのためにかなり早い段階で戦争状態に突入してしまったことに発する。

 人間族は、これまでそれほどに力を持った異種族と接触したことがなかった。

 獣人や他の種族は、数や組織力では人間に大きく劣っており、彼らの方から人間との戦争など欲しなかったために、人間を上位にした対等ではないが平和的と言えないこともない関係が成立していた。

 だが、イルグート族は、数でこそ人間に劣っていたものの組織力は匹敵しており、魔法の才能においては人間に優っていた。

 ここにおいて、はじめて人間は、もしかしたら自分たちは敗れて滅ぼされてしまうのではないか、という恐怖を抱く異種族との戦争を経験したのである。

 人間はヒステリックになった。

 獣人などとのいざこざは、自分たちに有利な条件を押し通しつつも、どこかに余裕があった。自分たちに逆らわないなら滅ぼしたりはしないし、役に立つのならその分いい目も見せてやる、という彼らを見下ろしつつも、いや見下ろしているからこその余裕で対応していたのだ。

 だが、イルグート族は、そのような見下ろしを許さなかった。

 既にその時期には、人間たちはいくつも国を作り、その国同士で時に争っていたが、すぐさまこれは一致団結せねばまずいという意識が共有され、対イルグート族の大同盟が結成された。

 その際に、団結と鼓舞のために叫ばれたのが、魔族、という言葉である。

 それまで、神話やそれから派生したお話の中だけにいた人間に――いや世界に敵対する邪悪なる存在。

 それはまさに奴らだ、と同盟を組んだ君主たちは剣を抜いて、それで天を突いて叫んだのである。

 存亡を賭けた戦いという危機感は、あらゆるものを戦争へ動員した。

 神話もその一つだったというわけだ。

 大昔の話と見られていた神話が、そうではなく未来を予言したものなのだとも言われた。

 今その予言が実現し、魔族が現れ攻撃を仕掛けて来ている。

 さあ剣を取れと、その戦争に参加することが神話中の存在になることだと煽るような演説も盛んに行われた。

 獣人なども、戦力に組み込まれた。

 彼らも、人間とそうは違わぬ内容の――神に祝福を受けた勇者が邪悪な悪魔を打倒したといった神話を持っていた。

 その悪魔が奴らだ。

 我々が滅ぼされたらお前らだってそうなるぞ!

 さあ、神の祝福を受けた勇者となってこの戦いに参加せよ!

 獣人はその能力から、優れた斥候としての資質を持っており重宝された。

 人間はイグルート族を魔族、それの王を魔王と呼び続けた。

 で、実のところ、イグルート族の方も人間を邪悪な存在と見なしていたのである。

 この救いのない種族間戦争は十年以上続いた。

 そして、双方疲弊してしまった。

 これが同種族間の戦争ならば、途中で第三者が間に立って講和が成立したり、戦っている者同士の間で一時休戦が結ばれたりして、息をつく暇があっただろう。

 続くにしても、そういった暇を挟んでダラダラと、疲弊が極まらない範囲で続いたはずだ。

 だが、ことはお互いにお互いを、邪悪な、自分たちをなんとしても滅ぼそうとしている絶対に和解など不可能な敵であると断じての戦争である。

 そういう暇が無い。

 息もつけず、総動員体制が常に続く。

 そのために、十年という、戦争の規模からするとそれほどに長くはない期間で、どちらも瀕死寸前になってしまったのである。

 さすがに、こうなると戦争中止を求める声が上がり始める。

 それに対して動きを見せたのは、国境付近に領地を持つ者たちであった。彼らはつまりは必然的に最前線にならざるを得ない者たちであり、また戦争状態になる前は一応それなりに相手と話をした経験もある者であった。

 それはイグルート族でも似たようなものであり、勢力圏のあっちとこっちでお隣同士の領主が話をし、それを君主に上げ、君主は同盟会議の席上にそれを持ち込んだ。

 もうすっかり嫌になっていた彼らは、なんだ意外と話が通じるのではないかと思い、とりあえず一時休戦の協定を結ぶことに合意した。

 彼らは戦争を煽りに煽った者たちと同一人物であり、いきなり講和などということを言えば自分たちが煽った人々が、それでは今までの苦難はなんだったのだと激怒して、吊るされる恐れがあった。

 一時休戦の協定は期限を区切らずに結ばれた。

 そうなると、一時の内容はお互いの同意――これは暗黙の了解でもよい――があればいつまでもどこまでも長くなる。

 当初は、この「一時」の間に体勢を立て直して、奴らに今度こそトドメの一撃を与えてやるのだと意気込んでいた者たちも、それが長くなると段々と張り詰めた気が緩んでくる。

 長い総動員体制によって産業は滞り国力は疲弊している。トドメの一撃を繰り出すためにはあまりにも力が足りなくなってしまった。ここは、「一時」剣を置き、それぞれの仕事道具を手に取って国力回復をはかるべきである、という名目で兵士の除隊が進んで行った。

