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翌日、鯛三はいつもより早く目覚めた。店のシャッターを上げ、空を見上げた。夏の朝特有の風の匂い。それに乗って、向かいのうをすぎの前に停まっている仕入れ用のトラックから、魚の匂いがまじっていた。市場は県内にはなく、カツヨが自分で隣の県まで仕入れに行っていた。トラックの後ろで、せわしなくスチロール箱の魚を運び出している。
「おはよう。朝から精が出るね」
鯛三は声をかけ、トラックの中を覗き込んだ。
「せがれが手伝いにも来やしないんだ。私がやるしかないでしょうが」
「彼も店の準備で忙しいんだろうさ。いいじゃないか、立派に独立して、店を経営しているんだから。どれ、私が手伝おうか」
鯛三は大きなトロ箱に入ったシイラを持った。体長は1メートルを超えている、大物だ。
「立派なシイラだね。こりゃ重い。一人じゃ大変だろう」
「せがれが居た頃は、まだ楽だったがね。喫茶店なんて儲かるもんなのかねえ」
「どうだろうね。でも、いつも客は入っているようだし、繁盛しているのではないかね」
「どうだかね。そのうち、またうちで働く、なんて言い出したら引っ張り出してやる」
珍しく、カツヨは鯛三と普通に話していた。鯛三としては、昨日迷惑をかけたことを詫びるつもりで顔を出したのだが、いつもより柔和な話し方をするカツヨに、普通に会話してしまっている。思い出したように、鯛三は切り出した。
「そうだ。昨日はすまなかったね。うちの客が迷惑をかけてしまって」
聞こえているのかいないのか、カツヨは見向きもしなかった。
「私の不行き届きでね、あそこまで混雑するとは予想していなかったんだよ」
鰤の入った箱を降ろすと、カツヨは大きく伸びをして、腰を叩いた。
「まあ、仕方ないわね。変わったことをすれば、野次馬も集まるわよ。おかげでうちも売り上げがいつもより少し多かったし、迷惑なことばかりではなかったわよ」
カツヨの言葉に、鯛三は心底安心した。晴れやかな気持ちが戻り、魚を運ぶ手に力が漲った。
「ありがとう。やっぱり男手があると助かるわ。今日はいつもより多く仕入れたもんだから」
カツヨは額の汗を拭った。鯛三も、全身に汗を滲ませていた。
「なんの。これからは遠慮なく頼みに来てくれればいい」
「昔はよく、手伝いに来てもらっていたわね。ずっと昔」
遠い目をして、二人は木箱に腰を降ろした。懐かしい風景が、目の前に広がった。
「先代の頃だね。私たちも市場についていったこともあったね」
「そりゃあ楽しかったわね、市場は。子供心をくすぐられたわよ、私は」
カツヨはもう一度、汗を拭った。今日はまた一段と暑くなりそうだ。
「産まれついての魚屋だね、カツヨさんは」
いつものトゲのある言葉は出てこない。鯛三も、なんとなく童心に還った気がした。今のように、商店街も通路も舗装されていなかった。店の数も今ほどなく、うをすぎは一番大きな店構えだった。その店前で二人はよく遊んだものだった。胸いっぱいに深呼吸すると、鯛三はふと、英美のことを思い出した。そして、自分の記憶も。
「哲郎さんが越してこられたのは、いつだったかね」
「よしてよ。死んだ亭主の話なんて」
「いや、すまないね。なんとなく、あの頃を思い出したんだ。すまない」
暫く、静寂が続いた。遠くでヒグラシが鳴いている。
「そうだ。ずっと謝ろうとおもってたことがあるのですが」
カツヨは随分下手に出たような言葉を発した。
「私は謝ってもらうことはなにも」
「いいえ。私、いつも仕事中は言葉がきついから、平坂さんにも随分酷い言葉で言ったとおもうんです」
鯛三は微笑んだ。確かに営業中は威勢のいい言葉が多く、鯛三は気圧され気味だった。しかし、それだけで腹が立つということはなかった。
「いいじゃないですか。仕事に誇りを持って、一所懸命やっておられるんだ。むしろ、魚屋にはそれくらいの威圧感があっていいとおもうよ」
