天に還る者
10 天に還る者
俺達は等々、最終目的地である東京キャンドルに辿り着いた。
見上げればそこに真っ白な巨塔が聳え立っている。光沢のある滑らかな外壁はまるで反射板のようになっていた。塔の天辺で煌々と光り続ける球体、その光を受けて、塔は視界を鈍らせるほどの輝きを放っていた。
俺は視線を上下左右に動かし、東京キャンドルの入口を探した。
けれど、どこを見てもそれらしき場所は見当たらない。塔の外壁には窓どころか、小さい隙間さえ空いていないのだ。
「皆、手分けして入口を探しましょう」
塔の左側面へ回り込んでいくローズが指で指示を送る。その指示に従うように、佳奈と萌が反対側の右側面へと回り込んでいく。
変わって、恭助とカリンはずっと俺の傍で立ち尽くしていた。
相変わらずカリンは思い詰めた表情で恭助をしきりに気にしている。恭助とカリンとの間に何があったのか未だわからないままだが、一つ確かなことがある。
恭助自身もカリンの視線に気づいているということだ。
これは恐らく、何らかの密約が二人の間で交わされている。
巨神を操っていた蛮人を探しに行った時、二人に何かがあったのは確かだ。一体何があったのか――。
すると、恭助が歩を進め、東京キャンドルの外壁に近づいた。
そして外壁を触ろうと、何気なく右手を伸ばした――
バチィイイ!
「くっ!」
恭助が外壁に触れた瞬間、まるで高圧電流が流れたかのようにその右手を弾いた。
「おい、恭助!」
俺はすぐに駆け寄り、恭助の手のひらを確認した。
手のひらの皮がピンク色に晴れ上がっている。けれど重症度の火傷ではない、すぐに手を引っ込めたおかげで大事には至らなかったようだ。
「入口を探すのは困難だな、いっそ穴を開けるしか入る方法はないかもしれない」
恭助がぼそりと呟くように言った。
論理的な思考を持っていたはずの恭助が珍しく力技で解決しようとしている。
「まだ他に方法があるかもしれない。壊すのは最後の手段に取っとこうぜ」
そうは言ったものの、この触れられない壁は難敵だ。
手の届く距離に目的地があるにも関わらず、手をこまねいてこうやって立っていることしかできないこの状況がなんとももどかしい。
俺は外壁すれすれの場所に立ち、東京キャンドルを真下から眺めた。
外壁を注視して見てみると、表面は電子基盤のような複雑な筋が無数に入っている。近未来的な構造をしている東京キャンドル、こんな摩訶不思議な塔が人間の手で創り出されたとは到底思えない。
徐々に視線を下へ向けていく――。
「ん、なんだ?」
俺の右手の位置から平行線上にある外壁の一部が、まるで水面を波打つ波紋のように揺れている。
右手を動かすと、その波紋は右手の動きについてくるように広がっていく。
外壁が右手に反応している。
蛮人の力に反応しているのか、それとも適合者だからか、理由はわからないが、試す価値はあるかもしれない。
俺は右手をゆっくり外壁に近づけた。
「おい、筐!」
恭助が俺の行動に驚き、一瞬声を上げたが、俺は右手を止めなかった。
右手の皮膚が完全に外壁に付いた――その時、外壁に変化が起こった。
外壁の表面に入っている無数の筋が虹色に輝き、激しく流れるように光を放出する。そして右手で触れていた部分の壁がうっすらと消えていった。
俺と恭助、そしてカリンもこの状況に驚き、只々沈黙して立ち尽くす。
外壁の各所が四角い枠に区切られ、それが一つずつ消滅していく。まるで3Dのポリゴンをクリックして消すかのように――。
やがて目の前の外壁に半楕円状の形をした入口が出現した。
「入口……できた……」
「……だな」
俺の素っ気ない言葉に対して、恭助も素っ気ない返事を返す。だがこれで無事東京キャンドルに入ることはできそうだ。
「皆、来てくれ。入口が見つかった」
恭助が皆を集結させるために大声を張り上げた。手分けして左右に散っていた佳奈と萌、そしてローズが駆け寄ってくる。
「凄いじゃない! 一体どうやって探し当てたの?」
ローズが目を見開けて、俺に事の発端を尋ねてきた。
「いえ、別に……ただ右手で触っただけですけど」
「へぇ~、なるほどね」
ローズは俺の右腕を見て、何やら意味深な言い方で事情を理解した。
そこで萌がぐいっと前へ出てきて、不思議そうに入口をじっと見つめた。
「おかしいな。ボクもこのへん触ったけど、何もなかったっての」
「萌、壁に触ったのか!」
俺は強引に萌の手を掴み、手のひらを上にして注目した。
――火傷の痕はどこにもなかった。更にもう片方の手のひらも確認するが、どこにもそんな形跡はない。
「ちょっと、一体何なの?」
佳奈が俺の不可解な行動に怪訝を感じ、身を乗り出してきた。その佳奈の両手もちらっと見てみたが、萌と同様に火傷は負っていなかった。
「いや……何でもないならいいんだ。ゴメン」
そう言った途端、佳奈と萌はぽかんとした表情で俺を見た。二人が不審に思うのも無理はない、あの状況を見ていたのは俺とカリン、そして当事者である恭助自身だけなのだから。
俺はそっと恭助の様子を伺うように顔を横に向けた。
恭助はポケットに手を入れ、火傷の痕を皆に見せないようにしている。それにこれだけ俺が騒ぎ立てているのにも関わらず、俺の方には目もくれず、ただじっと東京キャンドルの入口を見据えている。
そしてカリンはというと、額に汗を滲ませて、ずっと黙ったまま視線を右往左往させている。
胸間にふつふつと熱い感情が込み上げてくる。
――もう我慢の限界だ。
俺は何もかも白状させるため、恭助の名を口に出そうとした――だが、その発声とほぼ同時に――
「よーし、それじゃ皆、ちゃっちゃと目的を果たしちゃいましょう。君達も早く帰りたいでしょ」
まるで狙いすましたかのように声を重ねてきたローズは、張り切った様子で入口の中へ歩を進めていった。
その言葉を受けて、佳奈と萌は「やっと帰れる」という興奮に胸を高鳴らせ、弾む気持ちを抑えきれない様子でローズの後に続いて入口に入った。
次に歩を進めた恭助と一瞬だけ目が合った。
だが何も言うことなく、恭助は前方に向き直り、入口の中へと消えていった。
俺はそんな恭助をただ後ろから黙って見つめることしかできなかった。
恭助はまるで透明な牢固のバリアを纏っているようだ。周囲からの音を完全に拒絶し、一匹狼のように心の中に閉じこもり、何かを成そうと一人孤独に戦っている。
孤独――それは俺がこの世界に来て初めて感じた恐怖でもある。
それを恭助は今、一人で抱え込んでいる。
今なら手を取り合える親しい仲間がいる。それに元の世界に帰れる希望がやっと見えてきたのだ。恭助がそれでも孤独感を感じているのなら俺はこの上なく悲しい。
「……筐……さん」
「ん?」
背後から消えそうなくらい小さな声でカリンが俺を呼んだ。
「あの……実は……来栖さんの事で――」
はっとしたその時――。
『何をしているの二人共、早くいらっしゃい、置いて行くわよ』
カリンが恭助の名を口に出した瞬間、ローズが入口の中から俺達二人を呼び立てた。その声に驚いたのか、カリンはまたしても固く口を閉ざしてしまった。
「カリン……恭助が何だって?」
「……いえ、何でも……ないです」
カリンは唇の裏をぐっと噛み締め、悲しそうでもあり、苦しそうでもある表情をした。そしてまた沈黙が流れる。
不穏な空気が更に霧を濃くした感じだ。もはや何も言っても聞き出すことはできないだろうと俺は高を括った。
「行こう、皆が待ってる」
「えっ……あ、はい……」
俺の歩幅に合わせて、カリンが後ろから付いてくる。希望への入口を潜ろうとしているのにも関わらず、なぜか心は晴れなかった。
東京キャンドルの内部構造は、至ってシンプルなものだった。
しかしシンプルと言っても、物が全く無いという意味で、その内部の光景自体は目を疑うほど美しいものだった。
円柱状に張り巡らされた内壁は外壁以上の光沢を成し、まるで鏡のように光を反射している。一面に広がる真っ白な世界、心が浄化されていくと同時に、魂までもが身体から抜け出てしまうように思えた。
周囲に目を散らしていると、塔の上層部へ上るための階段を発見した。
内壁に沿うように金色の螺旋階段が備え付けてある。だがその階段には支柱となる鉄骨や留め具が一切存在しない。宙に固定されている状態で螺旋階段は天高く渦を巻いている。
俺は恐る恐る螺旋階段の一段目に足を置いた。
