エンカウント 1
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「いやいやいいんだいいんだ。記憶というものが脳という有限な器に収められている以上、重要性の低い情報を順次消していくことは全く当然のことなのだから。悪いというなら、私が君に自分を印象付けることに失敗したことが悪いのであって、気を失って倒れ頭を強かに打ち付けた所で、それは全くの自業自得だよ。ははは! 寧ろ胸が踊る展開じゃないか。もう一度一から君と向き合えるのだから、願ってもない僥倖といえる。だから心配せず待っていて欲しい、我が夫君よ。私はすぐに帰って、もう一度君を私の男にしてみせるさ」
彼女、六波羅紫苑は担架で運ばれながら、頭を下げる僕に向かって気丈にもそういった。結局彼女と僕がどこでどう知り合いかつてどういう間柄(伴侶? まさか!)だったのかということは何一つ分からずじまいだけれど仕方ない。今は彼女の頭がこれ以上常人とかけ離れてしまわないよう祈るのみである。僕は救急隊員の方々に、頭を下げた。
しかし思いがけず、嬉しい出来事だったなぁ。遥か十年前、しかもたった三ヶ月にすぎない滞在であったのにも関わらず、僕のことを覚えていてくれる人がいたなんて。しかも美少女。言うことは……ないとは言い切れない不安要素がちらほら散見されたけれど、視界を狭めていれば大丈夫……と言い切りたい。ということは言い切れていないけれど、なんとなく嬉しい気分は遠慮なく受け取っておこう。
右隣の部屋にも挨拶に行ったのだけれど、生憎そこは空き室だった。上下は面倒臭いので置いておくとして、僕は買い物がてら街を探検することにした。長距離移動に備えて自転車も用意していたのだけれど、見たところ駅前にしか店はないようなので歩くことにする。ぐるっと見て回った所、青少年のライフラインである本屋と電気屋とレンタルビデオショップの所在は確認できたのでほっとした。けれど、どうしても若者向けの古着屋が見つからない。まぁファッションにあまり興味が有るわけでなし、無いならないでと思わなくもないけれど、ヅャスコの衣料品コーナーで服を買うのに慣れてしまうのは、思春期の少年として少し思うところがある。寧ろファッションに興味が無いからこそ、そこで買えば自動的に最低ラインは超えられる良質な店を見つけておくのが重要だ。別に私服がダサ過ぎて待ち合わせ場所で女の子に帰られてしまった苦い過去がリアルにあるわけではないが(ヴァーチャルなら二桁の経験がある)、『人は見た目が九割』という新書があれだけ売れたのにはそれなりの理由がある。
どうにも意識して格好付けることにまだ多少抵抗感がある(だって格好つけてるのに格好悪かったらそれは格好つけないで格好悪いより壊滅的だ)ので、だらだらと言い訳がましく言葉を重ねてしまったけれど、要するに僕はもう少し服屋を探すことにした。メインストリートを一周しただけでは特に見当たらなかったけれど、そういうお店は大体道を一本入った、ゲームなら普通の街のテーマから少々アウトローなBGMに切り替わるような場所に並んで店を開いている事が多いのだ。僕は細い路地に入り、敢えて人目がないほうへないほうへ進んでみる。
進んでいる内に、夕方五時のチャイムが鳴り、街の日が翳ってきた。空気の匂いが気持ちアルカリ分多めのそれに変わった気がする。夜と昼の、狭間の匂い。
こういう時間のことを確か、『逢魔ヶ刻』なんて言うんだよな、なんて思っていたら、人気のない見知らぬ路地を歩いている相乗効果もあってか、何やら背に薄ら寒いものを感じ始めた。
『逢魔ヶ刻』。一日のうちで一番、怪異に遭遇してしまう時間。