カツヨは思いつめたように俯いていた。静寂が、二人を包んだ。
「あの時、あなたの言葉を受け止めていたら」
カツヨは呟いた。否定するように鯛三は首を振った。
「もう、そのことは言わない約束だったじゃないか。お互い、伴侶を迎えて、幸せだったのだから」
「死んだ亭主の話を切り出したのはあなたでしょ。お互い様ですよ」
カツヨは微笑んだ。鯛三も、笑顔に応えた。
「ああ、お互い様だ」
二人だけの時間が過ぎていった。また、喧騒に包まれた日常に戻る。うをすぎは、いつものように客への対応に追われ、平坂洋服店は、英美のファッションショーによって野次馬への対応に追われるだろう。二人はただ、この二人だけの時間を大切にしたいとおもった。
「さて、準備しなきゃ。ありがとう。助かったわ」
笑顔を見せるカツヨに、無言で手を振って、鯛三は自分の店に戻った。
開店前。掃き掃除をしていた鯛三は、秋村初音を見かけた。彼女は商店街の片隅にある、小さな店舗を借りて、手芸教室を開いていた。手芸用品を扱う店になったのは、1年ほど前からだった。その姿に、鯛三の目は釘付けになった。初音の着ているその服は、昨日桃地が買っていった商品だった。初音に直接売った記憶はない。となれば、これは桃地が渡したとしか考えられない。訝しく思った。桃地には細君がおられる。ほかの女性に、プレゼントとは。しかも、買っていったときに、桃地は妻に、といっていたはずだ。鯛三は訝ったが、他人の行動にとやかく言えるわけもなく、会釈しながら通り過ぎる初音を見送った。
いつも通り、英美が衣装を着て、最後のチェックをしていた。鯛三はレジスターの前に座って、また初音のことを思い出していた。初音は桃地より五歳ほど年上だったが、年齢より若く見える。桃地に限らず、商店街の皆が愛想の良いその老人を慕っていた。となると、桃地のした行動は、なにか世話になった礼をしたのか。それにしては洋服を送るなど、あまり呈の良いことではない。菓子折りでも持ってゆくのが普通だろう。となれば、やはり、好意を示すために送ったのだろうか。若い連中ならまだしも、老いた他の2人に、そんなことができるものなのだろうか。不倫。そんな言葉が頭をよぎった。
「平坂さん。もう開店ですよ」
気づくと、英美が不思議そうな顔をして隣に立っていた。
「あ、ああ。準備はできてるよ」
慌てるように、半開きにしていたシャッターを上げに向かった。
英美のマネキンは、早くも商店街では当たり前の風景になりつつあった。通りかかる人たちも、自然に通り過ぎ、自然に立ち見していた。奇異な雰囲気は、もう薄らいでいた。
昼を過ぎるまでに、3人の客が来た。1人は物色するだけで何も買っていかなかったが、2人は英美と洋服の着こなしのことなど話しながら、選んだ服を買っていった。これもまた、以前のこの店ではなかった風景だった。鯛三の対応も、ごく自然なもので、ずっとやってきたことをやっているような感じだ。
昼の食事を終え、店に戻ると、店前で秋村初音がなにか躊躇うように立っていた。ふと鯛三と目が合うと、恥ずかしそうに会釈をした。秋村は、間違いなくここで売られていた洋服を着ている。それを買っていったのは、桃地である。つまり、桃地は、妻に買ってやると言った洋服を、秋村にプレゼントした、ということだ。
冷徹で鉄面皮な桃地からは、およそ想像もできなかったことだが、事実は、今、秋村が着ているその服が語っている。
「どういうことだ」
なんとなく真実を認めたくない気持ちと、他人の動向を詮索したくない気持ちで、鯛三はあえて疑問詞的な思考を繰り返した。秋村は、よそよそしく、店内に入ってきた。
「こんにちは」
「ああ、いらっしゃいませ」
少しうわずった声で秋村を招きいれた。鯛三は、少し対応に戸惑った。
「良いお召し物ですね」
「え、ええ。そうですね」
