第二章 婦刀 (1)
月が天上に上った夜半。弁慶は、隣の部屋から漏れる明かりに目を覚ました。
「んむ?」
目を擦りながら、弁慶が静かに身体を起こす。ここは、義経の長屋。弁慶が気絶している間寝かされていた、あの部屋だ。
どうして弁慶がここに寝ているのかといえば、答えはごく単純。弁慶がその頑固さに任せ、無理やり泊り込んだのだ。もちろん、義経は当初、長屋にやってきた弁慶を追い返していた。が、それで引き下がるほど、弁慶は素直ではない。
弁慶は義経の長屋の前で、仁王立ちで待ち続けた。忍耐強さなら、弁慶は誰にも負けない自信がある。それに、弁慶はあの格好だ。100本の刀を積んだ籠に、七つの大武器を背負った山伏姿の弁慶は、それは目立ってしょうがない。
下手に目立つのは、義経も良しとするところではないのだろう。なにせ、義経は朝廷に追われている身だ。本来なら、朝廷と目と鼻の先にある京に居を構えることも命がけだろう。
結局、根負けした義経は、弁慶を渋々長屋に招き入れ、隣室を貸し与えた。
ただし、義経は弁慶に二つの条件を付きつけた。
ひとつは、弁慶の今まで集めた刀を義経に差し出すこと。
もう一つは、長屋にいる間は義経の言葉に絶対服従を誓うこと。
条件付きとはいえ、断っていた割にはあまりにも早く折れた義経に何やら他の考えがないとも思えないが、勘ぐっていてもしょうがない。
義経は弁慶が付き人になることまでは認めなかったが、それもおいおい認めさせていけばいい。弁慶はこういう時にはとことん図々しいのだ。
その図々しさのままに隣室で眠っていた弁慶だったが、流石は999本の刀を集めたつわもの。寝起きで緩慢な動きでありながら、ほぼ無意識のうちにその手には脇に置いた薙刀を握り、いつでも飛び出せる体勢を整えていた。
「……西…………こ……」
「……に……とか」
(義経様と――誰だ?)
ふすまに聞き耳を立てた弁慶は、二つの声を耳にした。義経と、話し相手は若い男の様だ。声を伏しているのか、会話は聴き取りづらいが、義経の口調からするに旧知の間柄らしい。
弁慶は自分の息を殺しながら、さらに耳を澄ました。
「そうか……西町で斬られたのは女か」
「ああ。で、どうするんだ。だんな? こっちは、旦那が囮ってわけにはいかないぞ」
「わかってる」
「杏子ちゃんたちを囮に使う。――何てこと、考えちゃいないよな」
「斬られたいのか。犬丸」
「おととと、冗談冗談。本気にするなよ。んで、実際のところどうするんだ。俺としては、若い女の子が斬られるっていうのはすぐにでも止めたいんだが。――一応言っとくが、女装なんて死んでもやだぞ。俺は」
「あれにその手の策は効かん。気は進まんが、丁度適任がいる。――――聞いているんだろ、熊女」
唐突に声を掛けられ、弁慶がびくっと飛び跳ねた。弁慶の気配の絶ち方は完璧だった。それを看破するとは、やはり義経の技量は底が知れない。
弁慶は大きく息を吐くと、神妙な表情で一気にふすまを開いた。
「聞き耳立てて、申し訳ござら……ん?」
弁慶が素っ頓狂な声を漏らす。隣の部屋には、淡い桜色の軽衣を着こんだ義経が、ひとりで畳に座っていた。もう一人の声の主は、影も形も見当たらない。
油に灯した小さな炎が、薄暗い部屋の中をゆらゆら照らす。
それはまるで幻のように、義経が話していた男は消え去っていた。
「どうした、狐に化かされたような顔をしているぞ」
ふっと、義経が意地の悪い笑みを浮かべる。
弁慶はふみゅっと自分の頬を抓ってみた。じんっとした痛みが頬に走る。どうやら、夢や寝ぼけているわけではないらしい。
「弁慶様。今誰かと話していなかったですか?」
