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2.


翌日、鯛三は日課だった盛り塩をしなかった。さて、砂糖でも盛っておけば客は来ないだろうか、などとくだらない方向へしか、思考は働かなかった。

 シャッターを開けたとき、すでに少女は店前に立っていた。手には大きなボストンバッグ、まさか住み込みで働かせろ、とは言われまいかと焦ったが、これは杞憂であった。

「まるで家出少女だ」

鯛三のつぶやきに、少女は耳もかさなかった。

「衣装はお店にある服を着ます。かばんの中は小道具とか、化粧道具とか。メイクに時間がかかると思ったから、ちょっと早めに来ました」

「君ね。私は雇うとは言ってないよ。勝手なことをされちゃ困る」

「あ、お給料はいくらでもかまいません。ただ働きはちょっと・・・だけど、時給百円でも、文句はいいませんから」

少女の表情は少し頑なに見えた。開店前まで待ってみよう。きっと考え直すに違いない。鯛三は憮然としながらも、少女を奥の部屋へいざなった。とはいうものの、朝食は、なかなか箸が進まなかった。脳裏に浮かぶのは奇異の眼で通り過ぎる人々。耳に聞こえるのはカツヨの嘲笑。口に運んだ朝食は、すべてため息に押し返されていた。

 少女は奥の部屋の、かつて妻が使っていた化粧鏡を使って衣装合わせをしている。

「君」

なんとなく場の空気を持て余して声をかけた。

「市原英美です。市原さんでも、英美ちゃんでもオッケーですよー」

間延びした答え方。モデルにでもなったつもりなのだろう。子供のいない鯛三には、相当扱いに苦労しそうな相手だった。鯛三は箸を置いた。

「おじさーん」

「平坂さんと呼びなさい」

「平坂さん、向かいの魚屋さんって、繁盛してるの?」

益体のない問いだった。時折、衣擦れの音が聞こえてくる。

「ああ、大繁盛だよ。鮮度も品揃えも抜群、その上安いときたら、お客さんも黙ってないよ。最近じゃあ臨時のアルバイトまで雇う予定らしいよ。張り紙がしてあったろ?」

「うん。してたねー」

アルバイトがしたけりゃ、うをすぎでやればいい。時給はたしか千円とか言っていた。おまけにやることはいくらでもある。まったくもって不可解な少女だった。

「もし、もしもだよ。君が・・・英美ちゃんがショーウインドウに立ってマネキンをやったら、お客様はどういう眼で見ると思う?」

「そりゃあ、『こんな着こなし方があるんだわ。着てみようかしら』とか思うんじゃないですか?」

それを聞いて、鯛三は大きくため息をついた。

「私、マネキンだからって、ずーっと同じ格好で立っているわけじゃありませんよ。時折ポーズを変えて、お客様にアピールするの。そのへんが『生きたマネキン』のセールスポイントでしょ?」

「もう何を言っても無駄なんだね」

少しうなだれ気味に、レジスターのつり銭を確認に店内へ向かった。

「なんかネガティブだよね。もっと良い方に考えたらどうですか?」

もう鯛三には反論する気力もなかった。

英美が勝手にマネキンを片付け、空っぽになったショーウインドウ越しに、うをすぎが見えた。あの奥の調理場では、今日もカツヨが忙しく魚を捌いているのだろう。そうだ、あの娘をカツヨに紹介してやろう。働きたくてしょうがない、若い力だ。きっとカツヨも快諾してくれるに違いない。善は急げとばかりに、鯛三は店を出た。

「杉田さん。カツヨさん」

うをすぎの店内に入る手前から、大きな声で呼びかけた。カツヨは眉間にしわを寄せて奥の調理場から顔をのぞかせた。

「何だい。昼行燈が朝から珍しく大きな声を出して。私ぁ忙しいんだよ」

「いや、あんたの所、アルバイトを募集してたろう?いい子がいるんだが、使ってやってくれんかね?」

カツヨは一瞥もくれずに作業を続けていた。鯛三は続けざまに言った。

「高校生でね、女の子なんだが、しっかりした娘だよ。おたくの仕事にはぴったりだと思うんだが」

カツヨの手の出刃包丁の動きが止まった。睨み付けるようにしてカツヨは言った。

「そんないまどきの若い娘が、こんな魚の臭いにまみれて仕事をしてくれるとは思えないね。それにアルバイトなら、もう一人採用したんだ。一人で充分だよ」

カツヨの手がまた動き出した。鯛三は肩を落とした。当てが外れたのだ。これから自分の店のショーウインドウでは、奇妙なファッションショーが行われ、世間から白眼視されるのだ。鯛三はとことん落ち込んだ。うなだれ気味にうをすぎを出ようとしたとき、店前に若い男が立っていた。歳は二十歳くらいだろうか。細身で背の高い男だ。二人のやりとりを聞いていたのか、入りづらそうな顔をしていた。

