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故郷 ‐夏‐

作者: 山下ナギサ

 あの日、空はひどく晴れていて、私の喉はやけるように渇いていた。黄色いカバーのかかったピカピカのランドセルが、どうしようもなく重かった。

当時は週休2日制でなく、土曜日は通称半ドン‐午前中のみの登校‐だったので、ちょうど下校の頃に太陽が空の一番高いところに到達するのだ。

 私の通っていた小学校の学区は少し、いびつな形に歪んでいる。その形はまるで左を向いた横顔のようにも見えて、ちょうど目の位置あたりに学校があり、そこからうなじのあたりまで35分ほどくねくね歩くと我が家なのだが、友達の決して多くない私が気を許して付き合える博美ちゃんの家が唇の端あたりにあったので、彼女と離れがたい気分になるとよく遠回りをして帰ったものだった。

 あの日の帰りは遠回りしたものか全く覚えていないが、とにかく暑くて、喉が渇いて、ランドセルが重くて、疲れてだるくて溶けそうでどうしようもなかった。見通しよく田んぼと畑が交互に続く田舎道では、日陰にさえそうそうありつけず、空のてっぺんから覗き込む太陽は幼かった私の身体にじりじりと照りつけた。

さらに、夏休み前に持ち帰らなければならない厄介な荷物たちが、疲労感に追い討ちをかけた。


「へんだなぁ、どうしちゃったんだろ。お家に帰れなかったらどうしよう」

 不意に出た独り言が、妙に私を不安にさせた。もし本当にこのまま疲れて力がなくなって帰れなかったら、どうすればいいのだろう。今日はお母さんが仕事だから、私が家に帰れなくても誰も迎えに来てくれない。私が帰っていないことに、夜まで誰も気づかない。そうしたら私はどうすればいいのだろう…。

そんな不安が心を侵しはじめたが、子どもながらに自分でどうにかしなければいけないことはわかっていた。

「よしっ、歩けるところまで、がんばって歩こう。そしたら、疲れて歩けなくなる前に家に帰れるかもしれない」

 自分を奮い立たせるように、確信を込めてつぶやいた。

 そういえば、私はこの頃からすでに独り言が多かった。


「も~う少し、も~う少し、も~う少し、で、お、う、ち~」

 私は爪先を見つめながら一心不乱に歩き、足を運ぶリズムに合わせて即席の呪文を唱え続けていた。

そうすることで、家が自分の方へ近づいてきてくれる気がした。いや、正確には、そう信じていないと歩けなかったのだ。

‐歌うように独り言を間断なく放ちながら、真下を向いてノシノシ歩く小学1年生の女の子‐傍から見ればさぞ滑稽な姿だったはずだが、私はなりふり構わず必死で歩き続けた。

そうするうちに、私が『最後の角』と呼んでいるT字路が近づいてきた。名の通り、下校時に最後に曲がる角である。

 南に向かって歩いてきた私は、『最後の角』を左折して東へ3分ほど歩くことになる。ちょうど『最後の角』のあたりから住宅地になっており、各々の家からのびた日陰を歩くのが、夏の帰り道にふと訪れる安らぎだった。

 『最後の角』から家へ続く細道は、最近舗装しなおしたために道路がひときわ輝いて見える。普段の私ならその黒光りに惚れ惚れし、ほんのり残るアスファルトの匂いを堪能しながら帰るところだが、この時ばかりはそうもいかなかった。いつも普通に歩いて帰る道がどうしようもなく遠く、周りを見る余裕など皆無に等しかったのだから。ただ、真下を向いたまま突き進んでいた私が顔を上げずとも『最後の角』に気づけたのは、舗装の変わり目のおかげであった。

 『最後の角』を曲がったところで、私はふっと力が抜けた。ここまで来られたからもう大丈夫、ちゃんと帰れるに違いない‐その思いが自然と私の顔を上げさせると、最終到達点がいよいよ視界に入ってきた。