足場の板は不思議なくらい頑丈にできている。不自然な取り付け方をしているが、ビクともしない安定感と強靭さを足の感触で理解できた。
俺達は一列縦隊となって螺旋階段を上っていく。
そこで気付いた――真横にある内壁がうっすらと外の景色を透かせていることに。外側からは中の様子がわからなかったが、内側からは外の景色が見えるようになっている。
分厚い壁であるはずなのに、まるでマジックミラーのようになっている。
東京キャンドルは想像以上に神がかった構造をしているようだ。
螺旋階段を上り始めてすぐ、ローズが自身の腰に巻き付けていたベルトからキューブ型をした黒塗りの金属を一つ外し、それを内壁にぐっと押し当てた。
すると、その金属かと思われた物質はまるでガムのように内壁にくっ付いた。キューブ型をしていた金属が円形状となり、ベタリと内壁に固着した。
「それは?」
「リモコン式の粘着爆弾よ。これをあと8つ壁に貼り付けていくの。あ、威力は保証するわ、一つで高層ビルを破壊できるぐらいの威力はあるから」
「……」
威力はさておき――。
ローズは無事に俺達が元の世界に帰った時、この東京キャンドルを木っ端微塵に破壊する計画を持っている。
この世界をこれ以上醜いものにしないために、そして生き残る数少ない人間のために、ローズは計画を遂行しようとしている。
着々と塔の上層部へ上り詰めていく俺達、視界に映る下界の様子がだんだんその姿を小さくしていく。見上げることしかできなかったビル街は今や傾斜角度が付き、屋上を望むことができる。
それにこの高さからだと、大通りに横たわっている巨神の全体像がよく見える。
まるでジオラマの上に無造作に置かれた人形のようだ。
巨神は死んだ――殺すつもりは微塵もなかった。蛮人が人間の進化した種族なら、それはもはや人間と同じという事だ。
サラリーマンの男性が蛮人に変異した時、俺は躊躇なくその蛮人を殺した。仲間の危機を救うためだった事と、蛮人のことを全く知らなかった事がそれを招いた。
人間が人間を殺す――俺の右腕はそんな野蛮で非情な行為をやっていたのだ。
俺達からすれば、ここはバーチャルリアリティの世界なのかもしれない。だが、それで全てが許されるわけではない。
罪と罰、人間界に必ずある法がこの世界には存在しない。何をやろうが許される無法な社会、それがこの世界の条理。
自分が許せない、そして怖かった。
俺の行為を責める人間はここにはいない。それが途方もなく怖い。
罪人であるはずの俺はここではヒーローなのだ。まったくもって滑稽な話である。
悠々と先頭を進むローズもまた然りだ。
目的のためには手段を選ばず、無抵抗の蛮人さえも平気で殺してみせた。
平然とした表情。
落ち着きを払い、何事にも楽観的に考えるその態度。
そして蛮人を完全に敵と定め、生き物としては絶対見ない冷酷なところがある。
頼りがいがあったローズの姿が、今では悍ましげに見える。
先導を譲っているのもそれを感じているからかもしれない。ローズの前に出る事を無意識に拒んでいる俺がいる。
後ろから撃たれるかもしれない――そんな馬鹿げたことを想像してしまう。
俺は顔を左右に振って、妄想を消し飛ばした。
命の恩人であるローズに懸念を抱くなんて、筋違いにも程がある。
ローズは俺達を助けるためにずっと行動を共にしてくれている。ここまで辿り着くのにもローズの協力が不可欠だったのは確かだ。
俺は階段を上る速度を速め、ローズを後ろから抜き去った。
「ふふ、そんなに慌てなくても装置は逃げないわよ。まあ気持ちはわかるけどね」
急いで階段を駆け上がる俺を見て、ローズはクスクスと笑った。
信用できる――俺はそう確信した。
気付くと、俺達は大分高い位置まで上ってきたようだ。
内壁越しから見る外の景色が、だんだん雲に隠れてきた。高さで言うと、東京タワーや東京スカイツリーの高さを優に超えているように見える。
ずっと階段を上り続けていたはずなのに、全然息が切れることなく、そして身体のどの部分にも負担が掛からなかった。
無我夢中だったことを除けば、この現象は余りにも不可思議だ。
東京キャンドルの中では身体能力が一時的に向上するとしか考えられない。
身体に害をなさない影響力ならいつでもこの身を捧げてもいいが、身体が変異するなどという悪影響はもう願い下げである。
俺は難無く螺旋階段を上りきった。
しかし、目の前には何の変哲もない真っ白な壁があるだけで、ドアらしき入口はどこにも見当たらなかった。
恐らくこの天井の裏に光り輝く球体がある。そしてこの壁の向こうには、その球体を制御するコントロール室があるはずだ。
そこに俺達の追い求めた通信装置が置いてある。その装置を使って元の世界の自分自身に電話をかける事ができれば、俺達は無事帰ることができる。
壁一枚の隔たりが、俺達の行先を閉ざす。目的の場所はもう後一歩にまで迫っているのに、なんとも言い難い苛立ちが込み上げてくる。
「ふーん、行き止まりかぁ」
ローズが俺の傍にやって来て、壁の隅から隅までを確認した。
そして俺の方に振り返り、ローズは何を思ったか手を合掌してニコッと微笑んだ。
「さっき入口を探し出したのは筐君だったよね。どう、探せそう?」
「いや、そう言われても……」
探すと言っても、ただ壁に触っただけだ。けれど、試す価値はある。
俺は右手を伸ばし、ゆっくりと壁に触った。
ピキッ
真っ白な壁に一筋のひびが生じた。そのひびは徐々に壁全体に拡大し、やがてガラスの窓が割れるかのように壁の破片が辺りに飛び散った。
降り注ぐ破片はエメラルド色の粒子となって消滅する。
薄い壁から出てきたのは如何にもという感じの扉だった。まるで城壁の門を潜るために備え付けられた鉄の扉のようだ。
俺の後ろから仲間達が一斉に駆け寄ってきた。
緊張が走る――扉の向こうに俺達の世界があると思うと、興奮して落ち着いていられなくなる。
すると、突然ローズが背を向けた。そして来た道をゆっくり戻っていく。
「私が案内できるのはここまで、後は君達でなんとかしなさい」
「ローズさん……」
ピタッと立ち止まるローズ。そして身体をこちらに向け、俺達に笑顔を見せた。
「君達に出会えて本当に良かった。ここまで来られたのも君達のおかげよ、ありがとう。短い間だったけど、楽しかったわ。現実世界に帰っても元気でね」
そう言って、ローズはまた背を向けて行ってしまう。
「ローズさんも来なよ。こんなところに残ることないよ!」
佳奈が必死にローズを止めようと声を掛ける。
しかしローズは足を止めることなく、螺旋階段の降り口に差し掛かる。
「それは無理よ。私はこの世界の人間だからね。現実を受け入れて、これからも精一杯生きていかなきゃならない。それに、こんなところでも私には帰らなければならない大切な場所があるの。BSCっていう家族のもとにね」
背を向けたまま、手を振るローズ。その勇ましい姿はまるで勇者のようだった。
ローズは螺旋階段を悠々と下りていく。その際「爆弾は私が階段を下りきったところで起爆させる」と言い残した。
最後に声高らかに「じゃあね」とローズが言った。
俺はその後に続いて「ありがとうございました」と感謝の気持ちを込めて言い放った。
ローズの姿が完全に螺旋階段から消えた。下りていく際に聞こえていたブーツのカツカツ音がなくなり、辺りがシーンと静まり返る。
「くうっ、ううっ、うっうっ」
ふと気付くと、誰かの啜り泣く声が聞こえる。
静かになったと思いきや、隣で萌が敬礼しながら、滝のような涙を流していた。
俺は萌の肩に軽く手を置き、どうにかその涙を拭わせた。
「さあ、俺達もいこう。もうゴールは目の前だ」
俺の言った言葉が引き金となり、皆が目の前の扉に集中する。
ここを開ければ、ようやく願っていた場所へと行ける。
俺達は揃って扉を開けるため、一斉に腕を伸ばし、扉に手を押し当てた。
皆の表情を確認すると、いつでも大丈夫と言わんばかりの堂々とした表情をしていた。俺が頷くと、皆もその後に続いて頷いてくれる。
扉に押し当てた手に力を込める。
金属の擦れる音と共に、ゆっくりと扉が開かれていく。
(……やっと、やっと帰れるんだ)
開け放たれていく扉の隙間から、周囲の白さに負けないぐらいの白光が放射される。余りにも眩い光に目を開けていられない。グッと目を閉じ、完全に扉が開かれるまで手に力を込め続けた。
扉に押し当てていた手がふわっと空を切る――どうやら扉が開いたようだ。
