覚醒の刻
4 覚醒の刻
俺達は現実では到底起こりえない現象を目の前ではっきりと目視した。
死んだはずの肉体が蘇り、更にはその姿を不気味に変貌させ、まるで魔物のような姿となった男性――例えるなら四本脚の蜘蛛、そのグロテスクな容姿を見ただけで
身の毛が逆立ち、恐怖でその場から一歩も動けない。
「イヤァ―――ッ! ば、化物!」
あまりの恐怖に耐え切れず、佳奈は甲高い悲鳴を部屋中に轟かせた。そのおかげで俺の動かなくなかった足は正常に戻り、次の一歩を踏み出すきっかけを与えてくれた。
「逃げろ……逃げるんだ!」
咄嗟に出た『逃げろ』という言葉。『外へ逃げろ』という意味合いで発したはずだったのだが、いち早く逃げ出した萌が何を思ったか二階へ続く階段へ向かった。
「待て萌、そっちじゃない! ――クソッ!」
萌は全く聞く耳を持たずに、ドタバタと階段を駆け上っていく。
「筐さん、どうするの?」
カリンが慌てた口調で次の行動をどう取るべきか俺に請う。思考を整理して最善の策を考える。だがその間にもブリッジ人間はジリジリとこちらに迫ってくる。
「…………階段を上れ、早く、急げ!」
俺は咄嗟に階段を上がるよう指示を出した。萌をこのまま一人にしておく事もできないし、それに逃げ道はもう既にブリッジ人間によって妨げられている。
俺は皆と共に階段を必死に駆け上がった。
後ろを確認すると、ブリッジ人間も俺達を追うように階段を這い上がってくる。
ブリッジしているとは思えないほどのスピードで迫り来るその機敏な動きは、本物の蜘蛛のように手脚を器用に動かし迫ってくる。
二階に到達したところで息を切らせた萌と合流する。
「ちょっとアンタさあ、いい加減にしてよ! なに自分勝手に突っ走って、しかも二階に上ってんのよ! 状況わかってんの? 頭おかしいんじゃない」
佳奈が萌と合流した途端、豹変したようにブチギレを起こした。
「戦略的撤退っていうか……ゲームなんかでよくあるシチュかと思い――」
「ならアンタが囮になれよ!」
「おいよせ! 言い争いは後だ――来るぞ」
口論している間にブリッジ人間も二階フロアに到達した。黒い唾液を口から垂れ流しながら生気のない目でこちらをじっと凝視してくる。
その圧倒的な威圧感に押されて、二階フロアから更に三階フロアへ続く階段へ追い詰められる。廃ビルの廊下は狭く、逃げ出すスペースは全くない。階段を上がっていくことしか逃げる方法はない。
でもそれは一時凌ぎの本の僅かな希望でしかない。
俺達はあっという間に廃ビルの最上階である五階フロアまで押し込まれてしまった。
ヒタヒタと冷たい廊下を這ってくるブリッジ人間の足音が響く。
廊下の奥まで逃げ込んだ俺達は等々逃げ場を失ってしまった。吹き抜けの空間を挟んだ向かいの廊下からブリッジ人間がゆっくりとこちらに近づいてくるのが目ではっきり確認できる。
「私達、ここで死んじゃうの……」
震える声でカリンが小さく呟いた。絶望感を与えるカリンの言葉に皆が萎縮してしまい言葉を無くしてしまう。俺自身の恐怖心も更に増し、心臓の鼓動が急激に高鳴っていく。
その時、恭助が突然一歩前へ踏み出し、俺の前方へ歩み出た。
「一か八かだ、俺が囮になる」
「何言ってるんだ! 危険すぎる。なんなら俺も一緒に――」
「一人で行かせてくれ、これはオレの責任でもあるんだ」
恭助は一歩も引く素振りを見せず、廊下の手摺に手を置いた。
「ちょっとアンタ! ここまで来て私達を裏切って一人で逃げ出すような真似しないでしょうね」
佳奈が目に涙を浮かべて叫んだ。その言葉に萌がビクンと身体を震わせる。
「大丈夫、見捨てなんかしない。信用してくれ」
そう言うと、恭助は吹き抜けを利用して五階の手摺から身を乗り出し、振り子のように身体を揺らし、勢いをつけて四階の廊下へと飛び移った。
この方法で皆も逃げられるんじゃないかと考えたが、それは無謀だとすぐに気付いた。女性二人は俺が手を貸せばなんとか下の階に降ろせそうだが、問題は萌だ。
あの体重と短い手脚ではどうやっても落ちてしまうのは目に見えている。これは長身で身軽な恭助だからこそできる芸当だ。
『オレが奴を出口まで誘い出す。それまでそこで待っててくれ』
下の階から恭助の叫ぶ声が聞こえた。そこから更に恭助は五階へ続く階段を再度駆け上がり、ブリッジ人間の後ろに回り込んだ。
『おい! こっちだ、こっちへ来い化物!』
恭助は咆哮のような怒声を上げ、前進するブリッジ人間に向かって小石ほどの破片を全力で投げた。
その破片は見事命中した――破片が命中したことに気付いたブリッジ人間はその場でピタッと停止。正面に向けていた顔を再度180度回転させ、顔を上向きの位置に戻し恭助の姿をじっと見つめた。そしてその目はすぐに怨恨を訴えるような鋭い目付きに変わった。
シャアアアアア!
