第一章(4)
「ふぅ、ひとまず100本にしておくか」
自分の宿に戻った弁慶は、予備の籠に隠しておいた刀100本を差し込むと大きく息を付いた。本当ならもう倍の数は運びたいところだが、日中ともなれば一目もある。籠に入れ布で覆い隠すには、100本が限度だった。
「ふっふっふ。拙僧は諦めぬぞ。義経殿」
弁慶が剛毅な笑みを浮かべながら、ちゃぶ台に置いておいた握り飯を手に取る。
「あ~んぐぅ。む、う。うぐん……ぷは!」
米三合の大握り飯だが、弁慶はそれをぺろりと平らげて見せた。
「ふむ。握り飯の付け合わせと言えば、やっぱりこれだな」
茄子の漬け物を摘み上げ、あ~んと天井に向けた大口の中に落とす。ぽり、っと一噛みすれば、じゅわ~っと酸っぱい汁と果肉が口の中に広がった。今年の茄子は出来が良い。茄子の漬物は弁慶の大好物だ。
「んん~、んまい」
茄子の漬物に舌鼓を打った弁慶が、さらにひょい、ひょいと漬け物を摘み上げ、口の中に落としていく。ずず~っとお茶を啜り口の中を潤すと、弁慶は二つ目の三合お握りへ手を伸ばし、これまたぺろりと平らげた。
「ふむぅ~……。まぁ、五分目ぐらいにしておくか」
ぽんと腹を叩いた弁慶が、少し物足りなさそうに呟く。だが、これからは弁慶一人の飯ではなくなるのだ。いつでも米が手に入るわけでもない。ならば、少しずつでも食べる量を減らすのが良いだろう。
義経に突っぱねられた弁慶だったが、その言葉を聞き入れるつもりなどさらさらなかった。とはいえ、ただ付き人を申し出ても、結果は眼に見えている。
そこで弁慶は考えた。
弁慶が集めた残り900本の刀を、義経に収めようと。
理由は分からないが、義経も何か刀に思うところがあるのだろう。そうでなければ、ああも執拗に刀の茎を調べるものか。
それに、男になれないと分かった時点で、もはや刀など持っていても意味がない。
「むふふふふ。待っていろ、弁慶殿」
ほっぺたにご飯粒を付けながら、義経が付き人になることを許す姿を思い描き、弁慶がにやけ顔を浮かべる。
弁慶は三つ目のお握りを平らげ、最後に番茶を胃に流し込むと、「よし」っと膝を叩いて立ち上がった。
「では行くとするか」
がちゃっと刀を鳴らしながら、弁慶が籠を担ぎ上げる。
優に50貫を超す籠を担ぎ、さらにその背に7つの大武器を背負ってはいたが、弁慶の足取りは軽やかだった。
宿を出ると、真夏の暑い日差しが弁慶の頬を照り付けた。
山伏装束のおかげでそこまで熱くはないが、それでもわざわざこの炎天下に長居するのはごめんだ。弁慶が義経の長屋に向けて、その足を速める。
京は今日も活気に満ちていた。団子屋では旅人達や町人が集い、氷屋が氷室から出した氷を切り売りしている。弁慶は何度も食べ物屋の前で足を止めそうになったが、いかんいかんと首を横に振り、涎を垂らしながらも歩く足を止めなかった。
そんな弁慶の足が唐突に止まる。
「ん? なんだ?」
弁慶が首を傾げる。その視線の先には、路地の前でざわめく一際大きな人だかりがあった。大道芸人でもいるのかと思ったが、そうでもないらしい。
遠目で視る野次馬の顔に浮かぶのは、好奇ではなく恐怖。聞こえるのは大きな歓声ではなく、不安そうな囁き声。
「むごいのぉ……」
「かわいそうに……」
またか……と心の中で呟きつつ、弁慶はそっとその人垣へ足を傾けた。弁慶は頭二つ分も背が高く、人の壁を掻き分けなくても容易に路地の中を覗くことができた。
薄暗い路地には、体中に無数の切り傷を受けた男の亡骸が横たわっていた。
真っ赤な鮮血が土畳に広がり、対照的に血が抜け落ちたその身体は薄暗闇だというのにひどく白い。切り開かれた腹からは贓物と共に、黄色い脂肪が薄らと覗いてる。
嫌悪を顕わにしながら、弁慶が目を細める。凄惨な遺体だったが、それ以上に殺し方が残忍すぎる。遠目ではっきりとしたことは言えないが、おそらく背中にできた大傷が初太刀のものだろう。が、あれでは上っ面を切り裂いただけで、致命傷とはいかない。他に散見する刀傷も、どれも浅い傷だ。力がないのか、なぶっているのか。まぁ、おそらくは後者だろう。
うっっと、弁慶の隣で路地を覗き込んでいた女の子が、口を押えてしゃがみ込んだ。子供には、いくらなんでも刺激が強すぎるだろう。
「大丈夫か?」
弁慶が女の子の背中を擦ってやろうと手を伸ばす。
ぺちん!