私は少しでも長く日陰の中にいられるよう、道路の端ぎりぎりのところを歩いた。安心感からか疲れからか、いつしか私の口から呪文が消え、次第に呼吸は荒くなっていった。あとほんの少しだとわかっているのに、身体がまるで石のように重く、自分が自分でないような感覚だった。


 そして、家と『最後の角』の中間地点付近で、私の足はついに歩みを止めてしまった。一度止まると再び歩き始めるには肉体的にも精神的にも大きな力を要するもので、私は思うように歩き出すことが出来なかった。

「だめだ、もう、歩けないや…」

 私はブロック塀がつくりだす日陰の中に身を縮めて座り込んだ。その時初めて、見えている世界が微かにゆらめいていることに気づいた。

「なんだか、目が回ったときみたい。変なの~」

 自分で言った「変なの~」の節回しが思いのほか可笑しかったのも手伝って、私は一人で声を出して笑った。それだけにしておけばよかったものを、本当に目を回せば治るかもしれない、などと無謀なことを考えたあげく疲れ果てた身体でそれを実行してしまった。自分のことではありながら、子どもというのはつくづく謎の多い存在である。

 悪あがきの結果、私はいよいよ疲れてしまった。ついに身体を起こしているのもつらくなり、ない知恵を振り絞った結果としてランドセルを枕に寝そべってみた。空は青く、ぽっかりと浮かぶ雲はまるで笑っているように見えた。

「一休みしたら、がんばってお家に帰ろうっと」

 そうつぶやいた時だった。


「あら、かなちゃん。どうしたの、こんなところで横になって」

 ブロック塀の中から、ワタルさんが顔を出した。

ワタルさんはこの家のおじさんで、いつも畑仕事に精を出していて、通りかかるとやさしい笑顔で声をかけてくれる。そして、子どもの他愛無い話にも耳を傾けてくれるのだ。

私はそんなワタルさんと話をするのが好きだった。

「ワタルさん。あのね、私、なんだか疲れちゃって、お家まで帰れないの」

「それは大変だ。かなちゃん、お熱があるんじゃないの?お顔が真っ赤だよ」

 そう言われて、私は額を触ってみた。確かに熱いような気がした。

「ねぇかなちゃん、おじさんがお母さんを呼んできてあげようか?」

「うぅん、お母さん、今日はお仕事でいないの。私、カギ持ってるんだよ」

 私はワタルさんにカギを見せようと、寝そべったまま制服のポケットから探り出して高く掲げた。

「ほら。これ、家のカギ。一休みしたらちゃんとお家に帰れるから、ちょっとだけここで

寝ていってもいい?あと5分、ううん、3分だけでいいから」

 そんな私に、ワタルさんは笑顔で返事をくれた。

「そうかい。だけど道路じゃなくて、おじさんのとこで休んでいきなよ」

「ありがとう。でも、一休みすればパワーアップするから、ここでいい」

 私は何故だか、頑なに道路で寝ると言い張った。今思えば、ワタルさんへの遠慮が半分、もう半分はとにかく疲れて動きたくないという気持ち、だったような気がする。

ワタルさんは、そんな妙な子どもが起き上がるまで、目を細めて見守ってくれていた。時間にしてしまえばほんの数分だったが、例えわずかな時間であっても、こんな子どもにちゃんと付き合ってくれる大人はそうそういないものだ。

「ありがとう。もう大丈夫だよ。私、がんばって帰るからね」

 私は起き上がって制服をパンッと払い、ワタルさんに言った。

「おじさんが、お家まで送ってあげようか?」

「ううん、大丈夫。ワタルさん、畑がんばってね」

「はいはい。それじゃあかなちゃん、気をつけて行くんだよ」

 私は家までのわずかな距離を歩きながら、何度もワタルさんの方を振り返った。

 ワタルさんはそのたびに、大きく手を振ってくれた。

 私が家に入るまで、そっと、ずっと、見守っていてくれた‐。




 大人になった今でも、母は時々あの日のことを口にする。

「もう、お母さんびっくりしちゃったわよ。だってあなたったら、お母さんが帰ってきたら赤い顔して布団で寝てて、起きたかと思ったら嬉しそうに言うんだもの。何て言ったか覚えてる?」

