第一章(3)
「義経!? まさか、おぬし。源の……」
ひゅんと鋭い音と共に、銀光が空気を切り裂いた。
身を乗り出した弁慶が息を飲む。鈍い煌めきを放つ切っ先が、彼女の眉間一寸先で止まっていた。
弁慶の心臓が、どくん、どくん、と激しく脈打つ。体中を駆け廻る血潮は、沸騰しているのではと思うほど熱かった。その熱を逃がそうとするかのように、弁慶の背筋に冷たい汗が流れる。
「義理は果たした。余計な詮索をしている暇があるなら、とっとと出て行け」
その言葉は突きつけられた切っ先よりも鋭かった。
ふん、と鼻を鳴らし、義経が刀を引く。その刀は、すでに柄が外され茎が顕わになっていた。握りの細いあの刀で、義経は弁慶を圧倒する太刀筋を刻んだと知ると、弁慶の心の中で何かが急速に芽生え始めた。
(な、なんという……)
恐怖など容易く凌駕する技の冴え。弁慶の口元が知らず知らずに弧を描く。
目的はどうあれ、弁慶はこの京、そして隣国に名を轟かせた武芸者だ。武芸者ならば、今の太刀筋に心を奪われないはずがない。
がちぃがちぃ、と弁慶の歯が小刻みに噛み合う。身体の震えが止まらない。弁慶の身体の奥、その更に深淵に芽生えた感情は、次の瞬間急激に成長した。
弁慶は衝動の赴くままに、両手を床に押し付け、大きく頭を下げた。
「義経殿。いや、義経様。拙僧を、義経様の付き人にしていただきたい」
弁慶の言葉に、義経は呆れと驚きを織り交ぜた声で聞き返した。
「正気か?」
「無論!」
弁慶は即答し、頭を持ち上げるとまっすぐに義経の双眸と向かい合った。
義経は眉間に皺を刻み、甚だ不機嫌そうな顔をした。その真意を、弁慶は鋭敏に理解する。
義経が弁慶の知るところの男ならば、彼はこの国の朝敵の名だ。時の征夷大将軍である源頼朝の兄弟であり、戦場において多大な功績を残しながら、その独断専行が疎まれ朝廷から追放された者。その首は全国に捕縛の命が下り、多大な懸賞金が掛けられているはず。
そんな追われる身の者の付き人になりたいなど、酔狂でなければただの狂人か、あるいは……
「馬鹿か、お前は」
義経の言うように、本物の馬鹿ぐらいだ。
だが、馬鹿でも構わない。
武芸者ならば、この義経に心奪われるのは当然だろう。ならば、己が心の赴くままに生きるのが道理というもの。なにより、弁慶には帰るところも、生きる目的もないのだ。
身軽なこの命。無駄に野垂れ死に、散らすくらいならば……
「馬鹿も承知。無謀も承知。恥も承知。だが……」
弁慶はまっすぐな瞳で義経を見据えながら、声高らかに言った。
「拙僧は、義経様に惚れたのだ!」
そのあまりにまっすぐな言葉に、義経の眉がぴくりと跳ね、横一文字に結んでいた口元が歪む。
弁慶が一流の武芸者なら、義経は武芸者を超越した達人だろう。その動き、太刀筋を、身を持って体感した弁慶には分かる。義経は怪訝な眼差しで弁慶を睨んでいるが、達人ならば、弁慶の言葉に何かの下心や、ましてや義経を謀るつもりがないことが見抜けないはずがない。
案の定、義経はしばし弁慶を睨むと、これ見よがしに盛大な溜息を付いた。弁慶の思いに嘘偽りがないことを見抜いたのだろう。
義経はもう一度、今度はすとんと肩を落としながら溜息を零した。
「付き合いきれぬな」
ただ一言零すと、義経は手に持っていた刀を茎が顕わになった山の中に放り投げた。
がちゃんと鉄が悲鳴を上げるのを尻目に、義経が押し入れの襖を開き、三つの筒を取り出す。そして義経は弁慶に一瞥もくれぬまま、刀を筒に差し込み始めた。一本目の筒は柄を外された刀ですぐにいっぱいになり、義経が二本目の筒に手を伸ばす。
弁慶の持っていた99本の刀のうち、柄を外し終えた約半分ほどの刀がふたつの筒に収められた。
そこでふと、弁慶は義経が作業をしていた座布団の隣に、一本だけ別に避けられた刀があることに気が付いた。
(ん? あの刀……)
刀を目にした弁慶が、怪訝そうに眉を寄せる。なぜか分からないが、とてつもなく嫌な感じがした。
1000本の刀を集めるために刀狩りをしていた弁慶だが、刀への関心は薄かった。奪った刀はすぐに籠に入れ、注意深く見たことはない。だから、今までその刀が発する何かに気が付かなかったのかもしれないが、脇に避けられた刀は、何か言いようのない気配を発していた。
弁慶がその刀が放つ何かを探ろうと、四つん這いのまま目を凝らす。
が、その何かが分かる前に、義経がひょいと刀を拾い上げ、弁慶から隠すように筒の中に差し込んだ。やはりその刀だけは特別らしい。その証拠に、筒に差し込まれた刀が他の刀とぶつかる音はしなかった。おそらく、三本目の空筒に刀を差しこんだのだろう。
義経は刀の始末を終えると、顔を隠すように目深の笠を被り、刀でいっぱいになった筒を一つ担ぎ上げた。がちゃり、と鉄の重々しい音が部屋に響く。
「おい、熊女」
素っ気ない視線と共に、ひどい呼び名が降ってきた。むぅ、と弁慶の口元にへの字が浮かぶ。確かに身体が大きなことは自覚しているが、熊とはなんとはなんだ、熊とは。
弁慶の反応に、義経は少しだけ顔を柔らかく崩して鼻を鳴らすと、その足を玄関へ向けた。
玄関で草履を履きながら、義経が背中を向けたまま弁慶に言葉を飛ばす。
「俺が帰る前に出て行け」
「なっ! ま……」
「それと」
待ってくれ、と叫ぼうとした弁慶の言葉を、義経の言葉が両断する。
出鼻を挫かれて言葉を飲み込む弁慶に、刀の入った筒を背負い直した義経は、玄関の戸を開けながら顔半分だけ振り返り言った。
「俺は、これでも妻子持ちだ」
それまでの素っ気ない言葉よりは幾分感情の籠った、どこかからかうような口調で言い残し、義経はぴしゃりと玄関の戸を閉める。
一瞬ぽかんとした弁慶は、義経の言葉の真意に気が付くと、茹でだこの様に顔を真っ赤にして叫びながら飛び出した。
「ま、待て。拙僧が言ったのは、そう言うつもりじゃ!」
戸を壊さんばかりに引き開けた弁慶が、慌てて外へ飛び出す。けれど、そこにすでに義経の姿はない。
「ん~? おねーちゃん。ねまきであわててどーしたの~?」
「はだしだよ~。くすくす、へんなの~」
「な、いや。これは……。み、見るな! 見るでない! 笑うでない!」
「かわやはむこうだよ~」
「~~~~っ!」
その慌てっぷりを見た近所の子供たちにくすくすと笑われた弁慶は、指の先まで真っ赤にしながら義経の長屋に引っ込んだのだった。