第8話 差し伸べられた手、選ばれなかった未来
その日、北の邸宅に一通の書簡が届いた。
封蝋に刻まれた紋章を見て、アデルの表情がわずかに硬くなる。
「……王都から、です」
セレスティーヌはすぐに察した。
「来たのね」
書簡は、丁寧な言葉で満ちていた。
だが、その内側にある本音は嫌というほど読み取れる。
――調査の結果、冤罪の可能性が高い。
――名誉は回復される見込み。
――王も、誤解を悔いておられる。
「……復権、ね」
「はい」
アデルの声は低い。
「あなたを追放したのも王都。今さら手のひらを返すのも王都です」
「婚約の件も、書いてあるわ」
彼女は、最後の一文をなぞる。
――再び、正妃候補として迎えたい。
「……戻れば、すべて元通り」
そう呟くと、胸の奥にかすかな痛みが走った。
絹のドレス。宮廷の灯り。誰もが羨む立場。
かつては、疑いもしなかった未来。
「……セレス」
アデルが、彼女の名を呼ぶ。
「無理に、答えを出さなくても……」
「いいえ」
セレスティーヌは、首を振った。
「今、決めるわ」
彼女は立ち上がり、窓の外を見る。
北の空は、どこまでも広く静かだった。
「戻れば、私は“正しい令嬢”になる」
「間違えないように振る舞って、また誰かの期待に応える人生」
振り返り、アデルを見る。
「でも、ここでは――」
言葉を探すように、一拍置いてから。
「私は、私でいられる」
アデルの喉が、わずかに鳴った。
「……後悔は、しませんか」
「するかもしれないわ」
正直な答えだった。
「でも」
彼女は、はっきりと言った。
「それでも、選ぶのは私」
書簡を手に取り、ゆっくりと破る。
音は小さく、しかし決定的だった。
「王都には残らない」
「婚約も、復活させない」
アデルは、しばらく何も言わなかった。
そして
――深く、深く、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「どうして、あなたが礼を言うの?」
彼は、顔を上げる。
その瞳には、隠しきれない感情が揺れていた。
「俺は、あなたに選ばれた」
「それだけで……十分すぎるほどです」
胸が、熱くなる。
「アデル」
「はい」
「私、あなたの人生を縛ってしまうかもしれない」
「望むところです」
即答だった。
「俺はもう、縛られる人生を選びました」
彼は一歩近づき、今度は逃げない距離に立つ。
「あなたの“そば”で」
セレスティーヌはそっと手を伸ばし、初めて
――自分から彼の外套の裾を掴んだ。
「……じゃあ」
小さく、微笑む。
「一緒に、前に進みましょう」
その頃、王都では。
一人の侍女が帳簿と証言を揃え、静かに裁定の場へ向かっていた。
嘘で築かれた未来が、音もなく崩れ始めていることを――王都の誰もがまだ知らない。
だが確かに。
選ばれなかった未来は、もう戻らない。




