序章
2002年 N県N市 神足小学校にて
ずずん、と小学校一年生にしては過剰とも言うべき発達を遂げた剛田太の巨体は、リノリウムの床に崩れ落ちた。一体何が起きたのか、本人も気づいていないのだろう。突然目の前に現れた少年をきょとんとした瞳で見つめている。しかし、流石に剛田太。一年三組を牛耳るドン。そんな間の抜けた醜態を晒したのもほんの僅かの間に過ぎず、すぐに、
「てめぇ……!」
怒りに目を光らせながら、芝居がかったゆったりとした動作で立ち上がった。取り巻きの骨川スジ夫達、並びに廊下掃除当番の三班が見ているのだ。格好わるい所を見せるわけにはいかない。
「とつぜんつきとばしてきやがって、ひきょうだぞ!」
『とつぜん』というところに強調をおいて、普通にやったらこんなことにはならなかったのだ、という所をアピールする。小学生だからといって……いや、小学生だからこそ、メンツというものが重要なのだ。しかし、目の前の少年。太とは対照的にすらりとした体型をして、テレビに出てくるアイドルみたいに整った顔立ちの 少年は、太の怒声に気圧された風もなく、逆に太を馬鹿にするように笑った。
「ひきょう? ひきょうだって?」
大きな瞳に静かな怒りを込めて、少年は太を睨む。
「おんなのこにてをあげるようなひれつかんに、そんなことをいわれるすじあいはない……!」
太とスジ夫達取り巻きには当然のことながら、「卑劣漢」と「筋合い」という言葉の意味は分からない。その語彙の理解を、小学一年生に求めるのは酷というものだ。しかしそれでも、少年が何に対してこんなに怒っているのかということは、かろうじて理解できた。
少年の背に庇われている女の子、真行寺静刻をぶったのが、その理由なのだろう。
真行寺静刻は、極度のあがり症の女子だった。人前はおろか、一対一の状態でもあがってしまって、一言も喋れないことから、付いたあだ名は『クチナシ』だ。授業で当てられると毎回顔を真赤に染め上げて、めそめそ泣き出すのを面白がられ目を付けられた、典型的いじめられっ子である。今も常のごとく、背中を丸めて廊下掃除をしていた静刻を見つけ、太達はいじめていたのだ。
そんな時に突如、この少年は颯爽と現れた。まるで、ヒーローのように。
太達は当然、気に喰わなかった。
「じょ、じょしのまえだからってかっこつけてんの!」
げらげら、とスジ夫を含め、取り巻きたちが一斉に笑う。しかし、少年は眉一つ動かさず聞き流していた。そして騒がしさが収まるのを待って、ゆっくりと語りだす。
「……いいか? ぼくはかのじょがじょせいだからたすけたわけじゃない。ぼくは、ちからでしいたげられているひとをみればだれだって、なんだってたすける。ちゃかすのはやめてもらおう」
同年代の子供であるはずの彼になにやら難しい言葉を使われると、馬鹿にされた気分になる。太達の我慢も、限界だった。
「いみわかんねーんだよ、もやしが!」
スジ夫が叫び、少年に殴りかかる。
「おれの名はペイジ!」
「プラント!」
「ボーンナム!」
なぜか各々自分の名前を名乗りながら、三人がスジ夫に続く。太以外の全員が、少年に襲いかかったのだ! 形勢は4体1。少年はなすすべもなくぎたぎたにやられる――
はずだった、が。
「おろかな」
少年は深く息を吐きながら、拳法の型らしきものを構え、流れるような流麗な動作で、
「あぎっ!」
「ひでぶっ!」
「めめたぁッ!」
「ぐっぱおんっ!」
まるで漫画のように、四人を蹴り飛ばした!