うっすらと目を開け、扉の向こうを凝視する。
ドーム状になっている広々とした空間が視界に入る。その空間を形作る内壁はこちら側とは比べ物にならないくらいの光沢を得ている。
空間中を真っ白に染め上げている根源は中央にあった。
まるで大樹のような形状をした装置が空間の中央に広々と設置されている。
装置の上半分は何本にも枝分かれする巨大なシリンダーで構成されている。シリンダーは天井を貫くように伸びていて、綿胞子のような光の粒子が無数にシリンダーの中を浮遊し、天井へと向かってゆらゆらと流れ込んでいく。
視線を落とし、装置の下半分を確認する。
装置の表面は内部の機械構造が剥き出しになっている。そして、その根元には揺りかごのような形をした5つのカプセルが装置を囲むようにセットされていた。
「あ、あれか……」
恐らくあのカプセルが通信装置だろう。幸いにもカプセルの数は人数分ある。
俺はだだっ広い空間の中へ足を踏み入れた。
一歩、また一歩と装置に近づいていく。『元の世界に帰る』という希望がもう手の届く場所に――。
『筐ぃ、伏せろおおおおぉぉぉぉぉ!』
「――っ!」
突然、後方にいた恭助が空間中に轟くほどの大声を張り上げ、俺を後ろから押し倒した。
うつ伏せの状態になった俺は顔を横へ向け、上に乗っかる恭助を目尻で捉えた。
「おい、恭……っ!」
恭助の名を呼ぶ瞬間、自分の頬に水滴が落ちるような感触を覚えた。片手で頬を拭い、手に付着したそれを目で確認する。
血だ、それも真っ黒な血。
蛮人が負傷した時に流出する黒い体液と同じものだ。だが、それはあくまで蛮人のものであって、人間の血液ではない。俺の上に乗っかっている人物は紛れもなく恭助だ。
「い、いやぁあああああ!」
カリンと佳奈が共に悲鳴を上げる。
その理由は恭助を見れば明らかだった。恭助は左手で右肩の部分をぐっと押さえ込んでいる。そして、その右肩には――。
腕がなくなっていた。
恭助は顔を歪ませ、必死に痛みを堪えている。身体を痙攣させ、脂汗を額に滲ませながら呼吸を荒げていた。
「恭助、おい恭助! しっかりしろ、一体何があったんだ!」
俺はうつ伏せの状態のまま声を張り上げた。恭助は俺の声に反応し、うっすら目を開けて後ろへ視線を向けた。
俺もその視線の先を辿る――入口の扉の前に誰かが立っている。
「……な、なぜ、どうして……あなたが……」
視界の中に映る人物は馬鹿でかい銃の銃口をこちらに向けながら、不敵な笑みを浮かべている。
「なぜ恭助を撃った! ローズさん!」
その人物は間違いなくローズだった。
扉の前に悠然と立つローズがにんまりと笑う。そして少しずつ声量を上げるかのように笑い声を高めていった。
「ふふふ、筐君は頭が悪いみたいね。なぜ撃ったって? そりゃ殺すために決まっているじゃない」
「っ!」
信じられない言葉が耳に入る。今まで共に行動し、命まで救ってくれた恩人からの言葉とは到底思えない。
「嘘だっての、ローズ隊長がこんなこと、信じられないっての」
萌が目に涙を貯めて言い放った。それを聞いたローズはまるでゴミくずを見るかのような冷めた目で萌を睨んだ。
「クソの役にも立たないただの人間が知ったような口を聞くな! まずお前から殺してやろうか?」
「ひいぃ」
ローズの殺気に押され、萌は腰を抜かした。
何事にも楽観的で、常に笑顔を振り撒いていたローズの姿はすっかり消えてしまっている。それに、今ローズが言った『ただの人間』という言葉に何かとてつもない悪意を感じた。
「ただの人間って、ローズさんも人間でしょ! なぜこんな酷いことを――」
「――蛮人だからだ」
「え?」
俺の上に被さっていた恭助がかすれ声でそう言った。そしてゆっくり身体を起こし、恭助はローズを敵意剥き出しの目で睨み付けた。
「こいつは人間じゃない、蛮人だ……しかも、こいつはこれまでに出会ったどの蛮人よりも下劣で、悪質なクズ野郎だ!」
ローズは恭助の言葉に怒ることなく、寂しそうに表情を曇らせた。
「そんなぁ、酷いわ恭助君。私が蛮人だなんて、嘘でも傷ついちゃうよ~」
鼻をすすらせ、目に浮かんだ涙の粒を指先で拭き取るローズ。
そんな仕草に動じることなく、恭助はぐっと目を吊り上げ、険しい表情を見せた。
「BSCの仲間……今何をしている!」
「え? 彼らは本部にいるわよ。ピースのセキュリティー解除のバックアップがあったお陰で地下道への入口が開いたんだもの。他の隊員達も――」
「皆殺しにしたんだろ? お前が、その手で」
「なんだって!」
俺は恭助の発言に愕然とした。しかし、一体いつ恭助はその事実を知ったというのだろうか。そんな素振りを一度もローズは見せていなかったはずだ。
すると、恭助は右肩から左手を離し、その真っ黒な血で汚れた左手でローズの赤い髪を指差した。
「人間の血液は時間が経つと黒く変色する。オレ達と一緒に行動している最中、左のこめかみ部分の髪がだんだん黒く変わっていったんだよ」
恭助ははっきりとそう宣言した。
ローズは左側の髪をかき上げ、こめかみ部分を露わにした。
「あっ!」
離れた場所でもよくわかる。ローズのこめかみ部分の髪色がはっきりと黒く変色している。髪を下ろしていた状態では全然気付かなかった盲点を恭助はいち早く察知し、疑惑を抱いたのだ。
「さすがお医者さんってところかしらね。でも、それはまた別の話でしょ? 私が蛮人だという証明にはならないわ」
ニヤリと笑って恭助を見下すローズ。自信に満ちた表情で勝ち誇ったように胸を張る。人殺しを否定していないところを見ると、やはり恭助が正しいのか。
恭助は呼吸を整え、冷静な態度で口を開いた。
「蛮人は適合者の力でなければ倒せない……そうだったな?」
「……」
ローズは表情を一変させ口篭った。恭助は一呼吸おき、話を再開する。
「後、お前はこんな事を言っていたよな。蛮人と蛮人同士の共食いとかなんとか。あれについてもっと詳しく教えてくれないか?」
「くっ…………」
徐々に周囲の空気がぴりぴりとした雰囲気に包まれていく。
静まり返る中、恭助は最後に大声を張り上げる。
「あのでかい蛮人の頭を吹っ飛ばしたのはどこの誰だって聞いてんだよ蛮人!」
俺はハッとして、息を飲んだ。確かにローズは適合者ではない。適合者だとすれば、必ず身体のどこかに変化が起こるはず、だがローズはプラズマ砲の力だけで蛮人を倒している。そこに矛盾が生じる。
一瞬にして緊張が走り、ローズの次の行動に身構える。
「クッ……クックックッ……」
笑いを堪えるようにローズの肩が小刻みに震える。プラズマ砲をだらりとさせ、左手を顔の方へ持っていくと、それを両目の上に被せて天を仰いだ。
「クフッ! クハァ! ハァハハハハハ!」
溜めに溜めていた笑いを一気に開放する。その姿はまるで狂気に満ちた悪魔のようだ。
「嘘……でしょ。ローズさんが……」
カリンがゆっくり後退する。ショックからか目には大量の涙が溜まっている。
「嘘じゃないわよカリンちゃん。私は蛮人なのよ。どう? 驚いたぁ、キャハハハ!」
おどけたように舌を出し、馬鹿にしたような口振りでカリンを脅かす。
俺の片目が自然にひくひくと痙攣する。
そこで腰を抜かしていた萌がゆっくりとした動作で起き上がり、口を開いた。
「でもどうして……カリたんなら蛮人がいたらすぐ感知できるんじゃあ」
「っ! そうだ……なぜ感知能力が出ないんだ」
俺はカリンの方へ視線を向ける。そこにいるカリンは恐怖に怯えているだけで、赤い瞳にもなっていない通常の状態だった。
すると、ローズは軍服の上に着用したボディーアーマーを外し、ぼとりと地面に落とした。そして軍服のボタンを上から順に一つ、二つと外していく。
「おぉおお!」
萌が食い入るようにその光景を見つめる。
ローズが三つ目のボタンを外した時、露出した肌からどんでもないものが露わになった。
心臓だった――ドクドクと鼓動を打ち鳴らしながら、生々しい心臓が胸の間に収まっている。
そしてローズは俺に視線を合わせ、不気味に笑ってみせた。
「これは見せかけの心臓よ。蛮人はね元々心臓なんていう臓器は存在しないのよ。これは人間を装う時に付けた言わば飾り、だから――」
ローズは左手をピンッと張り、手刀の形を作った。そして自らの心臓目掛けて、一気に手刀を突き刺した。
「なっ!」
俺は言葉を失った。カリンと佳奈は目を塞ぎ、声高らかに絶叫する。
