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 翌日、一番に訪れた客は、意外な人物だった。平坂洋服店の隣で喫茶店を営む、カツヨの息子、幸二だった。年齢は三十七、高校時代はラグビー部で活躍し、その隆々たる肉体は今でも健在だった。小さい頃から評判のガキ大将のいたずら好きで、母親のカツヨはよく他の店に頭を下げに回っていたものだった。子供のいない鯛三にとっても息子のような存在であり、父親を早くに亡くした幸二もまた、鯛三を父のように慕っていた。

「やあ、幸二じゃないか。店は隣りなのに、ご無沙汰だね」

 鯛三は幸二を呼び捨てで呼ぶ。生まれついての知り合いだし、杉田家とは昔から家族ぐるみの付き合いである。なんの遠慮もない間柄なのだ。

「いやあ、店が軌道に乗るまでは、なかなか顔を出しにくくて。最近やっと慣れてきたんですよ、喫茶店のマスター」

「そうかい。店がうまくいっているのか。カツヨさんにも報告はしているのか?」

「それがねえ。おふくろは知ってのとおり頑固者だし、いまだにうをすぎを継がなかったことを根に持ってるんですよ。少しぐらい店がうまくいってたって、そんなに長続きするもんかい、って一蹴されるのがオチですよ」

「まあまあ、そういわず、一言声をかけたほうがいい。何を言ったって、親子じゃないか。口には出さなくともいつまでも子供の心配をするのが親ってもんだよ」

「まあ、どうせ報告しなきゃいけないこともあるし、そのついでに店のことも報告しときますよ」

「なんだい、報告って」

「いやあ、実は」

 てれくさそうに頭をかきながら、幸二はレジスターの隣に腰掛けた。

「俺、結婚することにしたんですよ。まあその、いわゆるできちゃった結婚ですけど」

「ほお、なに、子供ができたのか」

「ええ。相手は店の常連の女でして、親しくしているうちに付き合いだしたんですが、ついこのあいだ妊娠していることがわかったんです」

「ふむ。しかし幸二、そんな重大なことは、私ではなくカツヨさんに真っ先に報告すべきことじゃないか。なぜいままで黙っていたんだ」

 鯛三はあくまで冷静にだが、少し子供をいさめるように語気を強めた。

「それですよ。それで今日、親父さんに頼みがあってきたんですよ。あのおふくろのことだから、何を言い出すかわかったもんじゃない。で、親父さんに仲介に入ってもらいたくてお願いにあがったんです」

 鯛三はあごをさすりながら、うーん、と唸った。確かにカツヨは偏屈なところがあるし、世間体を気にして相手を妊娠させたことを苛烈に責めるかもしれない。責任は幸二にあるのであって、あくまで親子間で解決させるべき問題ではあるが、鯛三とて息子のように接している幸二のためをおもうと、父親として和解の糸口を探してやるべきかもしれない。

「まあ、お前が言い出しにくいのもわかる。だから付いていってはやるが、あくまでこれはお前自身の問題だからな。どう言われようと、最終的に問題を解決するのはお前だぞ」

「わかってますよ。恩にきます」

「そうか。幸二が父親になるんだな。大きくなったもんだ」

「その言い草じゃ、まだ俺を子供扱いしてたんですね。俺ももう三十七ですよ」

「そうだな。しかし感慨深いよ。お前は私にとっても息子のようなものだからな」

 二人が昔を懐かしんで話が盛り上がってきた頃に、客が一人入ってきたので、幸二は名残惜しそうに席を立った。

「それじゃあ親父さん、今夜実家のほうへお願いします」

「ああわかった」

 店の外は、朝にしては通行人も多く、賑わいを見せていた。英美はポーズを変えながら時折手を振ったりしている。もしかしたら、うをすぎのアルバイト、一馬に手を振っているのかもしれない。鯛三も気持ちを切り替えて接客に戻った。

「いらっしゃいませ。どういったものをお探しでしょうか」

「今度、同窓会に出席するんですけど、どうせなら新調しようかとおもって」

五十も半ばを過ぎたくらいだろうか、小太りの主婦は鯛三と目も合わせず商品棚を漁った。

「それでしたら、こちらのスーツなどいかがでしょうか。あまり派手なものより、これくらいのものが品良く見えるかとおもいますが」

「そうねえ。じゃあこれ、試着させていただけます?」

「ええ、では、こちらでどうぞ」

 小さな試着室に客をいざなうと、鯛三は手持ち無沙汰になって商品棚の整理をはじめた。

「いまお店を出て行かれた方、うをすぎさんのところの息子さんじゃありませんでした?」

 主婦は試着室でごそごそやりながら、ふいに鯛三に話しかけた。

「ええ、そうですが」

「ご存知ですか?あの息子さんの交際相手のこと」

 中年主婦特有の噂話がはじまった。鯛三もこういうことには慣れていて、いつもなら適当にあいづちを打ったりして愛想をする。深入りしてしまっては際限がないからだ。しかし、幸二の交際相手、つまり今さっき聞いたばかりの、結婚相手のことだとすると、これは聞き捨てならないことだった。