ブリッジ人間は恭助に狙いを定めて後退を始めた。前進していた時よりも手脚の動きは遥かに荒っぽく、そして尋常なくらい速い――。
『逃げろ! 恭助』
俺の一声を受け、恭助は階段を我武者羅に駆け下りた。
それを追うブリッジ人間は何度も壁にぶつかりながらも、恭助へ襲い掛かるため壁に猛烈な体当たりを繰り返す。
必死に逃げ回った結果、恭助は瞬く間に一階に辿り着いた。
そして目の前の出口を駆け抜けようと、最後の力を振り絞り走りきる。
――はずだったが、事態は急変した。
すぐ後ろにまで迫っていたブリッジ人間が、強靭な太い手脚を利用して高く飛び上がった。ブリッジした状態のまま恭助を軽々と飛び越え、出口の道を塞ぐかのように着地した。
キシャアアアア!
口を大きく開いて恭助を威嚇するブリッジ人間。
出口を塞がれ、打つ手がなくなった恭助はその場から後退をやむなくされる。
絶体絶命の危機――徐々にブリッジ人間と恭助の距離が狭まり、逃げ場のないフロアの隅に追い詰められていく。
(恭助が殺される)
そう感じた時、俺は即座に周りを見渡した。
何かこの状況を打破できる逆転の一手があるはず――廃ビル内の至る所まで視野を行き渡らせ、最終的に目に映ったのは吹き抜けの天井に吊るされた《シャンデリア》だった。
「あれだ!」
シャンデリアは五階の手摺に結ばれた一本の古びたロープだけで支えられている状態だった。このロープさえ切断することができれば……。
しかし俺は切断するための道具を持っていない。ビル内に散乱した破片を見ても、どれも鋭利な刃物に代わる形をした破片はなく使い物になりそうにない。
(どうする……ん?)
無意識に自分の身体を手で探っていたら、ズボンのポケットに何か膨れ上がった小さい感触に触れた。
取り出してみて、ハッとした。
さっきコンビニの中で見つけた《百円ライター》がそこにあった。
俺は直様ライターを着火させ、その小さい炎の先端でロープを炙った。
チリチリと紐の繊維が焼き切れていく――そして。
ロープはシャンデリアの重さに耐え切れず、焼いた部分から徐々に引きちぎれていく。そして完全に引きちぎれた瞬間、シャンデリアは鉄が擦り合うような金属音を鳴らしながら一階の中央フロアへ一直線に落下していく。
「恭助! 離れろ――――」
俺は周囲の音に負けないほどの声を張り上げて恭助に危機を知らせた。
その声を聞いた恭助は頭上を見て仰天した。すぐさまフロアの隅に飛び込み、
その身をグッと縮こまらせた。
ブリッジ人間もその異変に気づき、視線を天井に向けた――が、時はすでに遅し、落下してくるシャンデリアの影がブリッジ人間を覆い隠す――。
そして一階フロアの丁度中央にいたブリッジ人間は落ちてきたシャンデリアの下敷きになり、完全に姿勢を崩しピクリとも動かなくなった。
「やった……のか?」
まるで時間が止まったかのようにシーンと辺りが静まり返る。外の雨音が微かに聞こえるが、それ以前に心臓の鼓動がやけに耳を打つ。それもそのはず、こんな酷い惨劇を目の当たりにして冷静でいられるわけがない。
恭助が無事なのだろうかという不安感と、殺人とも言える悪行を行った罪悪感が混じり合い、胸が締め付けられたように痛み出す。
「うぉおおおおお! スゲーっての」
突然、萌が歓喜の声を張り上げた。
「名付けて《怪人の悲劇》マジでシビレたっての! 最高っすよカタミッチ」
テンションが更に増した萌は俺をキラキラ潤った瞳で見つめてくる。萌にはこの惨劇が映画やアニメのように見えているのだろう。ヒーロー的な俺の行動に感銘を受け、変なあだ名まで付けてきた萌は一人で有頂天になっている。
「ホントに死んだの? 確認したほうがいいんじゃないの」
佳奈が手摺から一階の様子を覗き見て、不安を掻き立てるような言葉を発した。ブリッジ人間の詮索より、今は何より恭助が心配だ。
「恭助無事か、怪我はないか!」
『ああ、問題ない。でも流石にびっくりしたぞ、間一髪ってやつだ』
幸いにも恭助には怪我はなく、ただシャンデリアが落下した際に舞い上がった土
埃が服に付着しただけの状態だった。
「済まない、これしか助けられる方法がなかったんだ」
『いや、別に攻めているわけじゃないんだ。ナイス判断だったぞ筐――それにして
も、コイツは一体……』
そう言いつつ、恭助は落下したシャンデリアの方へ歩いていく。
「危険だ、まだ死んだって決まったわけじゃない。迂闊に近づくな!」
『心配いらない。こっち側だとよくわかる……大丈夫、もう起き上がってこないさ』
恭助が身を屈め、シャンデリアの中を覗き込んだ――その時。
シュバッ!
