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禁忌の産声:機械の母とカノン


 地下都市グレイブ334の夜は、地上よりも深く、そして重い。

 太陽の昇らないこの場所では、時間の概念はエネルギー反応炉の出力調整サイクルによってのみ知覚される。

 出力低下モード。所謂「深夜」の時間帯。

 主要な照明は落とされ、通路は非常灯の赤い光と、配管から漏れ出る蒸気の白さに支配されていた。

 私は、任務の報告を終えて居住区への帰路についていた。

 野盗から奪取した食糧によって、都市の飢餓状態は一時的に脱した。難民たちも、不満を持つ先住者たちも、胃袋が満たされれば大人しくなる。ここ数日は、不気味なほどの平穏が続いていた。

 だが、私のセンサーは常に微弱な緊張状態アイドル・アラートを解いていない。

 あのピースウォーカー部隊を葬って以来、全身の駆動系が熱を持っているような感覚が消えないのだ。

 S型の繊細な神経系が、過剰な戦闘経験によって軋んでいるのかもしれない。

 カツン、カツン、とブーツの音が無機質な鉄の廊下に響く。

 第3ブロック、B-302号室。私の部屋まであと少し。

 早くオイルを交換し、スリープモードに入りたい。そう思考した矢先だった。


「……ん?」


 聴覚センサーが、異質な周波数を捉えた。

 ノイズではない。循環ファンの唸りでも、蒸気の噴出音でもない。

 もっと有機的で、弱々しく、それでいて神経を逆撫でするような音。


 オギャア……オギャア……。


 泣き声?

 猫か? いや、この地下都市にペットなどという愛らしい生物は存在しない。いるとすれば、配管の隙間を這い回るネズミくらいだ。だが、ネズミはこんな声を上げない。

 私はP226のグリップに手をかけ、足音を消して角を曲がった。

 私の部屋の前。

 無機質な鉄扉の前に、それは置かれていた。

 薄汚れたプラスチック製のバスケット。どこかのゴミ捨て場から拾ってきたような代物だ。

 その中から、白い布にくるまれた「何か」が、小刻みに震えながら音を発している。


『Warning: Unidentified Object.(未確認物体)』


 スキャン開始。

 熱源反応あり。爆発物反応なし。生体反応……陽性。

 種別──『Human(人間)』。


「……は?」


 思考回路が一瞬、フリーズした。

 人間? こんな通路に?

 私は周囲を警戒しつつ、バスケットに近づいた。

 罠かもしれない。誰かが私を陥れるために、精巧なデコイを置いた可能性もある。

 慎重に、バスケットを覆うボロボロのタオルをめくり上げる。

 そこには、本当に人間がいた。

 赤ん坊だ。

 まだ生まれて間もない、しわくちゃで真っ赤な顔をした、男の赤ん坊。

 へその緒は切られているが、処置は雑だ。身体にはまだ羊水と血の匂いが微かに残っている。

 赤ん坊は寒さに震え、顔を歪めて泣いていた。その小さな口から、驚くほど力強い生命の叫びがほとばしっている。


「……なんだ、これは」


 状況が理解できない。

 ここは独身者用のアンドロイド居住区だ。人間が立ち入る場所ではない。

 誰が? 何のために?

 バスケットの縁に、小さな電子チップが挟まっているのが見えた。

 私はそれを指先でつまみ上げる。

 旧式のメッセージカード。表面には、震えるような文字で一言だけ殴り書きされていた。


『頼む。こいつに罪はない』


 誰に頼んだ? 私にか?

