第二章(2)
昨日とは打って変わって、ひどく蒸し暑い夜だった。生ぬるい風が首筋を舐め、汗がしっとりと背中を濡らす。
けれど、弁慶は不思議と不快ではなかった。
三歩前を歩く義経が奏でる笛の音は、まるで清涼の風のごとく、弁慶の心を健やかに包み込んでいた。
改めて聞いても、その笛の音は素晴らしい腕前だった。耳ではなく、心に響く音。上品な艶がありながら、どこか素朴で、懐かしい音。
夜の京に繰り出す、義経の目的はなんなのか? 長屋を出た当初、弁慶は疑問でならなかったが、不思議とそれを口にしようとは思わなかった。
何も起きなければ、この笛の音をずっと聞き続けられるのであれば、それでいい。
いったい、どれだけの時間、そうして笛の音に心を預けたまま、今日の町を歩いただろうか。
西町から進み、京の東を流れる鴨川の河川敷が見えた頃、不意に義経の吹く笛の音が止んだ。笛の音の残滓が生ぬるい風に攫われる。
河の水は、月明かりに照らされ静かに輝いていた。
水の流れる音だけが響き、弁慶たち以外に周りに人の気配はない。
義経は何かを探すように、じっと川辺に視線を走らせているように見えた。
「義経様、どうされた?」
弁慶の問いかけに、義経は笛を懐にしまうと、声を潜ませて言った。
「おい、熊女」
「だから、その熊女という名は」
「気を抜くな」
その言葉を残し、義経は小走りに河川敷を滑り降りた。
「なっ」
弁慶が慌ててその後を追う。月明かりがあるとはいえ、すこしでも離れれば義経の姿を見失いかねない。
薄暗闇に揺れる羽衣を、弁慶は必死に追いかけた。
しばし走ると、義経は急にその足を止め、足音を殺すように静かに歩き始めた。弁慶も義経に倣い、足音を殺してその後を追う。
月明かりが途切れる。そこは、鴨川に掛かる大橋の下。
「助けてくれ。助けてくれ。お願いだ、助けてくれ」
人目からも月の光からも隠れたそこに、ひとりの男が蹲っていた。
「助けてくれ。静。助けてくれ」
まるで呪詛のように、男は肩を震わせながら一心不乱に同じ言葉を唱え続けていた。
男は膝と一緒に、一振りの刀を抱きかかえていた。
「義経様。この男……」
「気を抜くな、熊女!」
「え……なっ!?」
弁慶の鋭い声と共に、橋の影を切断する銀光が弁慶の首筋に走った。
まさに間一髪。弁慶があと一瞬躱すのが遅れていたら、弁慶の首は背後の鴨川を流れていただろう。
鋭い、とは言えないが、躊躇いのない太刀筋。それはまさに、人の命を刈り取るために放たれた一刀だった。
しかし、続けて放たれた言葉は、人の命を奪うにはなんとも頼りない声だった。
「な、なんなんだ、あんたたちは」
刀を振りぬいた男が、弁慶たちの姿を見て慌てふためく。まるで、今初めて弁慶たちの存在に気が付いたようだ。年は30歳近くだろうか、どこにでもいそうな男で、とても人の命を奪う気概があるようには見えない。
男は鞘から引き抜かれた自分の持つ刀に、ぎょっと目を見開くと、口から泡を飛ばしながら弁慶たちに向かって慌てて叫んだ。
「あんたら、早く逃げろ。殺されちまうぞ!」
人の首を刎ねようとしておいて、何をいまさら。と弁慶は思うが、男の表情はとても冗談や嘘を言っているようには思えない。だが、その切っ先はまっすぐに弁慶に向けられている。
「拙僧を謀って、油断させようというのか?」
「違う、違う違う。違うんだ」
男が必死に弁解する。やはり、その言葉が嘘を言っているようには思えない。
支離滅裂、矛盾だらけな男の言動に、弁慶が眉を顰める。
男の言動には、もう一つ不可解な点がある。
男は今にも跳び掛からんばかりに、力任せに刀を握っている。が、その刀が放つ殺意は、弁慶のみに向けられ、男のすぐ脇に立つ義経には一寸たりとも向けられていなかった。
(まさか、義経様が?)
一瞬、弁慶の脳裏に義経が男と密約し一芝居を打つという考えが過ったが、弁慶はすぐに頭を振ってその考えを掻き消した。
弁慶が疎ましいなら、引き離したいなら、もっと別の方法があるだろう。殺そうと言うなら、弁慶が図々しく床で寝ている間に一突きすればいい。なにより、義経の技量は弁慶の上を行くのだ。こんな町男をわざわざ利用する必要はないだろう。
混乱と緊張に心を握られ、弁慶の身体に余分な力が入る。無視できなくもないが、この相手は得体が知れない。このまま戦いとなれば、わずかな隙が致命傷になりかねない。
「逃げてくれ、助けてくれ。逃げてくれ、助けてくれ」
再び男が叫び出す。だが、その殺意はまっすぐに弁慶を射抜いている。
いったい、どうすれば。
「熊女」
その時、ようやく男の脇にいた義経が口を開いた。狼のような双眸が、弁慶に向けられる。その眼は、まるで何かを推し量っているようだった。
「この刀はお前を狙ってくるぞ。斬られたくなければ、戦って、刀を奪え」
「義経様!」
弁慶は思わず叫んだ。そして、同時に自分の浅はかさを後悔する。義経が弁慶を騙すわけがない。なぜか知らないが、今はそう強く信じられる。
義経が弁慶を連れてきたのは、この男と対峙させるためだろう。その理由は分からない。だが、理由なんて弁慶は分からなくてもいい。
義経は「刀を奪え」と言った。
ならば、弁慶がすることはただ一つ。
「我が名は武蔵坊弁慶。その刀、貰い受ける」
声高らかに宣言し、弁慶が薙刀を構える。
長身巨躯の弁慶が大武器の薙刀を構えれば、その威圧感は凄まじい。刀を持つ男は、今にも泣きだしそうに顔を歪めながら、懇願するように叫んだ。
「誰か、俺と静を止めてくれ!」
悲痛な叫び声は、鋼と鋼が打ち合う音と重なった。