グチュグチュと手を動かし、心臓の細胞組織を切断していく。しかし、その心臓からは全く血が流れ出してこない。
「ウプッ、オウェエエ!」
萌に至っては嘔吐していた。さっきの目を輝かせていた姿は見る影もない。
ローズは手刀を心臓から抜き取ると、満足そうな笑みをこぼす。
「こんなにグチャグチャになっても平気なのよ。凄いでしょ蛮人っていうのも」
まるで痛みを感じていないようだ。見せかけの心臓、それにどんな意味が、そう思った時、カリンの様子が急変した。
「うっ……うう……うあああぁぁぁぁ」
ガクンと身体を落とし、両腕を組みようにして自身の身体を抱き、打ち震えるようにガタガタと肩を震わせた。
今までにないカリンの苦しみように俺は咄嗟に動いた。即座にカリンのもとへ駆け寄り、姿勢を落としてカリンの顔を覗き込む。
真っ赤になった瞳、感知能力が発動している。
ローズの仮の心臓が止まったことがトリガーとなり、カリンの適合者としての能力が解放された。
「な、なに……いろんなものが混ざって……気持ち悪い……いやっ、いや! 見たくない!」
首を激しく振るカリン。一体何を感知しているのか、今までとは全く違うカリンの言動に俺は動揺した。
「くっ……来栖……さん」
「っ! カリン……まさか、意識があるのか!」
俯いているカリンが囁く声で恭助の名を口に出した。感知能力を使っている最中に特定の人物の名を口に出したのは初めてのことだ。
カリンは頭を上げ、苦しそうな表情で恭助を見つめる。その瞳はまだ赤いままで、じっと恭助を捉えている。いつもならすぐ正常に戻る瞳の色が、今回はかなり
長い間永続している。
恭助がこちらを見て、右肩からの激痛に堪えながら、何か納得したように頷いた。
「……そろそろオレも限界だ。さっきから右肩辺りが熱を帯びているみたいにかっかするんだ……青龍寺さん……もう……隠さなくてもいい、オレはもう……」
「で、でも……それは――」
震えるカリンの声が虚しく空間に響き渡る。
そして恭助は力尽きるように床にガクッと身体を落とした。その際に恭助の革ジャンのポケットから銘柄の入ったガラス瓶がこぼれ落ちた。
恭助の足元に広がった黒い血溜りの中に落ちたガラス瓶は、俺の方へ向かって黒い線を引きながら転がってくる。
俺のすぐ目の前でガラス瓶が停止する。
恐る恐る手に取り、黒い血で隠れた銘柄部分を指で擦る。すると中から《パキシル》と記された文字が出てきた。半透明の瓶の中にはうっすらと少量の薬剤が見える。どうやら内服薬のようだ。
「……色々試してみたが、効き目があったのはその薬剤だけだった。医者を目指す者としてこれほど愚かな行為はないよ。過度な服用で劇薬に変わる事はわかっていたのに……止められなかった」
恭助は消え入りそうな声で自分の過ちを告げた。
俺達の知らないところで、恭助は薬剤を服用していた。それもかなり大量に――。
俺の脳裏に不吉な思想が浮かぶ。
失った右腕から滴る黒い血液――
過度な薬の服用――
カリンが頑なに口に出さない恭助の秘密――
これらを重ね合わせて出る答えは一つしかない。
「恭助……お前まさか……適合者、だったのか!」
俺はゆっくり立ち上がり、床を擦るようにして恭助の方へ歩を進めた。
近づくにつれ、視界が徐々に潤んでいく。恭助の姿をまるで水滴の付いた窓ガラス越しから見ているようだ。
「そうかぁ、お前も適合者だったんだな。なんだよ、もっと早く言ってくれれば良かったのに……俺達仲間じゃないか、何でも相談してくれよ、まったくお前は――」
「もういい筐……もういいんだ」
恭助の呟いた言葉が耳に入り、俺はピタッと立ち止まった。
一雫の涙が頬を伝う――そうであっていてほしいという願いがバラバラと音を立てて崩れ去っていく。
冷静に考えれば、恭助は適合者ではない。
寧ろ、不適合者である要素の方が強い。
目を背けていたのは事実だ。シャンデリアの下敷きになった蛮人から受けた切傷、あの傷から全てが始まっていたのだ。
あれはただ傷を付けられただけではなかったのだ。切られた瞬間に蛮人の体液が体内に流れ込み、着実に恭助の身体を蝕んでいった。その結果――。
恭助は不適合者、蛮人となったのだ。
他にも手がかりはあった。
蛮人は適合者か蛮人同士でなければ倒せない。それなのに、恭助は巨神を操っていた蛮人を倒している――矛盾の中に真実があったのだ。
気付かない振りをしていた。
頼りがいがあり、何でも真剣に言葉をぶつけ合えた仲間の一人が蛮人だったという事実に、俺はどうしようもなく胸が苦しくなり、自分に嘘を付いてきたのだ。
「……男同士の友情ごっこはもう終わりかしら? どうせ皆ここで死んじゃうんだから、今更何に悩むことがあるのよ。人間ってつくづくお人好しなのね」
俺の涙を目にしたローズが、嘲笑うかのように言葉を吐き捨てた。
「ぐぅっ!」
刺すような視線をローズに向ける。グッと奥歯を噛み締めて感情を押し殺す。そうでもしないと、俺は我を忘れてローズへ飛び掛ってしまうかもしれない。
ローズは俺達を裏切った。
それだけでは飽き足らず、自分の家族だと言っていたBSCの仲間さえも手にかけた。全てが嘘だった、私達に協力してほしいなどと言っておきながら、内心では協力する気などまるでなく、俺達を影で馬鹿にしていたのだ。
許せない――許せるわけがない。
「お前の目的はなんだ! 東京キャンドルを破壊してこの世界を平穏で豊かな世界に変えるんじゃなかったのか!」
ローズに向かって声を荒げる。だがローズは――
「プッ、笑わせないでよ。まあ確かにこの塔は破壊する気ではあったけどね。その前にやらなきゃならない大事な任務があるのよ」
そう言って、プラズマ砲の銃口を俺に向けた。そして見下したような目付きで、ローズはゆっくり口を開いた。
「身体を差し出しなさい」
「なにっ!」
ローズの言っている意味がわからなかった。身体を差し出すとは一体どういうことなのか。
すると、ローズは銃口の先を俺から佳奈へと移した。
「ねえ佳奈ちゃん、あなた私に言ってくれたわよね。ローズさんも来なよ、こんなところに残ることないよって……私に言ったわよね?」
重圧のある意味深な言葉を呟きながら佳奈のいる方へ歩み寄る。
「い、いやっ、来ないで……来ないでよぉ!」
佳奈はローズの殺意からくる威圧感を肌で感じ取り、ジリジリと後ろへ後退する。
「私に携帯電話を渡しなさい。素直に言った通りにすれば、あなただけ生かしておいてあげるわ」
「け、携帯……な、なんで……」
唐突な言葉に困惑する佳奈。
ローズはピタッと足を止め、通信装置のカプセルに視線を向ける。
「カプセルの中に入るだけじゃ、どうやら機能しないみたいなのよ。中に入って携帯電話の電波を飛ばすことで通信装置は稼働する……理解したかしら?」
「……っ!」
そういうことか。
ローズの言った『身体を差し出せ』とは、俺達の世界にあるオリジナルの身体を指していたのだ。【身体を乗っ取る事】それこそがローズの真の目的。
生かしておいてあげるなんて口から出任せだ。
自分がカプセルに入った瞬間、東京キャンドルに仕掛けた爆弾を起爆させるのは目に見えている。最初から俺達を嵌める気だったのだ。東京キャンドルごと俺達を一網打尽にするために――。
「さあ佳奈ちゃん……早く渡しなさい」
「うっ、ううっ……」
プラズマ砲の銃口がゆっくり佳奈の視点に合わされる。身動きのできない佳奈を尻目に、ローズはトリガーに指をかけ、少しずつ押し込んでいく――
「やめろぉおおおおお!」
突然、萌が大声を上げてローズの背中に飛び付いた。ガッチリ両腕でローズの身体を拘束する。ローズは何度も振り払おうと身体を激しく揺さぶるが、決して萌は両腕を離さない。
忌々しく思ったローズは肘打ちの構えを取り、萌の頭目掛けて振り下ろそうとした。
「いい加減に……っ! はぁあん!」
すると、ローズが急におかしな声を出した。頬を赤らめて、下唇をグッと噛み締めている。よく見ると、萌がデレ顔でローズの胸を揉みしだいていた。
「蛮人なのに結構いい声が出ますね隊長。ボク、なんだか興奮しちゃうっての、ムフフ」
「き、貴様ぁ、この手をどけ……きゃあん!」
ローズは萌にやられたい放題にされ、身体に力が入らないようだ。女体であったことが裏目に出たということだが、こんなことをやろうとする人間は萌をおいて他にはいない。
だが、これはこれで又とないチャンスだ。
俺は右腕に全神経を集中させる。
キュイィ―――――――ン!