「今日からアルバイトでお世話になります」

金色に染めた髪、だらしない服装。そんないまどきの若者の風貌に似合わず、丁寧に頭を下げた。鯛三は少したじろいだ。

「ああ、私はここの者ではないよ。店主なら、こちらにおられるから」

男は少し決まりが悪そうな顔をしていたが、気を取り直してカツヨに挨拶をした。やはり、深々と一礼していた。


 店に戻ると、英美はショーウインドウの掃除をしていた。家から持ってきたらしい窓掃除用のスプレーとスポンジを手に、時折息を吹きかけたりして磨いている。実に入念な作業だった。

「ここの汚れ、取れないなぁ」

耳障りな音をたててこする。爪で掻き取ろうとするが取れない。英美は唇を尖らせてへたり込んだ。

「取れないだろう。私の妻もそうやって磨いていたが、それだけは取れないとあきらめていたよ」

英美は大きく深呼吸をして振り返った。

「平坂のおじさんは磨いたの?」

「いや。妻の仕事だったからね、それは」

英美が、また唇を尖らせた。

「亭主関白。いやな感じ」

取れない汚れは英美の胸の辺りの高さにある。外から見れば服が汚れているように見えるかもしれない。英美は店内のマネキンをショーウインドウに立たせ、外から眺めてチェックしたりしていた。

「やれやれ。熱心なことだ」

鯛三はすっかり他人事のように言うようになっていた。それは、妻にも言っていた言葉だったかもしれない。自分の店を綺麗にしている妻に向かって、確かこんな冷たい言葉をかけていたような気がする。なんとなく、そんなことを思い出すと、恥ずかしいような、申し訳ないようなものが、心につかえた。

「そういえば、アルバイトの動機を聞いていなかったね。お金が欲しいのなら時給百円でもいいです、なんて言わないだろうし。だいいち、どうしてうちの店なんか」

入り口をくぐりかけていた英美に、鯛三は問いかけた。

「うーん。ただ働きたかった、ということにしときます。このお店に決めたのは、素敵なお店だと思ったから、ということにしときます」

ただはぐらかされているだけだった。鯛三は少し腹立たしくなってきたが、言葉にはできなかった。口下手な自分に、また腹立たしくなってきた。

「マネキンだけじゃ物足りないだろう。接客もレジも、やりたければやればいい」

鯛三はすっかり投げ槍になった。

「はーい、そうしまーす」

英美はまた、あの汚れと格闘しだした。


開店の時間がやってきた。英美は最後の衣装チェックを済ませ、ショーウインドウに入った。つい口からでてしまったにしても、店の仕事をすべて英美に任せるといってしまった鯛三は、店の奥でおろおろしていた。仕事の経験がなければ、うまく接客もできないではないか。おつりを間違えられたら、うちも困るし、お客様にもご迷惑をお掛けする。やはりお金のやりとりだけは自分がしよう。そう決心して店内に入ると、ショーウインドウの前には人だかりができていた。鯛三が恐れていた光景だった。大勢の人間が、自分の店の前に集まり、ざわざわと騒ぎ立てている。鯛三は床にへたり込んだ。

「ああ。やはりこうなってしまったか」

そんな鯛三の気持ちも知らずに、英美は次々とポーズを決めてゆく。若い男は好奇の眼で、買い物かばんを提げた主婦は怪訝な顔をしながらも、隣の知り合いらしき主婦と、英美を指差しながら着こなしについて話しているような手振りをしていた。