「あ……あ……」
その圧倒的な力量差に、自然太の足は、後退を始めてしまう。けれども少年は、蹴散らした太の取り巻きたちを飛び越え、太の前に迫る。太は、蛇に睨まれたカエルのように動けなくなった。
「ふん……。おくびょうものめ。なぐるのはなれていても、なぐられるのはなれていないか。とくべつにぼくがおしえてやるよ。なぐられるいたみを。そうすれば、すこしはおまえもやさしくなれるだろう……」
「ひぃっ! わるかっ……」
謝罪の言葉は、どすっ、という鈍い音によって掻き消された。少年の鉄拳が、容赦なく太の頬に浴びせられたのだ。
太の巨体が、宙を舞う。
この一週間ぐらぐらしていた太の乳歯が、綺麗な放物線を描いて窓の外へと飛んでいった。
○
静刻は、ただ少年を仰ぎ見ることしかできなかった。
御礼の言葉を言わなければ、とは思っている。けれどいつものあがり症ではなく、なにか話しかけるのが畏れ多いような気がして、声が出せなかったのだ。
無理もない。
弱きを助け、強きを挫く。今まで画面越しにしか見ることができなかった、ずっと静刻が待ち望んでいた存在が、そこにいたのだから。
正義の味方。
ヒーロー。
まるで奇跡を目の当たりにした人のように、静刻はただ、少年を仰ぎ見ることしかできなかった。
「……だいじょうぶ? けがはない?」
「……!」
呆けたように口を開けていた静刻の顔を覗きこむようにして、少年は尋ねてきた。慌てて表情を取り繕い、静刻は口を開くが、ただぱくぱくと餌を吸い込む金魚のように動くだけで、言葉を発することができない。しょうがなく、首をぶんぶんと縦に振って応答した。
「そう、よかった。またあいつらがいじめてくるようだったら、すぐぼくにいってくれ。なに、『のぶれす・おぶりーじゅ』っていってね。じゃくしゃをたすけるのは、ちからあるもののぎむさ。えんりょはいらないよ」
そう言うと、少年は手をシュタッと華麗に挙げて、静刻に背を向けた。
「ではごきげんよう」
「…………!」
迷いの無い足取りで、少年は颯爽と廊下を歩いて行く。だめだ。まだお礼を言っていない。助けて貰って、お礼のひとつも言えない女だと思われるのはどうしても嫌だった。静刻は必死で口を開くも、
「…………ぁぅ」
声がでない。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。体が震えて、目には焦りと緊張で涙が滲んでいる。
それでも、
「……ありが……とう……っ!」
この五文字だけは、どうしても伝えたい。
そんな思いが、かろうじて静刻の喉を震わせる。
それはまさしく、静刻にとっては清水の舞台から飛び降りるのに匹敵する行動だった。けれど、少年は、肩越しにだけ振り返って、素っ気なく応える。
「ぼくがおこなったのはぎむだ。おれいはいらないよ」
ぇ、と静刻の息は、喉を絞められたかのように詰まる。少年の言っていることはよく理解できなかったけれど、何か自分が余計なことをしたのだ、という事だけは分かった。抑えきれず、うるうると視界が揺らぎ、涙が粒になって頬を伝う、その直前。
少年は静刻の涙を、指でそっと拭いた。
「おれいはいらない。だけど、きみがもしぼくのこうどうにきょうかんしてくれるなら、きみも『のぶれす・おぶりーじゅ』をちかってほしい。つまり、じぶんよりよわいものがしいたげられているなら、かならずたすける、と。ぼくはそうしてもらえるのが、なによりうれしい」
少年の言うことはやっぱりよくわからない。けれど、その言葉の一つ一つが、静刻の胸を杭で打つかのように貫いていった。こくこくと、そのか細い首が折れてしまいそうなほど、静刻は何度も首を振る。
『のぶれす・おぶりーじゅ』
正義の合言葉を、その小さな胸に深く刻む。
少年の、春の日差しを受けた花のような、温かな優しい微笑みとともに。
しかし――。
「もうっ、こんなところにいらっしゃったのですか!」
静刻がはっ、として気づくと、少年は艶やかな長い黒髪が特徴的な、可愛らしい女の子にひっつかれていた。
彼女の名前は、『六波羅紫苑』(ろくはらしおん)。
テレビに出てくるジュニアアイドルに匹敵する、類まれなる容貌に、気品ある物腰、美しい言葉遣いを若干六歳にして完璧に身に着けている彼女は、この学校の女王だった。
そんな彼女が、少年の腕を自らの胸に寄せ、人目もはばからず好意を表している。いや、見せつけているというべきか。ちらちらと、牽制するように彼女は静刻へ目線を送っている。
彼女が相手では、自分なんかに勝ち目があるとは到底思えない。普段の静刻なら、おずおずと引き下がってしまうはずだった
が、
「……!」
静刻は、彼女をきっとした目付きで見返した。彼のことに関してだけは、妥協するつもりなんてさらさらない。その挑戦的な視線を受けて、黒髪の少女は艶然と笑った。受けて立とう――というのだ。見る人が見れば、彼女達の背後に咆哮をあげる巨大な竜と虎が見えただろう。戦争が、始まったのだ。
静刻は考える。
彼女に対し、容姿では勝てない。ファッションセンスも財力も遠く及ばない。コミュニュケーション能力なんて、まさに天と地の開きがある。勝てるはずがない戦いだ。
でも諦めることなんて、できないから、
せめて、彼にふさわしい人間になろう。
そう、強く思った。
私も、『のぶれす・おぶりーじゅ』。正義の味方に……!
……。
傍から見れば、実に些細な小事件。どこの小学校でも隔週くらいで起きている、ありがちでありふれた出来事。
けれど。
けれど、これこそが、内気で恥ずかしがりの、ごく普通の少女だった真行寺静刻を、決定的に変えた瞬間だった。
○
そして時は移り、人は変わる……。
それから十年の月日が経って。
ああ、見よ!
今、寂れた地方都市の、他のどこにも連結していない小さな私鉄の駅、そのプラットホームに降り立った青年を!
我々はその顔を知っている!
年を経て華のような明るさはなくなっているけれど、確かに、その顔にはあの時の面影がある!
舞台は2013年!
N県N市 主要ターミナル 『神足駅』構内!