「ぐあっ……ううっ、くぅ……ううっ」
これまでにない甲高い耳鳴りが脳を振動させる。発信源である東京キャンドルの中では電磁波の影響がこれまでより数倍増している。
しかし、右腕の形状変化はいつも通り成功していた。この状況で最も効果を成す槍の形状に右腕が変化している。
俺は顔を左右に振り、電磁波からきた頭痛を振り払った。そして勢いよくローズの所へ疾走した。
「うらぁ!」
渾身の力で突き出した槍の先端はローズの持つプラズマ砲の側部にめり込んだ。
「な、なに!」
持ち手に力がこもっていなかったせいで、プラズマ砲は簡単にローズの手から離れ、手の届かない場所の床に落ちた。
それを確認した萌は手を止め、後方へ素早く逃げていった。
俺は槍の形状を即座に剣へと換装させ、ローズの首元にかざした。
一発逆転――武器を失ったローズにはもう脅威は存在ない。生身の人間が繰り出せる攻撃の種類は限られている。蹴る、殴る、頭突き程度の攻撃なら俺は間違いなく勝てる。
「佳奈、萌! お前達はカリンを連れて先にカプセルの中に入れ! 俺も後で恭助と一緒に行く、だから早く!」
俺の声を聞いた二人は静かに頷き、カリンのもとへと駆けていく。
ローズが爆弾の起爆スイッチを押す前に少しでも時間を稼いで、安全にカリン達を元の世界に帰還させなければならない。
俺はローズの微妙な変化を逃さないために、目に神経を集中させて身体全体を注視した。
「……こ……ろす……」
すると、ローズが口元でぼそぼそと小声を漏らした。顔を俯かせている状態で表情が読み取れない。徐々に呟いていた声がはっきりとした声に変わっていく――。
「……ころす……ころす……殺す殺す……殺す殺す殺す殺す――ぶっ殺すぞおおおお貴様らぁ!」
「っ!」
ローズの口調が一変した。さっきまでの余裕のある姿とはまるで別人だ。内に秘めていた殺意を一気に外に放出したような修羅の姿。これがローズという蛮人の本当の人格なのかもしれない。
「逃げられると思っているの……バーカァ、逃がすわけないじゃない!」
そう言ってローズは左腕をカリン達の方へ伸ばした。すると左腕に急激な変化が起こった。腕の筋肉が膨張し、血管が生き物のように波打つ、そして段階的に腕の形がグロテスクに変異していく――この能力はまさか。
ローズの左腕の形状変化が止まった――俺の時とは違い、接近戦用の武器ではない。風変わりではあるが、これはどう見ても遠距離型武器である大砲(キャノン砲)の類だ。
銃口の先に青白い光の粒子がチャージされていく。それは次第に膨れ上がり、粒子が飛び出る寸前のところで――
「邪魔よ!」
「なっ、ぐふぁ!」
不意を突かれ、俺の腹にローズの蹴りがノーガードで入る。キャノン砲に気を取られていたせいで、咄嗟に防ぐことができなかった。俺は堪らず悶絶する――。
「死ねぇえええええ!」
ローズの悪意のこもった怒声と共に、キャノン砲にチャージされた粒子が一気に撃ち出された。
一直線にカリン達の方へ飛んでいく極太のレーザー光線――声を出そうと腹に力を入れようとするが、蹴られたダメージがまだ抜けず、うまく声が出せない。
すると突然、目では殆ど追いきれないほどのスピードで何か黒い影が横切った。
その影は推定【0,2秒】くらいでカリン達のところに到達し、皆を巻き込んでそのまま前方に突き飛ばした。
レーザーは目標を失い、真っ直ぐに前方にある通信装置のカプセルへと向う――。
そして放たれたレーザーはカプセルに直撃――撃ち抜かれたカプセルの穴から白煙が立ち込める。
ローズは目を見開き、不気味に高笑いを始めた。
「クァハハハハ! はずれちゃったぁ~。でもこれで確実に一人……元の世界には帰れなくなっちゃったわね。ざーんねんでしたぁ~、キャハハハハハハハハ!」
「なっ……なに! そんな……」
カプセルが一つ破壊されたことによって、一人が確実に帰れなくなる。その意味は恐らくカプセルの使用は一度っきりということ。残るカプセルは4つ、5人いる俺達の中の誰かがここに残ることになる。
「でも驚いたわねぇ、まさか君がそんな蛮人になるとは思わなかったわよ。さしずめ《再生型》といったところかしらねぇ……蛮人になった気分はどう? 恭助君」
「恭助だって……っ!」
すぐ傍にいたはずの恭助の姿がない。黒い血溜りができた場所からカリン達のいる場所までの床に点々と黒い血のシミが続いている。
血痕を辿るようにゆっくり視線の先を移動させる――その先にいた恭助の姿が目に焼き付いた。その姿は――もう――人間ではなかった。
「グルゥウウウウウウウウウ!」
カリン、佳奈、萌が床に倒れ込む中、恭助だけはその場に立ち、血走った目でローズを睨みつけ、まるで野生のオオカミのような唸り声を上げている。
それだけではない――失ったはずの右腕が生え変わり、その腕が異様な形状になっていた。
近接武器でも、遠距離武器でもないそれはまるで悪魔の腕そのものだった。筋肉は破裂する寸前にまで腫れ上がり、骨が皮膚を突き抜けている。
「恭助……恭助ぇえええ!」
「フゥウウウ、ウウウウウウゥ!」
友の名を叫んでも、返ってくる言葉はない。
恭助は呼吸を荒げながら一心不乱にローズの姿を見つめている。周囲からの物音を全て遮断し、目の前の獲物に全神経を集中しているようだ。
「グァアアアアアアアア!」
空間を震撼させるほどの咆哮が轟く――その瞬間、恭助がローズに向かって激しい喚き声を上げながら猛進した。
「ふんっ、死に損ないの《半端者》が! 不適合者が完全たる蛮人の私に勝てるとでも思ってんのかクソがぁ!」
ローズは不敵に左腕のキャノン砲を前へ突き出した。
「やめろぉおおおお」
俺の声は虚しく空間に響き渡り、レーザーは瞬時に撃ち出された。
恭助がレーザーを防ぐため、右手を前方に広げた。手の中で包み込むようにレーザーを受け止める。しかし明らかに圧倒されているのがわかる。恭助の手の皮が徐々にメリメリと剥がされていく。
やがて、ブチャッという音と共に黒い血飛沫が空中に舞った。
――レーザーが右手の中で暴発したのだ。その結果、恭助の右腕は複雑に千切れ落ち、見るも無残な形状となった。
前方に勢いよく倒れ込む恭助。声を詰まらせ、必死に痛みを堪えてもがき苦しんでいる。
「テメェ、よくも恭助に……う、うぁあああああああ!」
絶叫し、右腕の剣をローズに向かって振り回した。
「なに、なに、怒ったの? 別にいいじゃんコイツ蛮人になったんだし、もう仲間でも何でもないでしょ?」
振り回す剣を紙一重でかわされる。その時のローズの顔は如何にも人を馬鹿にした表情をしていた。俺は狂気に支配されたように勝手に手足が動いた。
「うらぁあああ! だらぁああああ! うぁあああああ!」
我武者羅に振り回す剣は尽くローズに避けられて空を斬る。俺は咄嗟に右腕に意識を集中させ、形状変化を試みた。
剣を槍へと換装させ、無数の雨を降らせるが如く突きを放った――身体をうまく捩り、まるで予測するかのように回避するローズ。
まだまだこれで終わりじゃない――。
次に槍をハンマーへと換装させ、横から全力で振り抜いた――。
ガチッ
ローズは左腕のキャノン砲でハンマーを受け止めた。一番の攻撃力を誇るハンマーが、こうもあっさりと受け止められると穏やかではない。俺の頬には既に冷や汗がこぼれ落ちていた。
「私に能力を見せすぎたのが君の敗因よ。残念だったわね」
「……けど、アンタのキャノン砲もこの状態じゃ使えない。殴り合いなら俺の方に分があるぞ」
