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めおと刀  作者: 野生
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序章(1)

序章

 静かな風の吹く京都の夜、天上に上る満月は狂おしいほどに輝いていた。

「これで、999本目か」

 残された刀を掴み、弁慶が一人呟く。逃げた刀の持ち主は、もう近くにはいないだろう。死合いとも呼べない戦いだ。余韻などあるはずがない。弁慶が怪力任せに薙刀を振るい長屋の木柵を吹き飛ばす姿を見て、勇んだ侍は魂である刀を捨てて逃げたのだ。

 少しばかりの虚しさを感じながら、弁慶が脇に置いた籠へ刀を突き刺す。籠の中の刀は、99本。預け置いてきた刀と合わせれば、京都中の侍が腰に差す刀の数を軽く上回るだろう。

 1000本刀を集めるという悲願は、今まさに弁慶の目の前にあった。

 とはいえ、最後の一振りは後日となるだろう。最近京を騒がす辻斬りのおかげで、町人ばかりか侍でさえ夜の都を出歩かなくなった。

 ただの辻斬りならば勇むものも多いだろうが、このたびの辻斬りは一向に姿が見えないと薄気味悪い相手だ。しかも、狙うのは男ばかり。男に捨てられ身投げした女が、幽鬼となって辻斬りをしているという者もいる。

 おかげで、弁慶の刀狩りは滞るばかりだ。騒がしいのは、花魁が呼びかける吉原ぐらい。

 ふぅっとため息一つ零し、弁慶は薙刀を背中に背負い差すと、刀を収めた籠に手を掛けた。そのまま、弁慶は籠をこともなげに担いでみせる。大小軽重の差があるとはいえ、99本の刀が入れられた籠は50貫(約200キロ)を優に超す。にも拘らず、弁慶は眉ひとつ動かさずに、まるで散歩にでも向かうかのような足取りで歩き始めた。

 また風が吹く。

 気持ちいい、と弁慶は声もなく呟いた。

 笛の音が聞こえたのは、その時だった。

 頬を撫ぜる風のように優しく、そしてどこか懐かしい笛の音は、見事な満月と相まって狂おしいほどに風流だった。

 艶やかな音は、どこか寂しげでもあり、それがより一層心に響く。吹き手を見なくとも、その演奏者が並々でないことは想像に難くなかった。

 まるで蜂が花蜜に誘われるように、もしくは蛾が闇に揺らめく炎に誘われるように、弁慶の足は自然と笛の音が聞こえる方へと進んだ。

 笛の音に水が流れる音が混じる。たどり着いたのは五条の大橋だった。

 そこで、弁慶は見た。対岸から橋を渡る、優美な演奏者の姿を。

 淡い桜色の軽衣を身に纏い、向こうが透けて見えるほど薄い羽衣を羽織り、横笛に指を躍らすその姿は一枚の絵の様だった。

 その美しさたるや、まさに魔性。刀狩りで心疲れた弁慶の心を奪うには、十分だった。

 吹き手は男だったが、その顔立ちはともすれば女であろうかというほど整っていた。よほど位の高い身の上なのか、漂う品は、目の当たりにすることでより一層笛の音を際立たせた。

 弁慶が唾を飲む。

(もしや、この者が噂の辻斬りか)

 あまりの美しさに、弁慶は不安を覚えるほどだった。

 男は弁慶に気付かないのか、笛を引き続けながら橋の中央を音もなく渡ってくる。

 弁慶は震える自分の手に気が付き、再び息を飲んだ。

 あまたの強敵と戦ってきた。あまたの刀を奪ってきた。一対一ではなく、多対一で戦うことも多かった。そして、弁慶は勝ち、今まで生き残ってきた。

 ここ数年は、立ち向かう相手ばかりが気負いされ、弁慶が怯むことなどなかった。

 だが、今まさに弁慶は怯んでいた。

吹き手から漂うに人並みならぬ雰囲気に気負いされていた。

(こやつ、物の怪の類か?)

 弁慶が背中に差した薙刀をスラリと引き抜く。研ぎ澄まされた切っ先が、満月の光を帯びて銀光を放つ。得体の知らない相手だ。間合いを詰めさせるわけには行かない。

 油断なく身構える弁慶。笛の音だけが、ただ無情なほど静かに耳に響く。

 限界まで見開かれた弁慶の眼が男の腰の物に気付いたのは、彼の者が橋の下りに差し掛かった時だった。

 これもまた、目を奪われるような鞘ごしらえの刀だった。抜きはせずともの、その刀が名刀であることは、1000に迫る刀を集めた弁慶の眼にはすぐに分かった。

 一日千秋思いで待ち焦がれた1000本目の刀が、今、目の前に現れたのだ。

「おい、貴様!」

 心を縛っていたあらゆる感情が、一瞬にして霧散した。

 弁慶の声に、笛の音が止まる。ずっと伏せ見がちだった男の双眸が、今初めて気が付いたように弁慶の眼を射抜く。

 細く鋭い、まるで狼のような壮絶な瞳。

 それでも、もはや弁慶に迷いはなかった。

「我が名は武蔵坊弁慶。その腰の物、貰い受けたい」

 丹田に蓄えた気を言葉に変え、弁慶が名乗る。すさまじい気力に、川の水が、木々が、風がざわめく。近くにいた野良猫や野犬は、弁慶から満ちる気の圧に、われ先にと逃げ出した。