人が次々と入れ替わってゆく。徐々に女性の比率が増えてきた。嘲笑するような顔の女性もいれば、熱心に見入る人もいた。

「平坂さーん」

ポーズを変えながら、英美が呼んだ。

「もう、好きにしてくれ」

英美がまた唇を尖らせた。

「そうじゃなくて。今、外でこの服の説明とかしたら、お客さんがいっぱい入ってくると思うんだけど」

英美の言葉は真剣だった。くだらないことだと思っていたことを、英美は真面目に考えているようだ。自分も店主として彼女の行動を黙認してしまった以上、どこか腹をくくらなければならないかもしれない。

「どうしろというんだ」

「そんなこと、自分で考えてよ。洋服やさんなんでしょ?洋服のお話をするに決まってるじゃん」

英美が言うことを想像してみると、鯛三は顔から火を噴きそうだった。前代未聞の洋服店。若い女がショーウインドウでファッションショーよろしくポーズを決め、店主は横に控えてトーキー映画のように洋服の説明をまくしたてる。さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい。本日入荷されたばかりの新作だよ。そこのお嬢さん、そのスカーフにとても合うとおもいますよ、いかがですか?鯛三の頭の中で、そんな光景が浮んでいる間に、店内には二人の女性が入ってきていた。われに返った鯛三は、気を取り直して、何事もなかったように装いながら、しかし顔を引きつらせながら店内の洋服を勧めていた。


それからも数人の客が店に入ってきた。入り口のドアが開くたびに、そとの喧騒が店内に入ってくる。かつてない状況に鯛三は戸惑った。今までだって日に数人の客はあった。しかし一度にこれだけの客が入ってきたことなどあっただろうか。鯛三はただ「いらっしゃいませ」とだけ言って会釈していた。

「平坂さんも大胆なこと考えたわね。あんな若い娘をショーウインドウに立たせるなんて」

鯛三には、その言葉の意味をどう解釈すればいいのかわからなかった。侮辱なのか賞賛なのか。どちらにせよ、自分が考えたことではないし、やれと言ったことではない。

「いやあ、あの娘が考えたことでしてね。私は反対したのですが」

鯛三はどちらの意味とも取れる弁明をした。相手は月に一度は顔を見せる馴染みの客だった。

「いいんじゃないの。不景気な世の中だしさ、なにか商売も工夫しなくちゃね。でも」

その客は入り口の外を見た。

「うをすぎの奥さん、いやな顔してたわよ。自分の店の前まで人だかりが来ちゃうもんだから」

鯛三はしまった、と思った。自分のことで頭が一杯になって、周囲に迷惑がかかることまで気が回らなかった。思うと同時に、鯛三は店を飛び出していった。

「みなさん、当店にご来店のみなさん、他のお店のご迷惑になりますので、お買い上げにならない方はどうか立ち止まらないでください」

滅多に出さないほどの大声で、店頭の客に呼びかけた。人垣は徐々に減っていった。ほとんど好奇心で見ていた客だったという証拠だ。減りつつある人垣の隙間から、英美の膨れっ面が見えた。


 夕暮から赤みが薄れてきたころには、ショーウインドウのマネキンはいなくなっていた。また妻の鏡台のある部屋から、衣擦れの音がしていた。

「平坂さん、売り上げ、どうでしたか?」

平然とした問いかけに、鯛三は答えなかった。

「結構お客、入ってたよね。貢献できたかな、私。ねえ、おじさんってば」

「平坂さん、だ」

「いるんなら答えてよね。それとも、何か怒ってる?」

「こんな馬鹿げたことは、もうやめだ。給料はちゃんと支払うから、明日からは来なくていい」

明らかに怒気を含んだ言葉に、衣擦れの音が止んだ。そして、何かを壁にぶつけたような音がした。

「何よ。駄目なら駄目って、最初から言えなかったの?なにも言わなかったじゃない。私が客寄せしたら、おじさん、ちゃんと応対してたじゃない」

「私がどれだけ恥ずかしい思いをしたとおもうんだ」

「だから。だったらはじめから駄目だって言えなかったの?」

向こうの部屋に通じる引き戸から、鯛三は目をそらした。英美の言い分には、道理があり、非は弱気だった自分にある。英美は真面目に仕事をこなしたのだ。それがどういう方法にあったにせよ、結果はその日の売り上げに見えていた。普段の収益の5日分はあった。