「さぁな」
躊躇いがちに尋ねる弁慶に、義経は小さく鼻を鳴らすと、脇に置いていた羽衣をその肩に羽織った。
つい今まで浮かべていた意地悪い笑みが、その羽衣に覆われるように消える。打って変わって現れたのは、昨日の晩、弁慶を魅了し、そして戦かせたあの冷たく、少し悲しい表情だった。
「先に言っておく。これから、俺はお前を利用する。それでもいいなら――ついて来い」
「弁慶様!?」
義経の放った言葉に、弁慶の顔が一気に赤みを帯びる。
なぜか、そのついて来い、という言葉が、弁慶はとてもうれしかった。
むかし、はるか遠いむかし、弁慶はその言葉を掛けてもらえなかった。
「いいのですか、義経様!?」
喜ぶ弁慶に、義経は複雑そうな顔をする。
「お前、俺の話しを聞いていたのか。俺は、お前を利用すると言ったのだぞ」
「御意。もとより、この弁慶の願いは義経様の付き人となること。我が手足は、義経様の手足。我が力は、義経様の力。我が命は、義経様の命!」
目をぎらつかせて、弁慶が義経にかしずく。その姿に、弁慶はますます持って困惑した表情を浮かべた。
「解せんな。昨日今日会った俺を、なぜそこまで信頼できる?」
「拙僧が信頼したいから、信頼する。それでは足りぬか?」
うっと、義経が弁慶の言葉に身を引く。いや、弁慶に気圧いされたと言っていい。
弁慶の言葉は純粋だった。純粋だからこそ危うさがあった。もとより、弁慶は刀1000本を集めれば男になれる、などという眉唾物の話を本当に信じていたのだ。自分の信じることに盲信する。が、そのただ信じるという一念だけで、刀1000本を集めたという事実がある。
「信じることに身を捧げられる獣、か」
「ん、義経様。今なんと?」
義経の言葉が聞き取れず、弁慶が聞き返す。
義経は何か言おうとして思い止まると、開き掛けた口を閉じ、その身を翻した。
「行くぞ。ならば、利用してやる。付いて来い」
「御意」
目を爛々と輝かせた弁慶が、はっとした表情で「ちょっと待ってくだされ」と、慌てて義経を呼び止めた。
「なんだ」
出鼻を挫かれた義経が、少し口調を荒げる。弁慶は誤魔化すような笑みを浮かべると、義経から隠すように、その身を両手で抱き締めた。
「衣を……着替えてよいだろうか」
季節は夏。弁慶は薄手の寝衣一枚を羽織っただけだった。こんな格好で外を歩けば、ただの痴女だ。弁慶自身、男になろうと心に決めた時に女は捨てたつもりだが、年はまだ若く、羞恥心がすべて捨て切れたわけでない。
女の身体に下衆な色目を使う男を見れば虫唾が走るし、そんなものがもし自分に向けられれば、弁慶は即座にその男を殴り倒すだろう。幸い、義経はそのような下衆な目を弁慶に向けることはないが、あまり素肌を晒すのは憚られる。
弁慶の頼みに、義経は呆れながらも理解を示したため息を着くと、その肩を玄関の柱に預けた。
「早くしろ」
「ぎょ、御意」
弁慶が即座に部屋に引っこみ、山伏装束を引っ掴む。
手早く身支度を整える弁慶に、不意に義経の声が飛んだ。
「一つだけ忠告しておいてやる、熊女」
「熊女という呼び名は、さすがに止めていただきた――――」
「人を信じることは美しいだろう。それは、俺も認める。――だがな。俺は人を信じ、その身を捧げたがために、命の花びらを散らした美しい華を知っている」
「え……それはどういう」
「早くしろ。おいて行くぞ」
がらがらがらっと音をたて、玄関の戸が横に滑る。
「ま、待ってくだされ。弁慶さ――ふぐっぅ!」
足がもつれて畳に向かって盛大に倒れた弁慶は、鼻の頭を真っ赤に腫らしながら、急いで義経の後を追いかけた。