 ふざけるな。私は孤児院のシスターじゃない。戦闘用キメラのアンドロイドだ。

 こんな脆弱な有機生命体など、どう扱えばいいのかも分からない。

 即座に通報すべきだ。管理局へ連絡し、保護させればいい。それが最も合理的で、正しい判断だ。


 私は端末を取り出そうとした。

 その時。

 きゅっ。

 指先に、温かい感触があった。

 見ると、赤ん坊の小さな手が、私の人差し指を握りしめていた。

 驚くほど弱い力。少しでも力を込めれば、粉々に砕けてしまいそうな指。

 だが、そこから伝わってくる熱量は、私のEfリアクターよりも遥かに熱く、強烈だった。


『Analysis: Skin Contact. Temperature 36.5C. Pulse...』


 指先のセンサーが、赤ん坊の脈動を拾う。

 ドクン、ドクン、ドクン。

 速い鼓動。必死に生きようとするエンジンの音。


「……っ」


 胸の奥で、何かが軋んだ。

 S型の深層回路に刻まれた「愛玩・奉仕」のプログラムが、この接触に過剰反応を起こしているのか。それとも、もっと根源的な「何か」が共鳴しているのか。

 私は通報しようとした端末を、無意識のうちにポケットへ戻していた。


「……ここじゃ目立つ」


 私は誰に言い訳をするでもなく呟くと、バスケットを抱え上げた。

 軽い。中身が入っていないかと思うほどに。

 私はコートの前を広げ、バスケットごと赤ん坊を隠した。

 行き先は管理局ではない。

 この狂った世界で、唯一信用できる「イカれた医者」の元だ。


 地下第4階層、メンテナンスドック兼医務室。

 深夜の静寂を破り、私はそのドアを乱暴に開けた。


「アリサ! いるか!」


「……あらあら、ノックもなしですか? ヴィオラさん。夜這いなら歓迎しますけど、その殺気立った顔は色気がありませんねえ」


 奥の解剖台で何やら怪しげな臓器(おそらく違法な生体パーツ)をいじり回していたアリサが、顔を上げた。

 その横のソファでは、レベッカが工具箱を枕にして高いびきをかいている。

 私は返事も待たずに中へ入り、鍵をかけた。そして、抱えていたバスケットを解剖台の空いているスペース、臓器のすぐ横に置いた。


「おい、起きろレベッカ! 緊急事態だ」


「ああん……? 機械軍が攻めてきたのかよぉ……」


 レベッカが不機嫌そうに起き上がり、目をこする。

 だが、バスケットの中身を見た瞬間、二人の動きが止まった。


「……おい、嘘だろ?」


「これは……人間の新生児、ですね」


 アリサの声から、いつものふざけた調子が消えた。彼女はすぐに手袋を変え、赤ん坊の身体に触れる。

 手際よく身体測定を行い、聴診器を当てる。


「生後……半日も経っていないでしょう。低体温症になりかけていますが、バイタルは安定しています。男の子ですね」


「誰の子だ? ヴィオラ、まさかお前が産んだわけじゃねえよな」


「馬鹿を言うな。部屋の前に捨てられていたんだ。……これと一緒に」


 私はメッセージチップをアリサに渡した。

 アリサはそれを解析用端末に差し込む。

 モニターに波形が表示され、ノイズ混じりの音声データが再生された。

 男の声だ。ただし人間ではない。音声合成特有の平坦さがある。アンドロイド……それも、旧式のE型(工兵型)の声だ。


『……この記録を聞いているのが誰であれ、頼む。この子を助けてやってくれ』


 声は震えていた。恐怖と、悲しみと、そして必死の願いが込められていた。


『俺にはもう時間がない。治安維持局のドローンがそこまで来ている。……友人の頼みを、最後まで遂行しなきゃならないんだ』


「友人?」


 レベッカが怪訝そうに呟く。音声は続く。

『あいつは……俺のダチだった人間の男は、馬鹿な奴だった。本気でアンドロイドを愛しちまったんだ。……相手はS型の女性タイプ。名前も知らない、中古の機体だった』


 人間とアンドロイドの恋。

 珍しい話ではない。TYPE.Sは、そのために作られたのだから。人間を慰め、愛されるための玩具。だが、それはあくまで疑似的な関係だ。

 しかし、音声が語る内容は、そんな生易しいものではなかった。


『二人は子供を欲しがった。だが、機械に子供は作れない。……だからあいつは、超えちゃいけない一線を超えた』


 アリサが息を呑んだ。

 レベッカの顔が青ざめる。

 私も、嫌な予感に背筋が凍るのを感じた。


『あいつは闇ルートで、奴隷市場から人間の女を買った。……そして、その女を殺した。……子宮と卵巣を、生きたまま取り出すために』


「吐き気がするな」


 レベッカが呻く。

 私も同感だった。愛という名の狂気。目的のために同族を解体する人間の業。


『あいつは彼女、愛するS型の中に奪った子宮と卵巣を移植した。俺も手伝わされたよ。E型の精密作業スキルが必要だったからな……。手術は成功した。彼女の動力炉(Efリアクター)からエネルギーをバイパスして、臓器を生かす循環系を作ったんだ』