弁慶の指先に、予想外の痛みが走った。
伸ばしたその手は、女の子の小さな手で乱暴に払われた。
「む……」
痛みはさほどでもないが、親切心で出した手が跳ね除けられ、弁慶が眉を顰める。
対して、弁慶の手を払った女の子は気丈な顔で弁慶を睨みつけると、突然駆け出し、これまた突然立ち止まって振り向き……
「べぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~っだ!」
真っ赤な舌を弁慶に向かって突き出した。
「なっ!」
敵意丸出しの少女に、弁慶が顔を真っ赤にする。
少女は再び身を翻すと、人波の中へと消えて行った。今から追いかけたところで、捕まらないだろう。
言いようのない怒りに、弁慶が歯を噛みしめる。その形相に、遺体の見物に集まっていた人波が、潮が引くようにさーっと引いていった。
ぽつんと取り残される弁慶の耳に、町のにぎわいを切り裂く二つの声が同時に届いた。
「おい、西町の通りでも人斬りが出たぞ。こっちは胴を真っ二つにされてら」
「なんで俺の刀が質に出されてやがんだ!」
声に呼ばれるように、町を行きかう人の流れが変わる。ほとんどの人は、うわさの辻斬りの方へと流れて行ったが、好き好んで一日に二体も遺体を見ようとは思わない。
弁慶は気の赴くままにもう一つの声の方へと足を傾けた。
怒り昂ぶった男の声は、すぐ近くの質屋から響いていた。
弁慶がそっと中を覗き込む。
質屋の中では、仲間を引き連れた男が固めた拳を机に叩き落とし、店主の老人に詰め寄っていた。
「おい、こら。じじい! これは俺の刀だ、返しやがれ!」
「これは先ほど来た御仁から買い取った物だ。ならば、この刀はすでにうちの商品。ほしいと言うなら、買い取ってもらうほかない」
「んだと、こら! しばき倒すぞ」
「じいさんよぉ。いくら短い余生でも長生きしたいだろぉ」
「うちの兄貴。怒るとほんとに斬っちまうぞ」
再び机に拳を落とす男の後ろで、取り巻きたちが汚い笑みを浮かべながら催促する。が、店を納める老人は、男たちの罵詈雑言にも眉ひとつ動かさなかった。なかなかの豪胆ぶりだ。
「ふ。弱い犬ほど、よく吠える」
重みのある声で、その口元に不敵な笑みを浮かべながら老人がぼそりと呟く。
その挑発に、男たちの堪忍袋はあっさりと切れた。
「誰が弱い犬だってぇぇぇええ!」
安い殺気を身に纏った男が、老人の襟首を掴み力任せに捩じりあげる。
その直後、店の奥から飛んできた鍋が男の額に直撃し、甲高い音を響かせながら男の身体をすっ飛ばした。
「うちの爺さまになにすんだ!」
店の奥から鍋を投げつけた女性が、腕を組みながら男たちを睨みつける。その背中から、ちいさな赤ん坊が顔を覗かせた。
年は、20歳そこそこだろうか。子供を背負いながら鍋を放り投げて大の男一人を吹き飛ばすとは、まず間違いなくこの店主の孫娘だろう。なかなかに肝が据わっている。
が、いささかまだ力が足りないらしい。もしくは、子供を背負っている手前手加減をしたのか。
鍋を受けた男は、額を真っ赤に腫らしながらもすぐに立ち上がった。
