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証明:価値なき命の生存戦略


 かつて、地獄とは戦場のことを指すのだと思っていた。

 降り注ぐ砲弾の雨、飛び交うレーザー、オイルと血が混じり合う死臭。

 だが、それは間違いだった。

 本当の地獄あるいは、最も予測不能で、論理が通用せず、リソースを湯水のように消費する戦場は、私の部屋の中にあった。

 地下都市グレイブ334、居住区B-302号室。

 その鉄の扉の向こうから、鼓膜を引き裂くような高周波の「警報」が鳴り響いている。


 オギャアアアアアア!!

 オギャアアアアアア!!


 私はゲートキーパー任務の疲れを引きずりながら、重い足取りで部屋のロックを解除した。

 プシュゥ、と扉が開く。

 そこは、カオスだった。


「あーもう! 泣くな! 泣き止めって! ほら、高い高いしてやるから! うおっ、暴れるな!」


「落ち着きなさい、レベッカ。貴女の『高い高い』は重力加速度が強すぎます。その子はパイロット候補生ではありませんよ」


 部屋の中では、グレイブ334随一の腕を持つ工兵型(TYPE.E)、レベッカが顔を真っ赤にして小さな生物と格闘していた。

 その横では、狂気の解剖医(TYPE.M)、アリサが冷静に端末を操作し、データを取っている。

 そして、レベッカの腕の中で、顔を真っ赤にして泣き叫んでいるのがこの部屋の新しい支配者、カノンだ。


「……ただいま。状況は?」


 私が尋ねると、レベッカは救世主を見るような目で振り返った。


「ヴィオラ! 遅えよ! こいつ、アタシが作った『自動ゆりかご・マークII(高速回転機能付き)』に乗せたら火がついたように泣き出しやがって……! オイル漏れ(おもらし)じゃねえ、ミルクでもねえ、何なんだよコイツは!?」


「高速回転機能をつけるからだ。……貸せ」


 私はレベッカから、ぐずり続けるカノンを受け取った。

 ずしり、とした重み。

 生後数週間。カノンは驚くべき生命力で成長していた。人間の赤ん坊とはこれほどまでに早く重くなるものなのか。

 私の腕(A型フレーム)の中に収まると、カノンは私の匂いを嗅ぎつけたのか、あるいはEfリアクターの鼓動に安心したのか、少しずつ泣き声を弱めていった。


「……よしよし。悪かったな、工兵型の荒っぽいもてなしで怖かったか」


 私は無意識に身体を揺らし、背中を一定のリズムで叩く(タッピング)。

 すると、口をついて出るのは、自分でも驚くほど優しいハミングだった。

 S型(愛玩用)のプリセット・データに含まれる子守歌。

 戦闘用に改造した私の脳内で、本来不要なはずの「母性プログラム」が勝手に起動し、最適なあやし方を身体に指示してくる。

 悔しいが、効果は絶大だ。

 数分もしないうちに、カノンは安らかな寝息を立て始めた。


「……チッ。やっぱ『本職(S型)』には敵わねえな」


 レベッカが悔しそうにぼやく。


「アタシなんて、あやそうとしたら指を噛まれたぞ。まだ歯も生えてねえくせに、顎の力が強えのなんの」


「それは貴女の指がオイル臭いからですよ。……それにしてもヴィオラさん、貴女、本当に板についてきましたね。見た目は殺戮兵器なのに、やってることは聖母マリア顔負けです」


「茶化すな。……これはただの機能スペックだ」


 私はカノンを、レベッカが作ったベビーベッド(余計な回転機能はオフ)に寝かせた。

 部屋を見渡す。

 床には空になった粉ミルクの缶、オムツ代わりの吸水シート、そしてレベッカが廃材で作ったガラガラ(振ると銃声のような音がする)が散乱している。

 酷い有様だ。

 だが、不思議と不快ではなかった。


 あれから数週間。

 私たちは、奇妙な共同生活を送っていた。

 私が任務で外に出ている間は、レベッカかアリサが交代で部屋に来て、カノンの面倒を見る。

 夜は私が引き取り、夜泣きと格闘しながら短いスリープモードを取る。

 私たちのリソースの大半は、この小さな「主」のために費やされていた。


「バイタルチェック、異常なし。排泄物の色、ややイエローオーカー寄り。健康そのものです」


 アリサが満足げに頷く。


「しかし、驚異的な適応能力ですね。地下の日光のない環境、合成栄養剤ベースのミルク、そして振動と騒音……。普通の人間ならストレスで参ってしまうところですが、この子はむしろ楽しんでいるように見えます」