「さあ……。交際相手がいることまでは聞いておりますが」

 試着室のごそごそが止んだ。どうやら主婦は話し込む体制にはいったらしい。鯛三も思わず身構えて聞く体制にはいった。

「なんでも、隣のC町の旧家の娘さんだそうで、由緒ある家の方なのに、ふらふら遊び歩いていて、あまり評判のよろしくない娘さんだそうよ」

「はあ……」

「さすがに旧家のお嬢さんらしく、立ち振る舞いは上品に見えて、男にはそうとう好かれるタイプですって。だから男性遍歴も並みのものじゃないだろうって言われてるのよ」

 鯛三は返事もできないまま、棚を整理していた手を止めて聞き入ってしまった。この主婦の言い方なら、噂はあくまで噂であるかもしれない。しかし、火のないところに煙は立たぬ。男遊びのなれの果てに、幸二とのあいだに子供をもうけた。そんなことで、そのお嬢さんは満足するのか。息子同然の幸二の祝事を慶ぶ気持ちでいっぱいだった鯛三の心に、暗雲がたちこめた。

「それでね、もしその二人が結婚でもしたいなんて言い出したら大変なことになるんじゃないかって、このことを知ってる人たちの間じゃ大騒ぎよ。相手は旧家のお嬢さんで、ご両親も相当昔かたぎの方で、ただでさえ遊び歩いていた娘のことを良く思わないでいたのに、魚屋の息子さんと結婚なんて、許すはずないじゃありませんか。それにうをすぎの奥さんだって、頑固な方でしょ。とてもお互いが折り合うとはおもえないわ」

 どうやらこの主婦はこの近辺のことはよく知っているが、鯛三が杉田家と旧知であり、幸二が息子のような存在であることまでは知らないらしい。だから細大漏らさず、なにもかも知っていることを話したのだ。

「ところで、そちらのスーツのほうはいかがでしょうか」

「そうねぇ、もう少し明るい色がいいかしら」

「ああ、それでしたらこちらのスーツもお試しください」

 聞くに堪えない噂話を、鯛三は強引に断ち切った。主婦のほうも、あらためて試着のほうに集中したようだった。まだ鯛三の頭の中は混乱していた。この客が帰ったら、少し頭の整理をする時間がほしい。

 主婦が買い物を済ませて店を出ると、鯛三はいてもたってもいられなくなっていた。

「英美くん、すこし店をまかせてもいいかね。なに、三十分ほどでいいんだ」

「ええ、いいですよ」

 無論、鯛三が向かう先は、隣りの喫茶ホリデイだ。さっきの主婦の話を聞いてしまったからには、二人の出会いからのいきさつをはっきりと聞き出し、幸二自身が、相手方のことを知り、理解しているかを確かめる必要があった。もちろん、子供ができてしまったという現実を推して考えれば、結婚して所帯を構えることは免れようがないにしても、親族の和を繫ぐことの必要性を、幸二が理解しているかどうか確かめたかった。

 ホリデイにはすでに何人かの客がいた。見るからに営業マンのような背広姿の男、歓談する主婦たち。そんな客たちの先に、忙しく仕事をしている幸二の姿があった。

「いらっしゃい。ああ、親父さん。店のほうはどうしたんです」

 鯛三に気づいた幸二は、一息つく間にありついたように、にこやかに微笑んだ。

「うん、ああ、たまには少しコーヒーでも飲んでみようかとおもってな。英美くんに任せてきた」

 まさか、この人の中で、あのような話題が切り出せるわけもなく、鯛三はとりあえずその場を取り繕った。

 「あの子、英美ちゃんっていうんですか。あの子が来てから、お店のほうも忙しくなったみたいですね。やっぱり、商売ってのはアイデア勝負ですねえ」

 「いやあ、私はあまりにも突飛なことをいうもんだから、最初は反対したんだ。普通はそうだろう?しかし、結果として売り上げはうなぎ上り。認めないわけにはいかない。いまだに私は、これでよかったのかわからないでいるんだ」

 幸二の手元から、香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。注文したコーヒーの味は、この焙煎した香りからして期待を裏切らないものだろう。一口すすって落ち着くと、鯛三は本来の用事を思い出した。

「そんなことより、その、お前のお相手のことなんだが、大丈夫なのか?」

「親父さん、言ってることの大事な部分が抜けちゃってますよ。なにが大丈夫なのか、なんです?」

 鯛三は周囲を気にしながら、先程耳にした事柄を手短に話した。

「ああ、そういうことですか。確かに、おふくろのことは気にしていますよ。けど、最後に決めるのは俺だって、そう言ったのは親父さんじゃないですか。たとえ揉めても、認めていただくまで、俺なりに誠意を伝えるだけです」

「まあ、そうなんだが」

「親父さん、彼女のおなかの中に俺の子がいることは事実だし、まさか堕胎なんてことを考えないかぎり、なるようにしかなりませんよ。それに、俺は彼女を愛してる。大地主の娘とか、魚屋の息子だとか、もうそんな身分の違いなんてある時代じゃないですよ。人類みな平等、きっと彼女のご両親も理解してくれます」

「そうか。わかった」

「それと、彼女の素行のことですが、確かに男遍歴はかなりのものらしく、本人から自慢げに話してくれましたよ。正直、面白くない気持ちがないでもないんですが、その遍歴のおかげで俺と出会ったんだとおもえば、むしろ運命的だとおもいませんか」

「ふむ。お前は実にポジティブなんだな。私みたいな旧い人間には、到底うかばない思考だよ」

 苦笑いをコーヒーの苦味でさらに苦々しくしながら、鯛三は少し安心した。これなら上手くいくだろう。世間の風評がどうあれ、この明るさで乗り切ってくれるだろうと、胸の空く思いで、鯛三は席を立った。

「これで安心して、目通しに出席できるよ。ごちそうさん、いくらだい」

「お代はいいですよ。心配させたおわびに、サービスしときます」

 そんな気楽な言葉に無言で手を振り、鯛三は店を出た。


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