「君は恥ずかしくないのか。あのガラス張りの部屋で、人々に見られることが」

英美の姿を見て入ってきた客がいることは事実だ。しかし、それ以上に嘲笑の眼で観ていた者が多かったはずだ。とてもそれが非常識なことだからだ。

「恥ずかしくないわけないじゃない。ムカツク顔で、にやけながら通り過ぎる奴だっていたよ。軽蔑してるような奴も」

「だったら、どうしてこんなことを」

しばらくは、答えは聞こえてこなかった。台所で沸かしていたヤカンが白い湯気を噴き出していた。

「1ヶ月だけでいいんです。お願いします」

自分が聞きたかった言葉とは違った。しかし、鯛三はなぜかこれ以上問い詰める気になれなかった。英美の声が、哀切感を漂わせていたからだ。

「ごめん。ごめんくださいよ」

店のほうから、しわがれた声が聞こえた。シャッターはまだ閉めていなかったから、客が入ってきたのだろう。鯛三は売り場へ向かった。

「はいはい。なにかご入り用でしょうか」

売り場に入ると、老人が一人、商品棚を漁るようにして見ていた。

「おや、これは桃地さんじゃないですか。お店はまだ開けておられるのでは?」

客は桃地書店の主だった。老眼鏡をせわしなく取ったりかけたりしながら、商品を見ている。

「平坂さんも、おもしろいことを考えなすったね。あんな若い娘をマネキン代わりにするなんて」

冷たい言葉に聞こえた。鯛三は、耳まで紅潮し、思わずうなだれた。

「いや、あれは。彼女が考えたことでして」

言い訳にすぎないとわかっていても、言わずしてその場にいることができなかった。

「誰が考えたかなんて、わしは知らんよ。しかし、あんたの店で、それが行われたことに、違いはあるまい」

桃地庫之助は鯛三より6つ年上だが、顔はもっと年上に見えるほど、老けていた。それに、眼光は鋭く睨んでいるようなので、客は逃げるようにして金を払って出てゆくのだと、庫之助の孫が言っていた。繰り出される言葉も、投げ掛ける視線も、なんとなく冷たい感じだった。

「私もあの娘が着ていた服がいいとおもってな。うちの家内に買ってやろうとおもって来たんだが」

今日、英美が着ていた服は、どちらかというと中年女性が着るようなデザインだった。若い英美が着ると、センスの良い服に見えたのだろうか。そうだとすれば、英美にとっては、してやったり、なのだろう。

「ああ、あの服なら。少しお待ちを」

まさか、英美が着ていたものを、そのまま渡すわけにもいかない。鯛三は裏の小さな倉庫に向かった。確か、在庫があったはずだ。

「ああ、あった」

安堵の声を出して、鯛三はまた売り場へ戻った。

「これでよろしかったでしょうか」

鯛三は、持ってきた服を広げて見せた。

「ああ、これだ。もらっとくよ。いくらだい」

「一万二百九十円になります」

「そうかい。じゃあこれで」

「はい。ではお釣りの七百十円でございます」

庫之助は、お釣りを確認もせずに、ポケットにしまった。

「ありがとう。家内も喜ぶだろうよ」

「ええ。そうですと私もうれしく思います」

鯛三は深々と頭を下げた。ドアの閉まる音を確認すると、無意識に大きなため息をついた。

どんな言葉にせよ、自分の店のことを言われると、頭に血が昇るような気分だった。庫之助の言葉は、褒め言葉にもとれるが、遠まわしに軽蔑しているようにも聞こえた。

「お客様?」

英美が奥から顔をのぞかせた。上着のボタンを留めながら、髪を上げた。

「君の営業努力の賜物だよ。たいしたもんだ」

言葉とは裏腹に、鯛三は英美を白眼視した。それは恥をかかされた恨みを含んでいた。

「へえ。よかったですね。明日からもがんばらなくちゃ」

鯛三の気持ちも知らずに、英美はなおやる気を出したようだった。鯛三は、また何も言い返せなかった。


早朝、鯛三はいつもより早く目覚めた。身体を起こすと、妻の眠る仏壇に目をやった。

「この店も、もう終わりかもしれない。すまないな」

普段着に着替え、朝食もすませたが、盛り塩はしなかった。もうすぐ英美は来るだろう。どういう態度で臨めばいいか。自分は恥をかいたとおもう。しかし、英美のやったことは明らかに売り上げの数字に結果としてあらわれていた。彼女のやったことは、社会的に認知されていることなのだろうか。からかい半分、真面目半分の客がまじっていていては、その判別も難しかった。