「そりゃあ、ヴィオラの子だからな」


 レベッカがニカっと笑う。


「血は繋がってなくとも、魂が似てんだろ。……しぶといぜ、こいつは」


 しぶとい。

 それは、この世界で生き残るための最大の才能だ。

 私は眠るカノンの頬を指でつついた。

 ぷにぷにとした感触。温かい体温。

 この温もりを守るためなら、私はどんな敵でも殺せる。そう思っていた。

 だが、現実は機械軍よりも厄介な敵を用意していた。


「……おい、ヴィオラ。そろそろマズいぞ」


 レベッカが声を落として言った。

 部屋の空気が一変する。

 私も、薄々は感づいていたことを指摘され、表情を硬くした。


「……何がだ?」


「隠し通すことだよ。……昨日、隣の部屋のP型(研究者タイプ)に絡まれた。『お前の出入りしている部屋から、有機的な低周波音が断続的に発生している。ネズミが繁殖しているなら駆除すべきだ』ってな」


「……何と答えた?」


「『アタシが作った新型エンジンのアイドリング音だ』って誤魔化したが……P型の分析能力をナメちゃいけねえ。遅かれ早かれバレる」


 アリサも深刻な顔で続く。


「補給局のデータも危険水域です。私が医療用物資として粉ミルクの材料を横流ししていますが、その量が新生児一人分としては多すぎます。……監査が入れば一発アウトです」


 限界だった。

 泣き声は日に日に大きくなり、必要な物資も増えていく。

 壁の薄いアンドロイド居住区で、人間の赤ん坊を隠し育てること自体、最初から無理があったのだ。


「バレたら……どうなる?」


 レベッカが問う。答えは明白だ。


「私は『異常行動を起こした故障機体』として廃棄、あるいは再フォーマット。……カノンは『未登録の有機物』として処分される」


「処分って……殺すのかよ? 何もしてねえ赤ん坊を?」


「この街の掟だ。『価値のない者は生きることを許されない』。……IDを持たない人間は、ただの肉塊扱いだ」


 沈黙が落ちた。

 カノンの寝息だけが、平和なリズムを刻んでいる。

 この寝息を止めることなど、誰にもさせない。

 だが、隠し続けることがカノンの首を絞めることになるのも事実だ。このままでは、カノンは一生、この薄暗い部屋から出ることのできない「幽霊」として生きることになる。


「……手を打つしかない」


 私は決断した。


「隠すのではなく、認めさせるんだ。この子がここに生きる権利を」


「認めさせるって……どうやって?」


 レベッカが呆れたように言う。


「『実は機械から生まれました』なんて言ってみろ。ミリンダだけじゃねえ、街中の人間がパニックになるぞ。禁忌中の禁忌だ」


「ああ。出自は隠す必要がある。……だが、育てる『理由』が必要だ。奴らが納得するだけの、正当な理由が」


 私たちは作戦会議を始めた。

 どうすれば、無価値な赤ん坊に「価値」を付与できるか。

 どうすれば、合理主義の塊である指揮官ミリンダを説得できるか。


「私の実験動物モルモットとして申請するのはどうです?」


 アリサが真顔で提案する。


「人間の成長過程とアンドロイドの環境適応能力の相関関係を研究する……という名目で。私が責任者になれば、多少の融通は利きます」


「却下だ」


 私は即答した。


「カノンは実験道具じゃない。そんな名目で登録すれば、お前のようなマッドサイエンティストたちに解剖される未来しか見えない」


「ちぇっ。愛がないですねえ」


「じゃあ、ペットはどうだ?」


 レベッカが言う。