 医学的には不可能に近い。だが、アリサのようなマッドサイエンティストがいれば、あるいはE型の職人芸があれば、理論上は……。

 アリサが戦慄したように呟く。


「Efリアクターのエネルギーを生体維持に転用……。狂っていますが、天才的です。拒絶反応さえ抑え込めれば、アンドロイドの体内を『揺りかご』にすることはできる」


『そして、奇跡が起きた。彼女は妊娠したんだ。……腹が大きくなるにつれて、二人は幸せそうだった。だが、地獄はそこからだった』


 音声の中のE型が、声を震わせる。


『アンドロイドには、絶対に破れない命令があるだろう? ……原初命令だ』


 ──アンドロイドは人間に成り代わってはいけません。


 私の脳内に、その命令が浮かび上がる。

 境界を超えてはならない。人は人、機械は機械。


『胎児が育つにつれて、彼女の精神回路は悲鳴を上げ始めた。「私は機械だ」という認識と、「私は人間の母になる」という現実が矛盾し始めたんだ。……毎晩、彼女は叫んでいたよ。システムエラーの警告音と、頭をかきむしる音。……それでも、彼女は腹の子を守り続けた』


 想像を絶する拷問だ。

 自らの存在意義を否定するプログラムと、腹の中で育つ命への愛着。

 その矛盾の狭間で、彼女の精神はどれほど引き裂かれただろうか。同じS型として、その苦痛が我がことのように伝わってくる。


『そして今日、産気づいた。……帝王切開はできなかった。隠れ家には十分な設備がなかったし、何より彼女が拒否した。「産みたい」と言ったんだ。自分の力で、産道を通して、この子を送り出したいと』


 狂っている。

 機械の身体に産道などない。人工皮膚とフレームを無理やり拡張し、引き裂きながら産むことになる。

 それは自壊行為だ。


『壮絶だったよ。……彼女の下半身は砕け、冷却液とオイルと、そして羊水が混じり合って床を濡らした。……警報が鳴り響く中、赤ん坊の産声が聞こえた瞬間、彼女は笑ったんだ』


 音声データに、微かなノイズが混じる。それは泣き声のようにも聞こえた。


『「私は人間になれた」……そう呟いて、彼女の瞳の光が消えた。……システムが焼き切れたんだ。原初命令の限界を超えた負荷オーバーロードで』


 機能停止。死。

 愛する者の子を産むために、禁忌を犯し、自らを破壊した機械の母。

 彼女には名前すらなかった。ただのS型。男に愛され、母になろうとした、名もなき機械人形。


『あいつ、父親の男は生まれた赤ん坊を抱くことさえできなかった。直後に踏み込んできた治安維持部隊に拘束されたからな。……即日処刑だ。殺人と、禁忌の生体実験の罪で』


 当然の報いだ。人間を殺し、機械を狂わせた罪。

 だが、残されたこの命はどうなる?


『俺は隙を見て赤ん坊を連れ出した。だが、俺ももう手配されている。……ヴィオラ、あんたの噂は聞いている。アンドロイドでありながら、人間のために戦い続けるS型。……あんたなら、あるいは……』