他人が聞いたら吹き出しそうな会話だった。鯛三は自分が売った、自分の店の商品を褒める。褒められた秋村は、おそらく、その服がここで買われたことを知っていて、それを認めた。鯛三は、ここに居づらい気分になった。
「平坂さん。少しお尋ねしたいことがあるのですが」
鯛三は、そらきた、と思った。秋村のその問いは、およそ察しがつく。ここで桃地さんがお買い物をされませんでしたか、と。さあ、どう答える?腕組みをしたい心境で、秋村の言葉を待った。
「このお洋服、おいくらぐらいするものでしょうか?」
秋村の問いは、鯛三が思ったものとは違った。ここでまた、鯛三の思考は著しく方向転換を余儀なくされたのだ。正直に、うちの商品で、値段は税込み一万二百九十円です、と答えるか。それとも、うちで売るなら、などと言う答えで、桃地にアリバイを作ってやるのか。しかし、考えている余裕はない。少し考えたふりをして、鯛三は答えた。考えに考え抜いた答えを吐き出した。
「ああ、確か卸値は6000円ほどのものですね。問屋で見たことがあります」
洋服店らしい答えではあった。しかし、秋村は訝しげな表情をしていた。無理もない、卸値を言われたところで、素人に売価がわかろうはずはない。ただ、卸値以上の値段はするのだということを納得したのか、秋村は大きくため息をつき、そうですか、とだけ答えた。
「しかし、よく似合ってらっしゃる」
鯛三はまた、誤魔化しのような言葉を投げかけた。
「うん。よく似合ってますよ」
ふいにショーウインドウから英美の声が聞こえた。英美もこの服が桃地の買っていったものだということは知っているはずだったが、それ以上のことは言わなかった。恥ずかしそうに秋村は俯いた。
「すみません、お買い物もしないで、つまらないことをお聞きして」
「いいえ、またごゆっくりお買い物にいらっしゃってください」
鯛三の言葉に安心したのか、深く会釈をすると、秋村は足早に店を出て行った。
「いいねぇ。あの歳でも恋愛ってできるんだ」
英美はショーウインドウから、秋村に手を振りながら、そう呟いた。やはり、桃地と秋村の関係を、そういう方向に考えていた。
「君も、そう思うかね」
「だって。そういうことは若いこのほうが敏感ですよ」
「しかしだね。まだ推測の域を出てはいない」
鯛三はあくまで否定的な思考を繰り返した。英美のほうが若いだけ、純粋にそれを感じ取っているようだった。
「私は今、恋しているんですから。そういう時って、他人の似通った部分に敏感になるものなんですよ」
それを聞いて、なんとなく鯛三は苛立った。
「喋ってないで、マネキンを続けなさい」
「はーい。あ、一馬さん、こっち見てくれてる」
人の気も知らないで、英美ははしゃいでいた。鯛三は、足元のゴミ箱をポン、と蹴った。
「私は桃地さんに、何も詮索するつもりはないよ。桃地さんは客としてうちの商品を買った。それを誰が着ていようが、私には関係ないんだよ」
引き戸越しで着替える英美に、呟くように話しかけていた。まるで、自分が悪いことをして、言い訳をしているようだった。
「でもさ、あのおじさんは家内に、って言ってたじゃない。そこで話は、ずれているよね?」
英美との会話は、相変わらず噛み合わなかった。若い連中は、現実を直視して、ありのままのものを受け止める。大人はそうじゃない。どこかで現実を否定してゆき、どうでもいい他人の行動を捻じ曲げて考えてゆく。それはまるで、自分の咎を消したがるような思考だった。
「君らの言う恋愛とは、違うものだよ」
「それは、そうだけど」
衣擦れの音が止んだ。
「あ、平坂さんだって、あれが恋愛に関わる行動だって認めてるじゃん」
鯛三の言葉が詰まった。揚げ足を取られた。ますます居づらく、話しづらい雰囲気になった。
「とにかく、忘れよう。我々には関係ないことだ」
半ば強引に、話を切った。無用な詮索だ。洋服屋は洋服を売っていればいい。売れた洋服の行方なんて、知ったことではない。鯛三はかぶりを振った。