「人間が猫を飼うみたいに、アンドロイドが人間を飼う。……まあ、立場が逆転してるが、愛玩用ってことにすりゃあ」


「それも却下だ。人間はペットじゃない。……それに、ペットに市民権は与えられない。配給も受けられない」


 手詰まりだ。

 嘘をつこうとすればするほど、ボロが出る。

 そして、嘘で塗り固められた存在は、いつか必ず破綻する。

 カノンには、太陽の下を歩いて欲しい。

 コソコソと隠れるのではなく、堂々とこの世界を生きて欲しい。

 ならば──。


「……正面突破する」


 私は立ち上がった。


「嘘はつかない。……いや、致命的な部分(出自の禁忌)だけ隠して、あとは全て話す。その上で、取引をする」


「取引?」


「ああ。この街の支配者たちが一番欲しがっているもの。……『未来の価値』を売りつける」


 私はベッドで眠るカノンを抱き上げた。

 まだ軽いが、その中には無限の可能性が詰まっている。

 それを信じるしかない。


「おいヴィオラ、まさか今から行く気か? ミリンダのところに?」


「善は急げだ。……レベッカ、アリサ。お前たちは部屋で待機してろ。もし私が戻らなかったら、その時は……」


「馬鹿野郎」


 レベッカが遮った。


「戻って来い。絶対にな」


「……良い報告を待っていますよ」


 二人の視線を背に受け、私は部屋を出た。

 腕の中にはカノン。腰にはP226。

 向かうは地下司令室。

 これは戦闘ではない。だが、私の生涯で最も重要な「戦い」だ。


 地下司令室へのエレベーターの中、私はカノンに話しかけた。


「いいか、カノン。今から会うのは怖いおばさんだ。……だが、泣くなよ? 泣いたら負けだ。お前が生きるに値する男だってことを、見せつけてやれ」


 カノンは私の言葉が分かったのか、分かっていないのか、キャッキャと無邪気に笑って私の指を握った。

 その笑顔が、私に勇気をくれる。

 私は深く息を吸い込み、司令室の扉の前に立った。

 警備兵のA型アンドロイドが、私と、その腕の中の「異物」を見てぎょっとする。


「TYPE.SAB-2235、それは……」


「指揮官への緊急報告だ。通せ」


 有無を言わせぬ威圧感で警備兵を退かせ、私は扉を開けた。

 司令室の冷たい空気が流れ込んでくる。

 中央の席で、ミリンダがいつものようにモニターを睨んでいた。

 彼女は私の足音に気づき、椅子を回した。


「報告ご苦労、ヴィオラ。……と言いたいところだが」


 ミリンダの視線が、私の腕の中に釘付けになる。

 その茶色の瞳が、みるみるうちに険しく、氷点下の冷たさを帯びていく。


「……何の冗談だ? 戦場帰りの兵士が、戦利品代わりに人間の赤子を抱いてくるとはな」


「冗談ではない。……商談に来た」


 私は一歩も引かず、ミリンダの真正面に立った。

 カノンが、物珍しそうにミリンダの方を見る。

 場の空気が張り詰める。オペレーターたちが手を止め、息を呑んでこちらを見ている。


「商談だと?」


 ミリンダが鼻で笑った。


「その『未登録有機物』にか? ……ヴィオラ、貴様の優秀さは評価しているが、バグを起こしたならメンテナンスが必要だぞ。即刻その『汚染源』を廃棄しろ」


「できない」


「命令だ」


「断る」


 司令室がどよめいた。

 絶対的な上下関係。指揮官への命令拒否は、反逆罪に等しい。

 警備兵たちが銃に手をかける気配がした。

 だが、私はミリンダの目から視線を逸らさなかった。