馬鹿な、そんなものはただ遊んでいる子供たちを家に帰らせるために作られた話でしかない……なんてことは重々承知しているのだけれど、どうにも感情というものは理性に従ってくれない。どんなに馬鹿げたことだと思ってみても、シャンプーしているときにもしかして今背後に誰かいるかも、と思ってしまったが最後、泡を流して後方を確認するまで心臓を締め上げるような恐怖に襲われてしまうものだ。
つまり、早く人通りのあるところに出たかった。
そして、急いでいるとどうしても、視野狭窄に陥ってしまうもの。
だから言うなれば、その衝突は必然だった。
「――っ!」
「ええっ!?」
小走りで脇道から出ると、右方から人が走りこんできているのが見えた。見えた時にはもう既に遅い。あと一歩でお互いの身体がぶつかる距離で、その一歩を今少女は踏み出して、着地を待つばかりだ。中国雑技団だって、この状態から僕を躱すことなんてできないだろう。事故の瞬間というのは大概そんなものなのだろうか、僕はあーあ、とどこか他人事のような感慨に耽っていた。
しかし、緊急事態において体がどう動くのかというのは、全く頭脳の予測を超えている。
あろうことか、僕は突っ込んでくる少女の襟元を電光石火の早業で掴み、
なんということか、そのままおとなしくぶつかっていればいいのに――
投げ飛ばして、しまっていた。
!?
もちろん、この平成の時代に地面がコンクリで舗装されていないなんてことはなく、少女は、受け身も取れず頭から――
「きゃうっ」
まるで割られたスイカのように、少女の頭から鮮やかな赤色が覗く光景を、僕は見た。
それにしては悲鳴が可愛いような。
「……」
恐る恐る目線を下にやると――
ほっ。
それは幻視、だった。すんでのところで、少女の頭とコンクリの間に、足を挟んでおくという神業が、成功していた。
よかった……。
人生で迷うことなく一番と言える安堵の溜息を吐いているのも束の間、視界の端になにか動くものがあった。握り拳。僕は、殴られようとしている。しかし、極度の興奮状態にあった僕にとって、その拳はスローリィに過ぎた。
拳を右手で払い、流して、左手で相手の肩を掴み、腕を極める。
「うぐっ……」
思いの外腕が細くて、折りそうになってしまった。
「あっ」
ミント系の清潔な香り。相手は、女の子だ。
「貴様……って、え――?」
彼女の大きな瞳、その瞳孔が、一回りほども拡大したのが見えた。まるで僕を飲み込むかのような、深い瞳の色。張り裂けそうなくらい見開かれているから、それがよく見えた。
「な、なんで……貴方は……」
ヒーロー。
そう、彼女は震える唇で僕を呼んだ。
なにが、なんだか。
考える余裕もなく、事態は動いた。
「ちぃっ!」
どたばたと足音がしたと思ったら、鋭い視線で目の前の少女は後方を振り返る。彼女の視線の先には、いかにもガラの悪そうな男達が連れ立っていた。こちらに、向かってくる。彼女たちは、あいつらに追われていたのか――。
「ヒーロー! ここは私が食い止める! 貴方は純花を連れて逃げて!」
言うが早いか、彼女は走り来る男たちに向けて突っ込み、跳び膝蹴りを食らわせた。ヒーローはお前だろと言いたくなる程のそれは勇猛果敢。純花、とは僕がついさっき殺しかけた子のことだろう多分。純花ちゃんは僕のせいで、目を回して倒れている。連れて逃げろ、と彼女は言った。状況は切迫している。彼女を置いて逃げるのか。僕も戦うべきなのではないのか。結論は頭脳を介すまでもなく脊髄で、嫌だ、戦いたくないに決定した。投げ飛ばした少女を救う義務ならあるかもしれない。けれど、戦う義務なんてどこにあるのか。じゃあ、お前はあの子を一人残して逃げるのか? 女の子を一人で? ……思考が纏まらない。どうすべきか、どうしたいか。事態は切迫している。僕は、
僕は倒れ込んでいる少女を抱えて、逃げ出した。
彼女は見捨てた、ことになる。