今ならキャノン砲はハンマーを支えるので精一杯のはず、狙って撃つことなどできるわけがない。俺は左手をグッと握り、殴り打つ姿勢をとった。
「使えない……ふふ、私の武器がこれだけだと思ってるわけ? 傑作ね!」
そう言ったローズは右腕を俺の方へ向けた――まさか。
――右腕が破裂するように分裂し、中から骨で組み上がった《三本指のアーム》が露わになった。そしてそのアームは俺の首を掴み上げ、身体を宙吊りにさせた。
「うっ……ううっ……」
ハンマーに込めていた力がなくなり、次第に通常の腕に戻り始めている。その一瞬の隙をついてローズはキャノン砲をこちらに向けて勝利を確信したような笑みを浮かべた。
「バイバ~イ筐君、短い間だったけど本当にウザかったわ。せめてものお礼として楽に殺してあげるから感謝してね」
目の前に青白い光の粒子がチャージされる――首元がきつく締め付けられ、身動きが全然取れない。やばい――殺される。
――そう悟ったその時、横から倒れていたはずの恭助がローズに体当たりを仕掛けた。その反動で首を締め上げていたアームが外れる。
「うっ……貴様まだ……っ!」
ローズが目尻で恭助を捉えた時にはもう遅かった。視界は恭助の手のひらによって暗転し、態勢が見事に崩されている。
驚くことに恭助の右腕は完全に再生していた。その右手でローズの頭部を掴み、勢い任せに空間の壁に向かって押しやっていく。
――内壁に激突するローズと恭助、だがまだ終わりではなかった。恭助は力を緩めることなく、内壁にローズを力任せに押し潰していく。
壁は強度を保てず、ピキピキと音を立ててひび割れを起こしていく。
やがて内壁はその力に耐え切れず、大穴を開けてローズと恭助を外へと追いやった。
「恭助ぇ!」
すぐに後を追おうと歩を進めた――。
「――筐さん!」
走りかけたその時、後ろから声が掛かる。この声の主がカリンであることはすぐにわかった。俺は顔を横に向け、視線だけを後ろに向けた。
佳奈と萌はまだ朦朧としているようで床に伏せたままだが、カリンは震える足を必死に堪えて立ち上がろうとしていた。瞳の色が元に戻っているところを見ると、どうやら正気には戻ったようだ。
「……筐さん……あの……えっと……」
カリンは何か言いたそうだが、出そうとする言葉を躊躇していた。まるで罪悪感に苦しむ罪人のように思い悩むカリン。その姿を見て、俺はすぐにカリンの言いたいことがわかった。
「佳奈! 萌! 立てるか!」
怒気を帯びた一声を上げると、佳奈と萌がビクンと身体を震わせ、こちらに視線を向けた。
「お前達は先にカプセルに入って元の世界に帰るんだ。ここはもう普通の人間がいられる場所じゃない。だから……後は俺に任せてくれ」
一呼吸おき、スッと左腕を横に伸ばし、親指を上へグッと立たせた。
「カリン……恭助のことは心配するな。俺が必ず救ってみせる……現実世界で待っていてくれ」
カリンの返答を聞く前に俺は走り出した。後方から叫ばれる自分の名前を背中に受けて、俺は一目散に内壁に開いた大穴の外へと向かった。
外へ出た瞬間、自分の足元に広がる光景を目にして肝を冷やした。ここが塔の最上階であることが、改めて実感できる。
金網で組まれた足場の悪い床、その下は当然吹き抜けで、東京の街が米粒のように小さく見え、そして広大に広がっていた。
頭上のすぐ傍には東京キャンドルのシンボルである光り輝く球体がある。直視できないほどの強い光彩を放つその球体は黒く淀んだ雲さえも真っ白に照らし、まるで天国のような領域を醸し出している。
しかし目の前の状況は周りの雰囲気とは一変して、地獄のような惨劇と化していた。
ローズが三本指のアームを利用して恭助の身体を軽々と掴み上げている。
恭助はぐったりとした姿で、両腕をだらりと下へ垂らし、大量の黒い血を身体全体から流していた。俺が駆けつける間に、ローズによって瀕死の状態までに追い詰められたようだ。
「恭助を離せ!」
「あら? 来ちゃったの筐君、コレが作った絶好の逃げるチャンスだったのに一体何をしに来たのかしら?」
アームの軋む音を立たせながら、ゆっくり恭助の身体を握り潰していく
「やめろ! 俺はお前に用があって来たんだ」
「へぇー、何かしら?」
握るアームの力を和らげ、俺の方へゆっくり顔を向ける。その顔は少し前までのローズの顔ではなかった。顔の表情は左右で違い、一方は血管を張り巡らせた鬼気迫る表情で、もう一方は顔の原型そのものが失われている。まるで皮膚が溶け落ちたゾンビのように。
俺は生唾を静かに飲み込み、ローズの顔を正面から睨みつけた。
「お前の能力は俺の能力とよく似ている……いや、そのものだ。お前は俺に言った、この能力は《変質型》の蛮人の力を宿したものだと……お前がその《変質型》の蛮人じゃないのか?」
「……ふふ、さすがにあれだけ見せればそこに辿り着くのも時間の問題だったわね……そう、私は《変質型》の蛮人よ。女性の身体に化けていたのも、腕が銃に変化したのも、私自身の能力で変えたものなの……で、それがなに?」
冷たく、そして威圧感のある目でローズは俺を睨み返す。
怯むことはない――ここに対峙しているのは同じ能力を持った一人の《人間》だ。人間の進化した姿が蛮人なら、けじめの付け方も人間と変わらないはずだ。
「勝負しようぜ……お前が勝ったら俺の身体をやる。ただし、俺が勝ったら潔くこの場から引くんだ……どうだ?」
暫しの沈黙が流れる。
だが、すぐにローズは白い歯を見せ、ニヤリと笑みを浮かべた。
「なかなかいい提案ね。いいわ、乗ってあげる……でも口だけじゃ何とでも言えるわ。その意思を証明できる何かを提示してくれないとねぇ?」
疑いを掛けてきた。けれどそれは想定内の事だったため、俺は動揺することなく次の行動に転じることができた。
ズボンのポケットからスマホを取り出し、金網の床に慎重に置いた。現実世界へ帰るための唯一の手段を手放したことが俺の意思表示だ。これを再度手にした者が勝者となる。
「いいわ。じぁあ早速始めましょうか……どちらが真の《人間》か、思い知らせてやるわよぉおおおお!」
アームで捉えていた恭助を横へ放り、そのままアームを一気に俺の方へ伸ばしてきた。
「――っ!」
ギリギリのところで回避する。アームを伸ばすためのワイヤーが激しい音を立てながら耳元スレスレを通過する。
俺はそのワイヤーに沿って疾走し、ローズとの距離を詰めた。
「甘いわね、忘れたの? 君の攻撃は全て見切っている。今更何をしたところで君に勝てる見込みなんてないのよ!」
キャノン砲を即座に構えると、既にチャージを済ませていた粒子を一気に放った。
「ぐっ!」
一瞬の判断で体勢を横へ崩す――レーザーが頬をかすめるように通過する。その際、レーザーの高熱で頬の皮膚が焼かれ、切傷のような火傷を負った。
無理な体勢でレーザーをかわしたため、足がもつれ、金網の床に倒れ込んでしまった。頬の火傷がヒリヒリと疼く、至近距離からのレーザーの威力を実感した。真面に受ければ身体は一瞬で蒸発してしまうだろう。
「クフフフフッ! どう、わかった? 君はヒーローにはなれないわ。ここで東京キャンドルと一緒に灰になって死ぬのよ、それが君の運命なの、フフフ!」
ローズは伸ばしきったアームを引き寄せながら苦笑した。自分の絶対的勝利を予知しているかのような余裕のある口振りが耳に入る。