「話を聞け、ミリンダ。……この子は、ただの赤ん坊じゃない」


 私は、用意していた「物語」を語り始めた。

 半分は真実。半分は嘘。

 かつて処刑された犯罪者(カノンの父)が、禁忌の実験で遺した子供であること。

 だが、機械から生まれたことは伏せ、「実験室の人工子宮で培養された特殊検体」であると告げた。

 嘘をつくとき、最も重要なのは「相手が信じたい情報を混ぜること」だ。

 ミリンダにとって、ただの捨て子よりも「特殊な検体」の方が、利用価値を感じるはずだ。


「……なるほど。犯罪者の遺児か。罪深い生まれだな」


 ミリンダは冷ややかに言った。


「だが、それがどうした? 出自がどうあれ、今のこの都市に、役立たずの赤ん坊を養う余裕はない。……リソースの無駄だ」


「今はな」


 私は言葉を被せた。


「だが、未来はどうだ?」


 私はカノンを少し持ち上げて見せた。


「この子は、私が育てる。私のリソースを削ってでもだ。都市への負担はかけさせない」


「貴様が? ……愛玩人形(S型)の真似事か?」


「違う。……育成だ」


 私は声を張り上げた。


「私はこの子に、私が持つ全ての戦闘技術、サバイバル知識、戦術論を叩き込む。S型の柔軟な思考と、A型の戦闘スキル……その全てを継承した、最強の『人間兵士』に育て上げる」


 ミリンダの眉がピクリと動いた。

 興味を持った。


「人間は弱い? 確かにそうだ。だが、アンドロイドにはない『発想』と『成長性』がある。……機械軍のAIは、人間の予測不可能な行動を最も恐れているはずだ。この子は、将来必ずグレイブ334を守る、替えの利かない戦力ソルジャーになる」


 私は畳み掛ける。


「今、この未来の最高戦力を、たかがミルク代程度のリソースを惜しんでドブに捨てるか? それとも、私に投資させて数年後に最強のカードを手に入れるか? ……選べ、指揮官。どちらが『合理的』だ?」


 ハッタリだ。

 赤ん坊がどう育つかなんて分からない。戦士になんかならず、平和な詩人になるかもしれない。

 だが、今はこう言うしかない。

 この子の命を「価値」という天秤に乗せて、釣り合わせるためには。

 ミリンダは沈黙した。

 その瞳が、カノンを見つめ、そして私を見つめる。

 私の目にあるのは、懇願ではない。覚悟だ。

 彼女はゆっくりと椅子に背を預け、長い、長い沈黙の後小さく息を吐いた。


 ミリンダのため息は、深海のように重く、そしてどこか呆れを含んでいた。

 彼女は組んでいた指を解き、デスクの上の端末を爪先で軽く叩いた。

 カチ、カチ、という乾いた音が、静まり返った司令室に響く。

 私の心臓(Efリアクター)は、戦闘中よりも激しく脈打っていた。


 私の提示した「取引」。

 未来の戦力という不確定な価値と、現在のリソース消費という確実な損失。天秤にかければ、どう考えても後者の方が重い。合理性の化身である彼女が、私の詭弁にどこまで乗るか。


「……ヴィオラ」


 ミリンダが口を開いた。その声に感情の色はない。


「貴様は馬鹿だ。……S型の思考回路にバグが生じているとしか思えん」


「否定はしない」


「だが……」


 彼女は一度言葉を切り、私の腕の中で無邪気に笑うカノンに視線を落とした。


「貴様の見立て通り、人間の『予測不可能性』は機械軍に対する有効な武器になり得る。……かつての大戦で、我々アンドロイドが人間に従っていた理由もそこにある。奴らは非合理的ゆえに、論理を超えた戦術を生み出すからな」


