零:炎上する本能寺にて。/???
― 一五八二年(天正十年)本能寺
炎が燃え盛る。全て焼き尽くし、灰塵にしなくては気が済まぬとばかりに。
木で出来た寺である。燃えるのは容易い。この勢いでは、消し止める事は叶わないだろう。最早、燃え尽きる事しか出来ぬ場所になってしまった。
その中、まだ歩く場所が残されている廊下を寝間着姿で歩いている者がいる。炎に煽られている事など瑣末であると云わんばかりに、堂々とした足取りだ。その右手には槍を持ち、左腕で絹織の着物を纏った美しい人を抱えていた。
その美しい人の顔色は白く、着物は赤い鮮血で濡れそぼり、既に命がない事は傍目にも知れた。だがその人を抱く腕は強く、決して手放さぬと言葉無く主張しているのだった。
遠く遠くから怒号ではない、必死に彼の人を呼ぶ声が聞こえて来るが、振り返る事はなく。口元には満足げか諦観か――いいや、世の全てを受け入れたような、柔らかな笑みが浮かんでいた。
「人間五十年。まぁ、良い所、であるか」
ぽつりと呟く。誰に聞かせているのかと云われれば、腕の中の亡骸へと云うしかないだろう。魂の存在でも信じているのか、そこにその人がいるかのように、語りかける。
「“そなた”には、寂しい思いをさせてしまったか。すまない事をした」
槍から手を放す。ガランガランと大きな音を立てて床へ転がったそれへは見向きもせず、彼の人は両手で愛しい相手を抱きかかえると、さらに奥へと進んで行った。
炎が舞い踊る。歩いて来た道は、もう焼かれ始め戻る事は叶わない。元より戻る気などないのだろうから、どうでも善い事かも知れないが。
「最期にあの金柑頭に会うたのも、なんぞ、天の定めかの」
くつくつと楽しげに笑う。背後で天井が崩れ落ちた。だが視線すらくれてやらず、歩いて行く。
向かう先には、炎が先周りしていた。逃げ場などない。しかし、“そんな事”などどうでもよさそうだった。
「あの慌て面を見たか。まったく、仕方の無い奴よな。せっかく、わしが舞って見せてやったと云うのに、どうでもいいから早く来いと云いおった。生意気なハゲじゃ。長生き出来ぬな。早々に後を追って来るだろうから、共に笑ってやろうではないか。なぁ、“帰蝶”?」
当然、その帰蝶から言葉はない。それは元から分かり切っているので、愛しげに眼を細めるだけで終わらせた。
可哀想な事をした、と呟く声は、掠れていた。
「信忠なら、わしが居なくても大丈夫であろうよ。さて、生かされるかどうかは分からぬが。信雄と信孝は心配であるが……。ふむ、信忠が死ねば、織田はどうなってしまうかのう。竹千代ならば悪い様にはせんと思うが、さて。まぁ死んだ後の事まであれこれ考えても詮無き事か。そなたもこのような話、退屈であろう?」
そうして微笑む顔は、敵に対する苛烈な様しか知らぬ者達が見れば、腰を抜かす程の愛情と優しさに溢れていた。
多くの人々は、彼の人がこのような表情も出来るのだと云う事を知らないのだ。そしてまた、本人がそれで善しとしてしまった。だから、哀しい擦れ違いも多く生まれてしまった。
「これからは、共に居よう。そなたの望み通り、離れずに居るよ。それで勘弁せい」
ははははは――軽快に笑いながら、その人は奥へ奥へ、死出の途を進んで行く。何の気負いもなく、悔いもない。未練はとうに断ち切って、歩いて行く。
“是非も無し”と、笑いながら。