鋭い一閃の光が恭助の数センチ手前を裂いた。
『ぐぅっ!』
恭助は右手の甲を抑え、よろけるように後退する。高い位置にいる俺にはどうなったのか全く見えなかったが、最悪な自体である事は間違いない。恭助の右手からは止めどなく血が溢れ出している。切傷を負ったということは、さっきの空間を裂いた光は奴の鋭い爪――それはつまり。
【ブリッジ人間はまだ生きている】
ギェアアアアアア!
シャンデリアの下敷きになっているブリッジ人間が息を吹き返し、そこから脱出しようとジタバタと暴れ出した。かなりの重量があると思われるシャンデリアが少しずつ横へ動いている。
事態は変わっていないどころか、益々酷みを増してしまった。ブリッジ人間は怒り狂い、鋭い爪を地面に立ててコンクリートを削り取りながら少しずつ前進してきている。
シャンデリアから出た瞬間に、まず間違いなく恭助が殺られる。
その次に俺達の誰かが――。
「恭助……」
全員が助かる道を模索してみたが、それは不可能だ。
俺は死を覚悟した。そしてこの状況下で最善策だと思われるある一つの行動を頭に浮かべた――。
素手ではできそうにない、何か鋭い棒状の物が必要だ。
すると廊下に傘が落ちていた――これはブリッジ人間になる前の男性に添え木として使用していた傘だ。ブリッジ人間が五階フロアに来るまで、奇跡的にこの傘だけが脚に残り、恭助を追って後退した時に偶々落ちたのだろう。
探していた鋭い棒状の物はこの傘で十分代用できる――持ち手の部分は丸い形状だが、先端部分はかなり鋭く、頑丈に作られている。
傘は本来《差す》ためのものだが、俺はこれを今回に限り《刺す》ために使う。
俺は五階の手摺を乗り越え、吹き抜け側の本の僅かな足場に立った。
「か、筐さん……な、何を」
カリンが俺の行動を見て動揺したように語り掛けてくる。何度も囁くように「やめて、やめて」と繰り返すカリン。でもこれしか方法はない――俺は覚悟を決めた。
「一緒にいられなくて済まない。絶対生きて帰ってくれ」
「い、いや――――――!」
カリンの悲鳴と共に身体を前方へ倒す――重力に逆らうことなく俺の身体は真っ逆さまに吹き抜けの中へ吸い込まれていった。
体内の血液が沸騰し、アドレナリンが分泌される。
全身を打ち付ける豪風で意識が飛びそうになる。心拍数も平常な時よりも格段に上がり、心臓の鼓動が爆発寸前のところまで追い込まれた。
未だ嘗て感じたことがない孤独感、これが死への恐怖。
だが、一人で逝く気はない――ブリッジ人間も巻き添えだ。
俺は傘の先端を前へ突き出し、槍を構えるような格好を空中で取った。このまま落下してブリッジ人間の頭上に傘を突き刺す。その際の衝撃で俺も骨を砕き、死に至るのは確実だが構いはしない。これで皆が救われるのなら――。
キィ―――――――ン!