 ミリンダは端末を操作し、空中ディスプレイに登録フォームを呼び出した。


「いいだろう。その『投資』、乗ってやる」


 司令室の空気が一気に弛緩した。

 私は大きく息を吐き出しそうになるのを、寸前で堪えた。まだだ。条件があるはずだ。


「ただし」


 ミリンダが人差し指を立てる。


「条件は三つある。一つ、その子の育成にかかる費用、食料、医療費、装備費は全て貴様の報酬から天引きする。特別手当はなしだ」


「構わない。私のオイル代を削ってでも払う」


「二つ。その子が一定年齢に達した時点で、私の査定を受けさせること。もし『戦力外』と判断されれば、即座に都市から追放する」


「……いいだろう。そんな無様な男には育てない」


 嘘だ。

 戦力外だろうが何だろうが、追放なんてさせない。その時は二人で逃げるだけだ。だが、今は頷くしかない。


「そして三つ目」


 ミリンダは少しだけ表情を緩め、皮肉っぽい笑みを浮かべた。


「……死なせるなよ。私の投資を無駄にするな」


 それは、彼女なりの最大限の「慈悲」の言葉だった。

「了解。……感謝する、指揮官」

 ミリンダがエンターキーを叩く。

 プリンターが作動し、一枚のカードが吐き出された。

 プラスチック製の、薄汚れたIDカード。

 だが、そこには確かに刻まれていた。


 『Grave-334 Citizen ID: CANON』。


 この閉ざされた世界で生きるための、唯一の切符。

 私はカードを受け取り、カノンの小さな手に握らせた。

 カノンはそれをオモチャだと思ったのか、嬉しそうに口元へ運ぼうとした。


「食うなよ。……それはお前の命だ」


 私はカードを取り上げ、胸ポケットにしまった。

 重かった。

 このカード一枚を手に入れるために、私は自分の全てを賭けたのだ。


 司令室を出ると、そこにはレベッカとアリサが待っていた。

 二人は私が無事に出てきたこと、そして処刑用のドローンが飛んでこないことを見て、へなへなとその場に座り込んだ。


「……心臓に悪いぜ、全くよォ」


 レベッカが額の汗(冷却液)を拭う。


「で? どうだったんだ?」


「これを見ろ」


 私はカノンのIDカードを見せた。

 二人は顔を見合わせ、そして歓声を上げた。


「やった! さすがヴィオラさん! 口喧嘩も最強ですね!」


「へへっ、これで堂々と外を歩けるな! ネズミ扱いされなくて済むぜ」


 アリサはカノンの頬をぷにぷにとつつき、レベッカは私の肩をバンバンと叩く。

 私は苦笑しながら、カノンを抱き直した。

 まだ終わりじゃない。

 法的な許可は得た。次は、この世界の「精神的」な承認を得に行かなければならない。


「行くぞ。……地上へ」


 グレイブ334、地上層。

 時間は夕刻。分厚い雲に覆われた空は、薄暗い灰色から、毒々しい紫色へと変わろうとしていた。

 風は相変わらず砂と鉄錆の匂いを運んでくるが、今日の風はどこか心地よかった。

 私はカノンを隠すことなく、堂々と抱いてスラム街を歩いた。

 すれ違う人々が、ぎょっとした目で振り返る。


「あのアンドロイド、人間の赤ん坊を持ってるぞ」

「食うつもりか?」

「いや、あやしてるぞ」


 ひそひそ話が聞こえてくる。

 だが、私はもうコソコソしない。

 背筋を伸ばし、堂々と歩く。これが私の息子だ。文句があるならかかってこい。

 私の放つ殺気(あるいは母性という名の威圧)に気圧されたのか、誰も声をかけてくる者はいなかった。

 向かった先は、スラムの端にある廃教会。

 瓦礫を積み上げて作られたその場所は、夕闇の中でぼんやりとした明かりを漏らしていた。

 教会の扉を開ける。

 中には数人の人間とアンドロイドが祈りを捧げていたが、私が入ると一斉に静まり返った。

 祭壇の前で、彼女は待っていた。


 TYPE.A-0028、マリア。

 プラチナブロンドの髪を揺らし、彼女は慈愛に満ちた瞳で私と、腕の中のカノンを見つめた。

 まるで、私たちが来ることを知っていたかのように。


「……ようこそ、ヴィオラ。そして、小さなお客さんも」


 マリアの声は、荒んだ心に染み渡る清涼な水のようだった。

 私は彼女の前に歩み寄り、立ち止まった。

