第2話 氷の騎士と古い記憶
沈黙が、二人の間に落ちた。
膝をついたままのアデルを前に、セレスティーヌはすぐに言葉を返せずにいた。
――追放を、待っていた。
その意味がわからない。
わからないのに、胸の奥が妙にざわつく。
「……顔を上げてください」
そう言うと、アデルはほっとしたように息を吐き立ち上がった。
だが、その距離は先ほどよりも近い。
「理由を、聞いてもいいかしら」
「はい」
彼は短く答え、視線を一度落とす。
まるで長い間胸の奥にしまっていたものを、ようやく言葉にしようとするかのように。
「十年前。北部のとある街で、飢えて倒れかけていた孤児がいました」
セレスティーヌの指先が、わずかに揺れる。
「その子に、あなたはパンを与えた」
懐かしい記憶が、ふっと浮かび上がる。
薄暗い路地。空腹で動けずにいた少年。
そして――気まぐれに差し出した、少し硬いパン。
「……そんなことも、あったわね」
軽く言ったつもりだった。だが、アデルの表情がわずかに緩む。
「私です」
一瞬、風の音しか聞こえなくなった。
「あなたが助けた孤児は、私でした」
信じられず、彼を見つめる。
目の前の男は、王国最強の騎士。冷酷無比と恐れられる、氷の騎士。
「あの時、私は――生きる意味を、失いかけていました」
静かな声だった。けれど、その一言に込められた重さは容易に想像できる。
「あなたは名前も聞かず、見返りも求めず、ただ『生きなさい』と言うように、パンをくれた」
アデルは、真っ直ぐに彼女を見る。
「それが、私の人生を変えました」
胸が、じんわりと熱くなる。
「……たった、それだけのことよ」
「私にとっては、すべてでした」
即答だった。迷いも、誇張もない。
セレスティーヌは視線を逸らす。
なぜか、泣きそうになるのを誤魔化すために。
「だから、追放を待っていたの?」
「はい」
彼は頷く。
「貴族であるあなたに、近づく資格はありませんでした」
「ましてや王太子婚約者。ですが今は――誰の許可もなく、あなたを守れる」
その言葉に、彼女は小さく笑った。
「……不思議ね。追放されたのに、独りじゃないなんて」
アデルはほんの一瞬だけ目を見開き、はっきりと答えた。
「独りにしません」
強くもなく、優しすぎるわけでもない。
ただ、決意そのものの声。
「よければ、行き先が決まるまで同行させてください」
セレスティーヌは少し考え――頷いた。
「じゃあ、お願いしようかしら。氷の騎士様」
その呼び方に、彼の耳がわずかに赤くなる。
「……アデルと、お呼びください。さぁ、どうぞ私の馬に」
二人を乗せた馬は歩き出す。王都から遠ざかる道を。
追放は終わりではなかった。
それは、忘れられていた縁が再び結ばれる始まりだった。
そしてセレスティーヌは、まだ知らない。
この氷の騎士がこれからどれほど深く、静かに、そして甘く――彼女を囲い込んでいくのかを。




