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1.


 妻に先立たれて以来日課となっている店前への盛り塩を終えると、鯛三は大きく背伸びをした。特に必要な作業でもない。ただ昔から妻の習慣だったからで、客寄せのおまじないなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていた。視線の先には青空が広がっていた。以前はこの商店街にもアーケードがあったのだが、一昨年の冬に、支柱の老朽化を理由に撤去された。積雪があると、不気味に軋んだので、組合話し合いのもと、撤去が決まった。それでも、古びた景観にもかかわらず、商店街は人通りも多く賑わっていた。それには近隣に大手のスーパーマーケットや百貨店といったものがないからで、この商店街を利用しないとなると、5つほど向こうの駅まで“買出し”に行かねばならなかった。だから、この商店街で手に入らない品物が必要にならない限り、普段の生活物資は充分ここでの買い物で事足りるわけである。とりわけ“うをすぎ”の魚の鮮度と値段は評判がよく、噂を聞きつけて数駅ほど電車を乗り継いで買いに来る客もいるほどだった。海のないこの土地で、これだけの鮮度を保った魚を扱っているところはそうない、と言う客もいた。

 店内の支度を終えると、鯛三は“うをすぎ”へ向かった。向かわずとも、自分の店を出てまっすぐ正面をみれば、そこは“うをすぎ”である。わずか10歩ほどの距離だった。

「おはよう。めざしをくれないか」

 調理場を覗き込んだとき、カツヨは鰤を捌いていた。鰓から出刃包丁を突き入れ、下顎のつながった部分をはずす。腹を割いて、鰓の付け根を切る。そのまま鰓を引っ張れば、はらわたまで一緒に取れる。あいかわらず見事な手さばきだ、と鯛三はおもった。

「なんだって?」

 目もくれず、声だけが飛んできた。

「いや、めざしが欲しいんだが。なんだか急に食べたくなってね」

「めざしならそこの塩干物の冷蔵棚にあるから、持っていっておくれ。お金はその辺に置いてってくれればいいから」

 面倒そうに包丁の切っ先で指示しながらも、視線はやはり鯛三のほうへは向かなかった。

「まだ開店前だってのに。そんなものは買い置きしとくもんだ」

「いや、すまないね。朝食のことまで考えてなかった。家内がいなくなったら男ってのは駄目だね。お金、かごに入れとくから」

 ちょうどの金額は持ち合わせてなかったので、釣りはいいよ、と聞こえないように言いながら、店を出た。

 台所はずいぶん散らかっていた。シンクには昨日ラーメンを茹でた鍋、サバ缶を開けた小鉢など。その下には、それ以前の使用物が埋まっているはずだ。

めざしのパックを破ると、1匹ずつ丁寧に焼き網に置き、コンロの火を点けた。たちまち白い煙がたちこめたので、鯛三はあわてて換気扇を回した。いささか心もとない回転音がしていたが、煙が店内に流れ込みさえしなければいい。少し火を弱めると、テーブルの上のラジオをつけた。スピーカーから軽やかなピアノの音が流れてきた。鯛三は思わず口笛の音を重ねた。曲名は記憶から出てこなかったが、聞きなれたメロディから、弾いているのはセロニアス・モンクだとすぐ判った。ラジオをつけた時点で曲は終盤だったので、しばらくしてフェイドアウトし、違う曲が流れ出した。ボリュームを少し絞って、台所に戻った。

「ごめんください」

 店のほうから女性の声が聞こえた。それは腹の底から出したような大声で、おそらくそれまで何度も呼んでいたのだろう。

「すみません。まだ、開店前なんですがねぇ」

 客の顔を見るまでに呟きながら売り場にきてみると、声の主は若い女性、まだ女の子という表現のほうが当てはまるような年齢である。少女の姿がこの店内に存在するだけで異様な気がした。訝しげに、鯛三は老眼鏡をはずしながら言った。

「すまないがね。うちには若い女の子向きの服はないよ。ブティックみたいなお洒落な店じゃないんだから」

 少し愛想笑いを含めながら言うと、少女はため息をつきながら言った。

「そんなこと、見ればわかります」

 外した老眼鏡をかけなおしながら、じゃあ、どうして、という怪訝な顔をすると、少女は続けざまに言った。

「アルバイトがしたいんですけど」

 目の前に“履歴書在中”と書かれた封書を突きつけられた。鯛三は、どんな顔をすればいいのかわからないという顔で、おもわず封書を受け取った。

「いや、しかし」

 もう一度老眼鏡を外して、封書の中を見た。たしかに履歴書が入っている。からかっているのか。相手の表情を窺うが、真剣な表情だった。

「アルバイトの募集はしていないんだよ。見てのとおり、小さな店だし、客も少ない。私ひとりでももてあましてるってのが正直なところでね」

 少し照れくさそうに言うと、少女は、

「なんでもします。1ヶ月だけ、使ってもらえませんか?」

「だから」

 ため息をつきながら、履歴書に目を通した。この商店街から2駅ほどむこうの高校に通っているらしい。添付された写真はみたことのある制服姿だった。

「なんでもするって言ったって、してもらうことがないんだよ。客が来たら適当に服を勧めて、お金をいただいて、ありがとうございます、と言う。あとはたまに掃き掃除をしたり、商品を整えたりするくらいなもんだ。そんなことは私ひとりでできるんだよ」

少女は店内を見渡した。人ひとり通れるだけの入り口。その横にショーウインドウがあって、マネキンが1体展示されていた。中も数体のマネキンと、商品棚で構成されている。しばらくそれらを眺めたあと、少女は決意したように、少し笑顔で言った。

「ショーウインドウに入って、マネキンやります」

 鯛三は言葉を失った。咳払いをひとつして、「あのね」と、反論しようとしたが、台所から焦げた臭いが流れてきたので、あわてて走っていってしまった。



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