 男の返答は、ない。

 怯えた様子もなければ、腰の刀に手を回すこともない。

 しばしの沈黙。

 再び、五条の大橋に笛の音が流れた。

 弁慶はすでに駆け出していた。舐めているも、よし。狂っているも、よし。諦めているも、またよし。

 弁慶がその勢いに怪力を上乗せし、力の限り薙刀を振り下ろす。薙刀の柄がしなり、びゅんと鋭い音を立てて風が切り裂かれ、続いて爆音と共に橋の板木が爆ぜ跳んだ。

 手応えは、ない。

 弁慶の薙刀を易々と跳び躱した男は、まるで重力を無視するかのように、そのまま音もなく橋の欄干に着地した。

 幽玄な笛の音を響かせながら。

「優男。貴様、やはり物の怪の類か?」

 思わず、弁慶は叫んだ。弁慶の一撃は、決して遅くはない。易々と避けられるようなものではない。

 男は答えない。ただ、笛の音を響かせるのみ。

 弁慶は大きく息を吸い込み、あらん限りの気力を丹田へと溜めた。

 そして、怪力無双が動き出す。

 びゅんと先ほどよりもさらに大きな風の悲鳴を纏い、薙刀が男の立つ欄干を薙ぐ。切り裂かれた欄干が水面へ滑り落ち、落ち葉を纏った水柱が水面に逆巻く。

 またしても男は跳んだ。

 だが、今度は弁慶も逃がしはしない。

 横薙ぎの一閃を無理やり曲げ、薙刀の切っ先が男の脇腹へ伸びる。宙では躱せまい。

 切っ先が空を切る。弁慶の思惑は見事に躱された。

 男は笛を片手で握ると、弁慶の薙刀切っ先の腹に笛の先を滑らせたのだ。結果、薙刀の軌道は傾き、反動を利用した男は橋の反対の欄干へ悠々と着地した。

「こ、くぉののぉぉぉぉ!」

 弁慶が吼える。今まで幾多の武人を退けてきた怪力。弁慶の人生さえも狂わせてきた怪力が、こんな優男に通じないはずがない。

 弁慶が、橋の床板を引き裂きながら薙刀を掬い上げる。再び跳躍する男は、月を背負うように弁慶の頭上を横切ろうとした。

逃がすものかと、弁慶が月を貫く勢いで、片手に持ち直した薙刀で天上の男を突く。

 馬鹿な、と弁慶は自分の眼を疑った。

 男は、天上に突き立てた弁慶の薙刀の切っ先の上に立って見せたのだ。

 すとん……と、男が柿でも落ちるかのように薙刀の切っ先から身を投じ、弁慶の背後に着地する。弁慶の背中に冷や汗が流れた。

(まさか、本当の本当に物の怪では……)

 背中を取られた弁慶は生きた心地がしなかった。心臓を鷲掴みにされるとは、この時の心地のことだろう。

 首筋に固く冷たい感触。それが刃であると知ったのは、弁慶の視界の端に、銀光煌めく刀の刀身が覗いたからだ。

 今まさに、弁慶の命は、この物の怪とも知れない男が握っていた。

 いったい、どれだけの間、その沈黙は続いただろうか?

「お前の動きは、けたたまし過ぎる」

 笛の音のように、それは澄んだ声だった。

「なっ」

 慌てて振り返る弁慶。男はすでに笛を咥え直し、乱れのない音を奏でながら歩き始めていた。

「ま、待て!」

 弁慶は叫んだ。このまま男を逃せば、自分が今まで積み上げてきたものが砂上の楼閣のように崩れてしまう。

 男の足は止まらない。妙なる調べを奏でる笛の音もやむ気配はない。

「待てと言っているだろう」

 弁慶は叫びながら、薙刀を背負い、代わりに熊手を取り出した。これならば、あの男の動きを捉えられるかもしれない。そんな微かな望みを掛け、弁慶は床板を踏み砕き、男へと駆け出した。

 ぶぉんと、熊手の爪が風を掻く。

 風を掻き分けた熊手は、そのまま大きく吹き飛び、弁慶が歩いてきた向こう岸に落下した。

「無念……」

 弁慶の意識が、深い闇に落ちる。幾多の斬撃を浴びようと立ち続けた弁慶の身体であったが、男が首筋に放った手刀は、あっさりと弁慶の意識を切り落とした。

 弁慶の大きな体が、ゆっくりと傾き、橋の上に崩れ落ちる。がちゃんと背中に背負った七つ道具が一度だけ悲鳴を上げると、再び静かな夜が五条の大橋に訪れた。

 興味を無くしたように笛を奏でようとした男が、不意にその動きを止める。

 男の腰に差した刀が、倒れ動かなくなった弁慶を労わる様にざわめき始めた。

 男はしばし考えると、やがて諦めたようにため息を零し、弁慶の身体を担ぎ上げた。


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