「ぐっう!」
突然耳元に甲高い雑音が響いた――そして。
右腕に異変が起こった――腕の血管が浮き出て皮膚が膨張していく。更に五本の指が一箇所に絡まるように動き、骨の形状が変化していく。
「何だ、何が起こって――っ!」
右腕の皮膚は膨張を続け、構えていた傘までも完全に取り込み腕の中に吸収され
ていった。やがて形状変化が収まり、ある形になったところで腕の発達が止まった。
(これは、剣か?)
俺の右腕は禍々しい外見をした《剣》に変化した。筋肉の塊が剥き出しの刃を支えるように覆っている奇怪な形状をした剣。その表面は心臓の鼓動と連動して、まるで生きているかのように脈打っている。
自らの意思とは関係なく右腕の剣は勝手に動き始めた。制御は全くできない、自分の腕ではないかのようだ。
右腕の剣は真下にいるブリッジ人間に狙いを定め、その剣先を急所であろう頭部に向け固定した。
「ぐぅああああああああああ!」
右腕の暴走を全身全霊で支え、一直線にブリッジ人間の頭上目掛けて落下した。
ブリッジ人間がシャンデリアから脱出した瞬間、剣先は頭部を捉えズブッっと鈍い音を立てた。
ブリッジ人間の頭部は丁度半分のところで二つに裂かれ、首の断片から止めどなく黒い血が吹き出た。
地面に落下した際の衝撃を右腕の剣が全て受けてくれたおかげで、俺はどこも骨折することなく一階フロアに着地することができた。気づけば右腕も元に戻っていて、服は破けてしまったが、腕には何一つ傷跡は残ってはいなかった。
「筐……お前のその腕、一体何をしたんだ?」
恭助はただ呆然と俺を見つめてくる。どうして腕があんな不気味な形状に変化したのか、説明しようにも全く自分にもわからない。けれど一つ確かなことがある。
「わからない……ただ落ちている最中に耳鳴りが起こったんだ。頭の中をかき乱すような甲高い雑音が響いて、その後に俺の右腕が急におかしくなった」
「……雑音っていうのは、秋葉原で一斉受信したあの電磁波のことか?」
「ああ、でも今回は電話を通さず、直接耳に伝わってきた。しかもこれは俺の勘違いかもしれないけど、段々耳鳴りの音が大きくなってきているような気がするんだ」
俺はこれで三度の耳鳴りを体験した。三度起こった耳鳴りは全て同じ種類の電磁波である事はまず間違いない。けれどその電磁波は次第に大きくなってきている。
それは直接聞いた俺が一番実感していることだ。
その音はまるで俺を呼んでいるかのような不気味な声にも聞こえる。
「音が強まっているって事か……もしかすると、この近くに発信源があるのかもしれないな」
「発信源、電波塔……みたいな?」
「そうだ、もし仮にその人体変異が電磁波の影響だったとしたら、その発信源を
壊せばもう身体が変化することはないかもしれない。サラリーマンの男が化物になった理由も、それと同じ電磁波の影響かもしれない」
恭助はまるで探偵のような口振りで推測を立てた。
別に俺はそれを疑っているわけじゃない。可能性としては恭助の言っていることは最もだと思うし、辻褄も合っているような気がする――。
しかし、ブリッジ人間になった男性と俺の右腕の件は全くの別物のように思えてならない。推測の域を出ていないただの感だが、実体験した俺にはどうしてもそこが引っかかった。
「筐さん! 怪我はありませんか!」
恭助と話している間にカリン達も一階フロアに降りてきていていた。そんな中、カリンだけが目に貯めた涙を振り撒きながら一目散に駆け寄ってきて俺の右腕を頻りに触ってくる。
「お、おい寄せよ。くすぐったいだろ。ほら、怪我なんてないよ」
「けど、さっきのアレは……」
カリンも恭助と同様に俺の腕に起こった異変を気にしてくれている。
「大丈夫だ、心配いらない。もうどこも痛くないし、この通り腕もなんともないだろ」
「……そうですか。それならいいんです。良かったぁ」
カリンの表情に笑顔が戻り、肩の力を抜いて安堵の息を吐いた。でもカリンのその笑顔は『作り笑顔』であることは明確だ。心の中ではまだ腕の事を心配しているに違いない。カリンの性格を考えれば一目瞭然だ。
あんまり皆を不安にさせたくはない――ブリッジ人間のこともあるし、今はひとまず落ち着いて、一団となって行動するほうが得策だろう。
「二人も済まなかったな。心配させて――」
佳奈と萌に目を合わせた時、二人はゲテモノも見ているかのような冷たい目になっていた。俺を警戒するように距離を置いて遠くから冷たい視線を向けてくる。
俺達の仲間意識に少しずつ亀裂が入り始めた。