「こっの。……やってくれやがったなぁぁぁぁ!」
怒りに声を詰まらせた男が、拳を振り上げながら子供を背負う娘に向かって疾走する。
慌てて老人が机の下に隠しておいた護身刀を鞘から抜くが、間に合わない。
男の怒りに染まった形相に、娘が小さな悲鳴を上げて身を竦ませる。
しかし、幸運にも男の振り上げた拳が母子に向かって振り下ろされることはなかった。
男の拳はその手首を弁慶に捕まれ、空中で静止していた。
「な、なんだてめぇは?」
「女に手を上げるとは見下げた根性だな」
侮蔑を顕わにしながら、弁慶が掌に力を込める。握った男の手首が、弁慶の人並み外れた握力に、ぎりりりりっと絞め上がった。
「あだだだだだ。な、なにしやがる。離しやがれ」
腕を締め付けられ、痛みに狂った男ががむしゃらに弁慶の腹を残った手で殴りつける。
三、四発ほど好きに殴らせてやると、男は自分から殴ることを止めた。
「いっつ。くそ、なんだ。鉄板でも仕込んでやがんのか」
男が殴りつけた手を痛そうに振り、弁慶を睨みつける。無論、弁慶は腹に鉄板など仕込んでない。ただ腹筋で腹を固めているだけだ。
「非力な男だ」
「な……うおっ!」
弁慶が無造作に男の腕を振り回す。それだけで男は軽々と宙に浮き、弁慶が握った腕を離すと、男はそのまま仲間をなぎ倒して店の外まで吹っ飛んだ。
「いつつつつ。てめぇ、くそ。なにしやが……」
「ん?」
身を起こして弁慶を睨みつけた男が、突然その威勢を失い、酸欠の金魚のように口をぱくぱくとさせる。
(はて、こやつの顔どこかで?)
その顔に、弁慶は何やら見覚えがあるはず気がした。
ややあって、弁慶がぽんと手を打つ。
見覚えがあって当然だ。この男は、昨晩弁慶と仕合をするや否や、刀を置いて逃げ去った侍ではないか。
「一人では逃げ、徒党を組んでは脅す、か。貴様、それでも男か!」
今度は弁慶が怒る番だ。
ついでとばかりに先ほどの少女から受けた不条理な怒りも上乗せて、弁慶が男たちを睨みつけながら、どすんと地面を踏み鳴らす。弁慶が足を持ち上げると、地面に大きな足形が出来ていた。
「お、おお。覚えてやがれ!」
弁慶の怒号に、男たちが半べそを掻きながら一目散に退散する。
すると、弁慶の後を追って店の中から飛び出してきた先ほどの娘が、手に握った塩を男たちに向けて思いっきり投げつけた。
「一昨日きやがれってんだ!」
本当に、剛毅な娘だ。
ふんっと荒い鼻息を吐いた娘は、くるりと弁慶に向かい合うと、年の割には人懐っこい笑みを浮かべながら、弁慶の手を取った。
「ありがとうございます、お僧さま。おかげで助かりました。ほら、あんたもお礼いいな」
「あ~い」
母に声を掛けられ、背負われた赤ん坊が目を細めながらその小さな手を弁慶に伸ばす。
弁慶が指先を伸ばしてやると、小さな掌が弁慶の指を包み込んだ。
「かわいいな」
「自慢の娘です」
「母に似なければいいんじゃがの」
深刻そうにため息を着きながら茶を淹れ、老人が「一服していきなさい」と弁慶に湯呑を進める。
「では、せっかくなので」
思うところがあった弁慶は、そのご厚意を素直に受けることにした。