 一時休戦の「一時」は遂に五十年を過ぎ、とうとう世代が交代してしまった。それにつれて人々の意識もいい加減に戦時ではなく平時のそれへと戻ってしまった。

 そもそも、自分たちを滅ぼせる力を持つ異種族との接触にあたって、お互い恐怖からヒステリーを起こしたようなもので、それまでに怨みを重ねるような血の歴史があったわけではないのだ。

 五十年前の奮闘により敵はこちらへ侵攻する力を失っている。ならば無理にこちらから攻めずとも、防備を固めて警戒していればよいではないか、というところまで意識は後退してしまっていた。

 それがさらに続き、国境付近の国では交易まで始まっているのにその現状は放置して、一時休戦中であるという公式発表は受け継がれ続けて、遂に現状が追認されたのは一時休戦が二百年を超えた頃であった。

 その時、はじめて講和が正式に締結されたのである。

 しかし、魔族であるという認識は根強く残り続けて、それがほぼ払拭されるまではさらに長い時を必要としたのである。

 講和からさらに百年を経て、ようやく公式に、お互いがお互いを邪悪なる種族などではなく、自分たちと多少違うところはあるが、同じ世界に違う神々から生を与えられた尊重すべき同居人であるとの趣旨の宣言が行われた。

 この宣言文を起草するために集まったそれぞれの代表は、三百年前の戦争を「大いなる無知によって引き起こされてしまった大いなる不幸」と言って嘆き合った。

 彼らは、いわば当事者ではないために、その辺りの論評についてけっこう遠慮が無かったのであるが、実際の宣言文では「僅かな無知と大いなる不運によって引き起こされてしまった大いなる不幸」という文章が採択された。

 違う種族ではあったが、当時の与えられた状況の中でもがくように苦闘した先人をあまり悪く言うものではない、という感覚は共有していたのである。

「はあ……」

 ケイトの長い話が終わり、恵一は新たに得た知識を噛みしめるように溜め息をついた。

 実際は、ケイトは記憶に所々怪しいところがあり、そこはさすがにきちんと教育を受けたミレーナがその都度補足した。

「だからさ、わかるだろ」

「うん」

「今、こっちに住んでるイグルート族のほとんどは、魔族とか魔王とかの話されても気にしないけど、中には嫌みかなんかと勘違いして、自分たちは人間のルールを守って必死に溶け込もうとしているのに喧嘩売っとんのかい! って怒り出すのもいないとは限らないからさ」

「ああ、うん、よくわかったよ。誰彼構わずそのことについて聞いたりはしないよ」

「うん、それがいいぜ」

 と、言ったところで御者台に座っているイリアが声をかけてきた。

「もうしばらくかかるから、食事を済ませてしまおう」

「あ、はい」

 座席の後ろの荷台に積んであるパンを幾つか取ってイリアに渡し、ミレーナとケイトにも渡して自分の分も取る。

 イリアに多めに渡したので、御者と屋根の上のアンには彼女から渡してくれるだろう。

「んー、美味え美味え」

 ケイトは言葉通りに本当に美味そうに食べる。

 恵一も、これはパンだな、と思いながら食べる。

 なんでまたケイトがこんな喜んでるか、でもって恵一がそんなことを思うのかと言うとこの世界の製パン技術は元いた世界ほどは発達していないらしく、恵一がパンと聞いてイメージする柔らかいパンはけっこうな高級品なのである。

 ケイトが普段食べているのは、固くてそのままでは食べるのが困難なためにスープなどにひたして食べるパンなので、これほど美味い美味いと言っているというわけだ。

 食事を終えて、他愛ない話に興じる。

 ミレーナはケイトがやや誇張し、恵一が一応最低限の義務感から訂正を入れるクマ退治の話を喜んで聞いていた。

 だが、目的地が近くなるにつれて、口数が少なくなる。

「えっと、やっぱり、不安ですか?」

 たまらずに、恵一が言った。

 ミレーナはハッとして、取り繕うとしたのか大丈夫ですとでも言うような笑顔を見せたが、やがて、

「……お兄様が、私の言うことを聞くとも思えませんから……」

 と、不安そうに言った。

 ブレンニールは予定していない事態の発生にあたって、これはこちらに向かっているお嬢様に急報せねばと伝令を飛ばし、それを受けてミレーナは予定よりも早く宿場町を発ったのであるが、実のところ数時間早く到着したからといっても自分にできることなど無いだろうとミレーナは言う。

 その不安そうなところに保護欲をビシビシ刺激された恵一は、そのお兄様とやらがあんまりミレーナに酷いことするようならばおれがちょっと話したる、と無謀なことを考えていた。

「まあ、その兄貴……お兄様の方が立場的には上なんでしょう。そんならいっそ、お兄様に全部お任せしますぅ、でいいんじゃないですかね」

 と、ケイトなんかは要約すると丸投げしちまやいいじゃねえか、と言って気楽な様子である。

 陽が高く、正午頃かと思われる頃、馬車が止まった。

「到着しました」

 と、前からイリアの声がした。

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