ゆっくり身体を起こし、前方で余裕綽々に立つローズを睨み付ける。そして右腕に神経を集中し、腕を剣に変化させた。
「まだ懲りないの? 自分の力量も測れないなんて、本当の馬鹿ね。君の身体を貰う私の身にもなってほしいものだわ」
肩を震わせて微笑するローズ。俺はその言葉に感化し、右腕の剣に力を込めた。
「……ヘラヘラ笑っていていいのか? 何がお前の最後の言葉になるかわからないぞ」
どこかで聞いたことがあるヒーローの文句をそのまま口に出した。してやったりという感じで俺もローズに習って少し微笑んでやった。
「……殺す、ぶっ殺す!」
するとローズは表情を一変させ、顔の皮膚に浮き上がった血管をより一層浮かび上がらせ激昂した。
キャノン砲を再び構え、これ以上にないほど凄まじい速度で青い粒子をチャージしていく。銃口から今にも飛び出でてきそうなレーザーの光、これが恐らく本気の一擊なのだろう。
受けて立つ、そう心に強い暗示をかけ、俺は疾風の如く走り出した。
「うぉおおおおおおおおおおおお!」
全身から溢れ出るアドレナリンを一気に外へ放出する。俺は死をも覚悟して、声が枯れることを気にせず大声を張り上げた。
「馬鹿めぇ、死ぬのは貴様だぁー、灰になって消え失せろクズがぁああああ!」
――視界を遮るほどのレーザーが銃口から放たれた。
ビリビリと伝わる衝撃波を身体全体で受け止め、真っ向から堂々とレーザーを視界に入れる。瞬時に俺は右腕の剣を振り被り、更に左腕をガードするように構えた。
右腕に集中していた全神経を少しずつ左腕へと移していく――その効果はすぐに発揮された。
俺の左腕が右腕と同様に形状変化を起こし始めた――皮膚と筋肉の膨張を今まで以上に拡大させ、それを鋼のように固くするイメージを膨らませていく。形状はなるべく薄く、滑らかに、そしてどんなものでも防ぐことができる万能な形を創り出していく。
そして形状変化が止まったところで、レーザーが左腕に直撃する。
「ハハハハハ、終わったぁ、これで私の……っ!」
勝利の雄叫びを上げる瞬間、ローズは違和感を察知したように固まった。放たれたレーザーが一向に動かない、それどころか徐々に自分の方へ迫ってきていることに驚いている。
「なに……なに! 一体何をしているの!」
「――お前にできて……俺ができないわけないだろぉおおおおお」
左腕の《盾》を払い、レーザーの進行方向を変え、空へと跳ね返した。
俺とローズは至近距離で対峙した。
これが俺、人間の命の重みを纏った最後の一擊。振り被っていた剣を振り下ろす瞬間、剣の形状を更に大きく鋭くするイメージを膨らませる。
剣の形状は空を斬る途中で変化し、《大剣》へと進化した。
「や、やめっ、ぎゃあああああああ!」
――ズシュッ
ローズの奇声と共に身体を半分に引き裂いた。腰から上の上半身は激しく金網の床に叩きつけられ、残った下半身はゆっくりとした動作でその場に倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
肩で息を繰り返し、心臓の動悸を少しずつ和らげていく。
終わった――全てに決着がついたのだ。
俺は震える足を引きずるようにして歩き、スマホが置いてある場所まで引き返した。勝利した者だけが手にすることができる携帯端末を取りに向かう。
疲労と手脚の痛みで視界が揺れる。俺にはもう底力さえ残っていないことが身に染みて感じられた。けれどもう帰るだけのミッションだ。恭助を引っ張っていく力ぐらいは残っている。
ようやく俺はスマホの置いてある位置まで来た。姿勢を屈め、手を伸ばし、勝利の勲章を手に収めようとした――その時だった。
何者かに足を勢いよく引っ張られ、身体を金網に強く打ち付けた。
「ギェヒャヒャヒャヒャ、まだだ……まだ終わってないィィィィ!」
上半身だけのローズが目を飛び出させながら俺の足を必死に握り締める。そして片腕をまるでほふく前進のように動かし、全体重の乗った俺の身体を強引に引きずっていく。
「このっ……離せ、くそっ!」
掴まれていない足でローズの顔や首元を蹴るが、一向に怯む気配がない。それどころか、抵抗するたびにローズは不気味に笑い、頭に血が上ったように錯乱しながら激しく足を引っ張っていく。
上空から吹き付ける突風が勢いを増した。
金網の末端は柵などで守られてはいない。俺の身体は次第に金網の外へと近づいていく――これは明らかに心中するつもりだ。
ローズの手を解こうにも、全身疲労で殆ど抗うことができない。必死に金網を掴まろうとするが、握力のない痺れた指では金網の枠からすぐ外れ滑ってしまう。
――空と地上が交互に視界に入る。もう既にローズは金網の端に到達していた。
「ヒャッホォ―――――ウ!」
歓喜の雄叫びにも聞こえる気の狂った声を張り上げ、ローズは自身の上半身を金網の外へ飛び出させ、俺を力尽くに引っ張った。
――死ぬ。
そう悟ったその時、俺の足に突然血だらけの恭助が飛び付いてきた。
恭助は俺の足を掴むローズの手をむしり取るように外し、そのままローズの手を握ったまま、共に金網の外へと身を投げ出した――
「恭助ぇ―――――――!」
咄嗟に手を伸ばし、恭助の変異した腕を掴む。
上空で宙ずり状態となる恭助とローズ。それを支えているのは俺のたった一本の右腕だけだ。大人一人半ぐらいの体重が一気に右腕の筋を伸ばしていく。
ゴツゴツとした皮膚に爪を立て、必死に滑りゆく恭助の腕を止めようとする。
「恭助、今助けるからな……もう少し、もう少しだから――」
気持ちとは裏腹に恭助の腕はゆっくりと着実に俺の手から滑り落ちていく。
離すものか、絶対に離すものかと歯を食いしばって力を込める。
「……かぁ……かぁぁ……」
――ふと、喉の奥から無理やり出そうとするような声が耳に入った。
恭助が何か言いたそうな表情で口をパクパク動かしている――そして。
「……かぁ……たぁ……みぃ……」
「っ! 恭助……」
蛮人になってから一度も言葉らしい言葉を発しなかった恭助が、俺の名前を途切れ途切れに口に出した。恭助は俺の顔を真っ直ぐ見つめ、口角を少し上げ、安らかな表情を見せる。
俺もそれに答えて、笑顔を作ろうとした――
次の瞬間、恭助の腕が俺の手からゆっくりと、離れた――。
「恭助ぇぇええ――――――――――――――――――!」
耳の鼓膜、心臓さえも破けそうになるほどの絶叫を上げる。
けれど、恭助は次第にその姿を小さくしていく。笑顔で、これ以上ないほどの幸せそうな笑顔で――。
目から溢れ出る涙が恭助を追うようにこぼれ落ちていく。金網に押し付けた手の指がゆっくり枠の中に入り、血が滲むほどの力で金網を握り込んだ。
恭助は俺に『生きろ』と伝えているようだった。
姿が見えなくなるまで、ずっと俺の目を見て、そう訴えかけてきた。
霧状の雲に隠れゆく恭助の姿を、俺は黙って見ていることしかできなかった。
都会に出て来て初めてできた友達、いくつもの苦難を乗り越えて来て、いつしか俺と恭助は《親友》の仲にまで発展していた。
その親友も、今はもういない。俺を守るために身を挺してその命を犠牲にした。
最後の最後で医者としての本分を成し遂げた――けれど残された俺はどうすればいい、この心臓を突く痛みはどこで解消すればいい。
魂が抜け落ちた空っぽの身体をゆっくりと立たせ、金網の床に呆然と立つ。
上空から吹き付ける風が俺の身体を容赦なく揺さぶり、前後左右に体勢を崩させる。
ドォオオオオン!