 彼女は私より強い。戦闘力も、そして「徳」においても。

 彼女に見透かされているような気がした。この子の出自も、私の嘘も、全てを。


「……祝福を頼みたい」


 私は短く言った。


「この子はカノン。私が引き取った。……今日、市民権を得た」


 マリアは驚く素振りも見せず、ゆっくりと頷いた。

 そして、そっとカノンに手を伸ばした。

 カノンは怖がることもなく、マリアの指に手を伸ばし、キャッキャと笑った。


「まあ……。元気な子ですね」


 マリアが微笑む。その笑顔には、一切の陰りがない。


「機械の腕に抱かれ、オイルの香りに包まれて育つ、人の子。……数奇な運命です。でも、とても美しい」


 マリアはカノンの額に、自らの額を軽く押し当てた。

 アンドロイド式の祝福。データリンクによる感情の共有。

 カノンにデータリンク機能はないが、その行為自体に意味がある。


「健やかに。そして強くありなさい、カノン」


 マリアが囁く。


「貴方の歩む道は、きっと険しいでしょう。茨が絡みつき、鉄屑が足を切り裂くかもしれない。……けれど、恐れることはありません。貴方の側には、最強の盾がついていますから」


 マリアの金色の瞳が、私を射抜いた。


「……そうですね? ヴィオラ」


 試されている。

 母になる覚悟を。最後まで守り抜く意志を。


「……ああ。私の命に代えても」


「いいえ」


 マリアは首を横に振った。


「命に代えてはいけません。……貴女も生きるのです。生きて、この子の成長を見届けるのです。それが、母の務めですよ」


 ハッとさせられた。

 私はどこかで、「死んで守ること」こそが究極の献身だと思っていた。S型の奉仕プログラムの弊害か、あるいは戦士としての死生観か。

 だが、マリアは言う。共に生きろと。


「……善処する」


「ふふ、素直じゃありませんね」


 マリアは笑って、カノンの頭を撫でた。

 教会のステンドグラス(割れたガラスを張り合わせただけのもの)越しに、夕日の残光が差し込み、カノンを照らした。

 まるで、世界がこの子の誕生を、ほんの少しだけ認めてくれたような気がした。


 教会の帰り道。

 日は完全に沈み、空には厚い雲が垂れ込めている。星は見えない。

 だが、地上のスラムには、ささやかな灯りが点り始めていた。

 その灯りの一つ一つに、誰かの生活があり、命がある。

 これまでは「守るべき弱者」の群れにしか見えなかった光景が、今は少し違って見えた。

 カノンもいつか、あの中で生きるのだ。

 私は腕の中のカノンを見た。

 彼は遊び疲れたのか、私の胸に顔を埋めて眠っている。

 私はミリンダに約束した。

 この子を最強の戦士にすると。この街を守るための、有用な道具に育て上げると。

 だが、それは嘘だ。

 いや、戦う術は教える。生き残るための牙は与える。

 けれど、それは誰かのために死ぬためじゃない。


「……大きくなれ、カノン」


 私は誰にも聞こえない声で呟いた。


「強くなれ。賢くなれ。……そしていつか、私の腕から飛び立っていけ」


 戦士になんかならなくていい。

 詩人でも、科学者でも、あるいはただの農夫でもいい。

 自分の意志で選び、自分の足で歩き、自分のために生きてほしい。


 原初命令プログラムに縛られた私たち機械人形オートマタにはできない生き方を、お前にはしてほしい。


 風が吹き、砂埃を舞い上げる。

 これから先、何度も危機が訪れるだろう。

 食料不足、機械軍の襲撃、人間の悪意。

 そして、いつかバレるかもしれない「出自の秘密」。

 だが、今はいい。

 私の胸にはIDカードがあり、腕の中には温かい命がある。

 それだけで、戦う理由は十分だ。


「帰ろう、カノン。……レベッカとアリサが待ってる」


 私はカノンを抱き直すと、地下へと続くゲートに向かって歩き出した。

 その足取りは、来る時よりもずっと軽く、力強かった。


 価値なき世界で、私たちは生きる。

 証明してみせる。

 鋼鉄のゆりかごで見る夢が、いつか現実の希望になることを。


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