「記憶はないけど、覚えてるよ。だってお母さんが何回も言うんだもん」

 どうやら私はあの日の夕方、帰宅した母に向かって

『お母さん、私、帰りにすっごく疲れて大変だったけど、道路で寝て、ちゃんと帰ってきたんだよ』

と言ったらしいのだ。

子どもだった私は、恐らく一人で帰ってこれたことを褒めてほしかったのだろう。けれども母にしてみれば話の内容が支離滅裂だったために、翌日ワタルさんから話を聞くまでは、私が寝ぼけてうわごとを言ったのだと勘違いしていたらしい。

 時は流れ、私は上京して夢だった仕事に就いた。でも現実は思うようにいかないことばかりで、こんなふうに長期休暇で帰ってくると、もう二度と東京へ戻りたくないと思ってしまう。

ここは空気がゆったり流れているから。


「お母さん、そういえば、ワタルさんって元気なの?」

何気なく私が言うと、何故だか母の表情が曇った。

「…何かあったの?」

「実はね、ワタルさん、この間亡くなったのよ。それが、自殺だったみたいで…」

「うそ…」

「身体壊してたみたいでね、色々悩んでたらしいのよ。詳しいことはお母さんもわからないんだけど、何だかもう悲しくてね」

「ワタルさんが?どこが悪かったの?」

「お母さんもわからないの。それに、あんまり面と向かって聞けないじゃないの」

「まぁ、それもそうだけど…」

 私はそれ以上、何も言えなかった。


 私の知ってるワタルさんは、いつだって明るくて元気だった。

 あの日私に向かって手を振ってくれたワタルさんは、優しかった。

 そういえば、ワタルさんはよく私に黒飴をくれた。

 子どもだった私は一度、黒飴じゃなくてイチゴ飴がいいとわがままを言った。

 そしたらワタルさんは、ごめんね、おじさんこれしか持ってないんだよ、だけどこれも美味しいから食べてごらんよ、なんて言っていたっけ。

 何日か後になって、かなちゃんの好きなイチゴ味、おじさん初めて食べてみたよ、けっこう美味しいんだね、って笑いながら、持ちきれないほどの真っ赤な飴をくれた。

 両手がいっぱいだぁ、自分で食べられないよ、と私が言うと、ワタルさんがイチゴ飴を口元まで運んでくれた。

 ワタルさんは、いつも、優しかった。

 笑顔だった。

 畑仕事を頑張る、力持ちのおじさんだった。

 道端に倒れこんだ変な子どもが自力で立ち上がるまで、文句も言わず付き合ってくれた。

 歩き出してからも、最後まで見送ってくれた。

 だから、どうしても、そんなふうにいなくなったことが信じられなかった。

 あのワタルさんがそんな選択をしなければいけなかったなんて、よっぽど辛かったんだろう‐私は自分を納得させることを試みたが、どうも上手にできなかった。

 思い出話に咲いた花が、悲しみで枯れようとしていた。




 大人の夏休みはあまりに短く、あっという間に東京へ戻る日が来てしまった。

「かな、身体に気をつけて、元気でね」

「お母さん、ありがとうね。見送らなくてもいいからね」

 そう言ったのだが、母は結局、駅へ向かうバス停まで一緒に来てくれた。

「途中でお腹すいたら、これ食べてね」

 別れ際渡された紙袋には、おにぎりとペットボトルのお茶と、黒飴が少し入っていた。


 今日も、あの日のようにとても暑い。

 バスの窓からは、小学生が友達と楽しそうに歩いている姿が見える。

 私は、優しかったワタルさんを思いながら空を見上げた。

 頬張った黒飴が、じわりじわりと溶けていく。

 喉の奥が少し、熱くなった。


***作者あとがき***



ワタルさんにはモデルがいます。

その方のことを、私は大好きでした。

その方も、ワタルさんと同じように、いなくなってしまいました。

忘れたくなくて、この物語を書きました。


おじちゃん、ありがとうね。




…しかし、実話度がかなり高いので、母親が読んだら私が書いたとすぐにわかることでしょう。

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