爆発音が鳴り響いた――東京キャンドルに仕掛けられた爆弾が遂に爆発を開始した。ローズが落下中に起爆ボタンを押したか、地面に落下した衝撃でたまたまボタンが押されたかは定かではない。
東京キャンドルの下層から火花が上がり、夥しいほどの黒煙が立ち上ってくる。
爆発は徐々に激しくなり、爆音だけではなく、その振動まで足元に響いてきた。
そして――フワッと身体が前に動いた。
まるで磁石に吸い寄せられるように、俺の身体は何もない空へと引き込まれる。
なにも打つ手がなく、俺は目を瞑り、風に身を任せて死を受け入れた。これで恭助のもとに行けるのなら――俺は。
――と。俺の腕に誰かがしがみ付いてきた。前屈みの姿勢がぴたりと止まり、俺の身体をゆっくり直立させる。
振り向くと、そこにはカリンがいた。
両手でしっかり俺の腕を持ち、翡翠色の瞳に涙を浮かべながら真っ直ぐ俺を見つめている。
「筐さん……」
「カ、カリン……」
その瞳を見て、そして声を聞いて、俺はなんとか正気を取り戻すことができた。
なぜカリンは戻ってきたのか、その理由は顔を見れば一目瞭然だった。
カリンは全てを知っていたのだ。恐らく恭助自身から告げられたのだろう。自分が蛮人となって死を選んだとしても、絶対に手を出するな――と。
カリンの涙からは恭助の死をグッと堪えているような強い意思を感じられた。
生きなければならない、恭助のためにも必ず俺達は元の世界に帰らなければならない。そうカリンは言葉なく伝えてきていた。
「帰ろうカリン、俺達の世界へ」
「……はい!」
俺は金網に置いたスマホを拾い上げ、カリン手を引いて東京キャンドルの中へ引き返した。
次第に揺れが激しくなり、足元が不安定になる。けれど、俺とカリンは一目散にカプセルのもとへ突っ走った。
「こっち、こっち! 早く!」
「カタミッチ、カリたん、ダッシュ―――――!」
カプセルの前で佳奈と萌が手を振りながら跳ねている。二人もカリンと同じく、俺の帰りを待っていてくれたようだ。
カプセル前に到着し、すぐさま起動するか確認する。
カプセルの表面に光が灯り、モーター音のような永続的な音が鳴り響いた。そして空気の抜ける音と共に入口の半透明の蓋が開いた。
――いける、いけるぞ。
「皆、早く乗れ! いくぞ!」
俺の一声に皆が頷く。3つのカプセルに三人が乗り込むのを確認し、俺もカプセルの中に乗り込んだ。
半透明の蓋が下がりきり閉鎖空間となったところで、俺は握っていたスマホを顔の前に持ってきた。
たどたどしい手つきで【ダイヤル】のアイコンを押し、キーパット画面で自分の電話番号を押していく。通常では有り得ない行為だが、これで元の世界にいる俺自身に繋がるらしい。
もし成功しなければ死を意味する自分自身への電話。たった一回のタッチで全てを無にすると思うと、とても押す勇気が持てない。
ふと、カリンの乗り込んだカプセルが視界に入った。カリンも携帯電話を手にして何度も深呼吸を繰り返している。
そしてカリンが俺の視線に気付いた。二人で視線を合わせていると、カリンが笑顔で携帯電話をこちらに向けて一つのボタンを押した。
その数秒後、俺のスマホにメールが受信した。すぐさま開けてみると、そこには衝撃的な文章が書かれていた。
【待っています】
六文字の短い文章だったが、この文面には見覚えがある。大地震が起こる前、電磁波の流れる電話が掛かってきた直後に受信した奇妙なメール、その文面と一致している。
信じられないことだが、恐らくこれも東京キャンドルの影響なのだろう。
一つ感謝を残すなら、このメールを俺に届けてくれた事だ。
このメールが俺とカリンを引き合わせてくれた。そしてこの文章が俺に勇気を与えてくれた――東京キャンドルは最後にとっておきのプレゼントを残してくれた。
蛮人ではなく、俺達人間に。
俺はスマホから視線を外し、もう一度カリンを見る。カリンは少し照れた様子で俯き、自分の携帯電話に視線を落とした。
俺もなんだか恥ずかしくなり、視線をスマホに戻す。けれど、悪くない感情だった。こんな嬉しい気持ちになったのは久しぶりだった。
恐れることは何もない、俺の隣にはカリンがいる。掛け替えのない仲間、佳奈と萌も付いている。
そして、親友である恭助も――。
俺はスマホの画面をダイヤル画面に戻し、自分の電話番号が入力されていることを確認する。そしてゆっくり人差し指を【通話ボタン】の上に添えた。
心拍数を整えるように、小さく呼吸を繰り返す――そして一瞬だけ息を止めた。
(いけ!)
人差し指を落とし、【通話ボタン】に触れた。
キィィィイ―――――――――ン
またしても激痛の走る電磁波が、と思ったが、今回はいつもより穏やかだった。まるで森林浴をしているようなスッキリとした気分になり、音を聞くだけで脳が癒されるようだ。
やがて光り輝く金色の風が身体全体を吹き抜けた。よく目で追うと、それはカプセルからではなく、自分の身体から吹き出ていることがわかった。
手や足、腰から胸、そして恐らく頭部も、全ての身体のパーツが金色の粒となり、カプセルの上部に向かって吹き上がっている。
消えゆく自分の身体――痛みはなく、逆に心地良い感じだ。
俺はそっと目を瞑り、夢見心地で現実世界への帰還を待った。
意識がだんだん薄れていく、体重と呼べるものが身体から消え、まるで風の一部になるように感じられた。
そして俺は遂に、過去へのタイムスリップを開始した。
光の粒子は大樹のように聳え立つ装置内を通り、やがて光り輝く球体へ到達する。そして粒子は光線となり、暗雲立ち込める空を突き抜け、天高く放射される。
その先には、きっと俺達の世界が待っている――。
視界は真っ暗で何も見えない。今、自分がどんな姿勢になっているのかさえ認識することができない。暗闇の空間に一人きりで、まるで宇宙空間を漂っているような不思議な感覚になる。
すると、暗闇の中から少しずつ小さな音が漏れ出した。
その音は次第に大きくなり、やがて自分の周りを覆い尽くすほどの規模へと発展する。
ザワザワと騒がしい音が耳を刺激する。
大勢の人間が行き交う靴音、お店の呼び込みなどに勤しむ店員の声、工事現場の騒音とホイッスルの甲高い音、まだ聞き分けられていないものが無数にあるような音だけの空間。
視界の暗闇は、どうやら自分自身で創り上げているようだ。
俺は今、目を瞑っている状態なのかもしれない。
焦らず、ゆっくりゆっくり目を開けていく。暗闇の中央に一閃の光が通り、それが徐々に上下に開かれていく。
――視界が開け、一瞬の閃光が周囲を包み込む。
「うっ……くっ……」
腕を額に当てて影を作り、周囲を見回す。
最初に目に入ったのは夥しい数の人間の姿だった。まるで波のように押し寄せる通行人の列、それらは一方向ではなく、バラバラに散らばるように進行を続けている。どうやら俺は大通りの中央に立っているらしい。
視線を少し上げると、すぐ目の前にコンクリートで固められた色取り取りのビルが建ち並んでいる。その中でもピカピカと点滅を繰り返すネオン看板や風に吹かれて靡く飲食店の名前が入ったのぼりが最も目を引いた。
更に視線を上げると、眩い光が視界を真っ白にさせた。
太陽の光――雲一つない青々とした空から日輪の日差しが眩く輝きを放っている。グッと目を細めて、その場から動かず空と太陽の境界線をじっと眺めた。
不思議な感覚だ――なぜだか久しぶりな気分になる。
なぜ俺は何もせず、ここに立ち尽くしていたのだろう。
確か現在は日曜日の午後、大学での疲労や苦悩から一時的に逃れるため、休日を利用して俺はここ秋葉原で観光名所を巡り歩いていたはずだ。
何かがぽっかり心の中から抜けている。とても大事なことを忘れているような心苦しさを感じる。
一体、俺は何をしていたんだ――。
ふと、ポケットの中に手を入れて中を探った。すると硬い感触が当たり、それを持ち上げてみると、それは自分のスマホだった。
画面にタッチし、写真ファイルや着信履歴を確かめるが、別に変わったところはなく、さっき撮った《ラジ館》の写真や母親との着信履歴が残っているだけだった。
そして最後にメールの受信履歴を確認する――。
「あっ!」
そこにあった一通のメール。俺はそのメールを開けた瞬間、まるでテープが巻き戻されるような感覚と、ゾクゾクとした身震いを感じた。
――俺は形振り構わず、その場から走り出した。
人混みを掻き分けながら、血眼になって《ある店》を探す。
細い路地を通り抜け、大通りに立ち戻る。そしてまた細い路地に入り、大通りに出ては周囲に隈無く視線を走らせた。
――そして、ようやく俺はそれを見つけた。
《Sisters Wink》
メイドカフェであるこの店に俺は大事な用がある。決して忘れてはならない、大切な人との固い約束、それを果たしに俺はここに来た。
――すると。
カランカランという鈴の音と同時に、メイドカフェの入口が勢いよく開かれた。
その中から息を切らせた若いメイドが飛びでて来て、俺とすぐに目が合った。
見つめ合う時間がとても長く感じられる。二人きりで時間がゆったりと流れる空間にいるような心地の良い雰囲気が周囲を包み込む。
「ただいま」
俺は咄嗟にそう口に出した。
その言葉を聞いた彼女は翡翠色の綺麗な瞳を潤わせて、満面の笑みでこう答えた。
「おかえりなさい」――と。
(ロスト×スクランブル 終)