「おはようございます」

翌日、昨日と同じ時間に、英美が現れた。鯛三は無言で奥の部屋にむかった。鯛三には自分の考えていることもわからないくらい苛立っていた。何事も悟らぬ顔で、英美も奥の部屋へむかった。

「今日は、このスーツにしようとおもうんですけど」

いつのまにか、英美は売り場から一着のスーツを持ち出していた。

「売り物を勝手に着られちゃあ、売り物にならないんだがね」

視線はどこに向いているのか、鯛三自身もわからなかった。ただ、軽蔑の念をこめて言葉を発した。

「そんなもんなんですか?じゃあ、この服はお給料がわりってことで」

身勝手な判断だった。鯛三は言葉を荒げた。

「勝手にもほどがある。いい加減にしろ」

怒声のあとに、静寂が耳に痛いほど広がった。妻の部屋から、衣擦れの音が止まった。鯛三自信も予期せぬ、大声だった。

「ご迷惑ですよね。わかってるんです。でも」

沈んだ声が、一層静寂さに臨場感をもたせた。

「お願いします。一ヶ月だけ、一ヶ月だけでいいんです。お給料もいりません」

切実に、懇願する言葉だった。静寂が、どのくらい続いただろう。鯛三はため息をついた。

「理由は。私の店で、あの方法で仕事をしなければならないわけはなんなんだ」

英美が座り込む気配がした。

「お向かいのお店、アルバイトの人、はいったんですよね」

鯛三は無言で頷いた。

「あの人、一馬さんっていうんですが。好きなんです、彼が」

鯛三は視線を遠くした。換気扇が、外の空気に回されていた。

「でも、彼は私のことなんか知りません。年も違うし、住んでるところだってはなれてますから」

こんなとき煙草でも吸えたら、と鯛三は思った。英美の言葉が続いた。

「見て欲しい。せめて、見知らぬ女の子としてでも、彼に見ていてほしかった」

またしばらく、静寂が続いた。外からは虫の声が聞こえてきた。ふと、過去が見えたような気がした。

「彼は、ストリートミュージシャンで、いつもI駅の前でライブをやっていました。最初は関心がなかったのに、何度か聴いているうちに惹かれちゃって」

実にいまどきの少女らしい、恋愛話だ。なんとなく鯛三は、妻の遺影を見つめた。

「それならそう、彼に伝えればいい。恥ずかしいかもしれんが、それをしなくては進展しないだろう」

英美は言葉を詰まらせている。虫の声は一層大きくなってきた。

「彼、ニューヨークへ行くらしいです」

自由の国アメリカきっての大都市。夢を持った若者は、あの国を目指している。

「それが、一ヵ月後かね」

「はい」

商店街のほうから、酩酊しきった大声が聞こえてきた。鯛三はそれに腹が立った。

「旅費と、生活費を稼ぐためのアルバイトだとおもうんです。直接訊いたわけじゃないけど。ほかにも、いくつかアルバイトはしているらしいです」

鯛三は、しばらく無言で妻の位牌を見つめていた。

「そうか。そういうことだったのかい」

その日も、英美はショーウインドウでポーズをとり、鯛三は客の対応に追われた。先日と同じ、過去に経験したことのない多忙な日だった。


「お疲れ様でした」

深々と一礼した英美は、店を後にして、駅に向かった。鯛三はそれを見送ると、店のシャッターを下ろした。そのときには、他の店はとっくに閉店していた。時計の針は九時を指し、遠くから犬の遠吠えが聞こえた。

レジスターから売上金を取り出すと、鯛三は大げさに身体を揺らして卓袱台の前に座った。老眼鏡をかけてみてみると、その金は目映く光って見えた。ため息が、静寂を破った。

「たいしたもんだ。一日でこの売り上げか」

歓喜の言葉を発しながら、鯛三はまたため息をついた。これは好奇心で引き込まれた客が落としていった金だ。こんなことが長続きするわけがない。そうかんがえれば、私が彼女にさせたことは、稚拙で愚鈍なことである以外ない。さすがに、明日からの軽蔑の眼差しは、覚悟しなければなるまい。憂鬱な気分と歓喜の気分が交錯した。鯛三は頭をかかえた。明日から、英美に、どう接すればいいのか。英美の言い分に、自分の過去が重なった。



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