 そこで音声は途切れた。

 その後に続くのは、遠くで聞こえるサイレンの音と、銃声のような破裂音だけだった。

 この録音を残したE型も、おそらくもうこの世にはいない。

 重苦しい沈黙が、医務室を支配した。

 赤ん坊、この呪われた物語の結晶は何も知らずに解剖台の上でむずがっている。


「……とんでもねえ話だ」


 レベッカが吐き捨てるように言った。

 彼女は工具箱を蹴飛ばし、苛立ちを露わにする。


「人間も機械も、どっちも狂ってやがる! どいつもこいつも、勝手な理屈で命を弄びやがって……!」


「……ですが、事実は事実です」


 アリサが冷静に、しかし氷のように冷たい声で言った。

 彼女は赤ん坊を見下ろしている。その目は、慈愛ではなく、冷徹な観察者の目だった。


「この子は医学的な奇跡であり、同時に倫理的な汚点です。……管理局ミリンダたちに知られれば、即座に処分されるでしょう。『部品窃盗と殺人の証拠物件』として」


 アリサの言う通りだ。

 この子は存在してはいけない。人間の尊厳を冒涜し、アンドロイドの境界を破壊して生まれたイレギュラー。

 グレイブ334の秩序を守るためなら、ミリンダは躊躇なくこの「証拠品」を焼却炉へ放り込むだろう。

 あるいはマリアならば、涙を流しながら「可哀想な子、せめて安らかに」と、その手で首を絞めるかもしれない。彼女たちの正義の前では、この子の命など塵芥に等しい。


「……ヴィオラさん。どうしますか?」


 アリサが私を見る。


「管理局に通報しますか? それが一番、合理的で安全な選択です。私たちには関係のない話ですから」


 通報。

 端末を取り出し、ボタンを一つ押せば終わる。

 私はこの重荷から解放され、また明日の任務に戻れる。

 この子は処分され、悲劇は幕を閉じる。

 それが、機械アンドロイドとしての正しい振る舞いだ。

 私は解剖台に近づいた。

 赤ん坊が、また泣き出した。


 オギャア、オギャア。


 その声が、私の胸のEfリアクターを共振させる。

 亡くなった名もなきS型。

 彼女は、最期に笑ったという。

 「人間になれた」と。

 それはバグだ。論理的なエラーだ。

 だが、なぜだろう。そのエラーが、私には何よりも尊いもののように思えてならない。

 私もまた、S型の身体に戦闘用の四肢を継いだキメラだ。

 ありのままの自分では生きられず、改造し、歪な姿で戦い続けている。

 この子も同じだ。

 機械の子宮から生まれ、人間の血とオイルの混じった産湯に浸かった、境界線の子供。


「……私の同類だ」


 口から、言葉が漏れた。

 それは論理回路が出した答えではなく、私のコアユニットの最も深い場所、魂と呼べるかもしれない場所から湧き上がった「意思」だった。


「見捨てられない」


 私は赤ん坊を抱き上げた。

 さっきよりも、少し重く感じた。それは命の重さだ。


「……ヴィオラ、お前、本気か?」


 レベッカが目を見開く。


「バレたらただじゃ済まねえぞ。マリア様やミリンダの耳に入れば、お前でも守りきれねえかもしれねえんだぞ」


 そうだ。私は最強ではない。

 この街には私より強い個体がいる。組織がある。

 それでも。


「なら、逃げるか? それとも戦うか? ……どちらにせよ、こいつを焼却炉にはやれない」


 私は赤ん坊の頬に指を触れた。柔らかい。温かい。

 この温もりを守りたいと思った。

 それは「人間を守れ」という原初命令ではない。

 もっと個人的で、独りよがりなエゴだ。

 私が、守りたいから守るのだ。


「……はぁーあ」


 レベッカが頭を抱え、盛大なため息をついた。

 そして、ニカっと笑った。


「しょうがねえなァ! 乗りかかった船だ。……共犯者になってやるよ」


「レベッカ」


「勘違いすんなよ? アタシは工兵型の腕が鈍るのが嫌なだけだ。……赤ん坊用のベッドなんて作ったことねえからな。腕が鳴るぜ」


「やれやれ……」


 アリサもまた、肩をすくめて苦笑した。


「私はマッドサイエンティストですが、児童殺しは趣味じゃありません。それに……機械から生まれた人間がどう育つのか、サンプルデータとしては極上ですしね」


 アリサは棚から栄養剤のボトルを取り出し、調合を始めた。


「ミルクの成分調整は任せてください。……それと、予防接種のスケジュールも組まないと。人間の赤ん坊は脆いですからね」


 私は二人の顔を見て、少しだけ口元を緩めた。

 最高の、そして最悪の仲間たちだ。


「……恩に着る」


「礼はいい。その代わり、覚悟を決めなさいよ、ヴィオラさん」


 アリサが真剣な眼差しで言った。


「貴女は今日から、兵士であると同時に『母』になるんです。……それは、戦場よりも過酷な任務ですよ」


 私は腕の中の赤ん坊を見下ろした。

 赤ん坊は泣き止み、私の顔をじっと見つめている。その瞳には、まだ世界の色は映っていない。

 母。

 S型の私が、母になる。

 それは、名もなき彼女が命を懸けて辿り着いた境地。

 私がそれを引き継ぐ。


「……任務、了解」


 私は静かに、しかし力強く宣言した。


 それから数時間。

 私の部屋、B-302号室は、即席の育児室へと変貌を遂げていた。

 殺風景だった部屋の隅に、レベッカが持ち込んだジャンクパーツ製のベビーベッドが置かれている。

 素材は廃材だが、溶接痕は丁寧に磨かれ、柔らかい緩衝材が敷き詰められている。揺りかご機能付きだ。さすがは天才工兵、仕事が早い。


「どうよ、この出来栄え。下手な既製品より上等だろ?」


「ああ。……少し派手だがな」


「うるせえな。赤ん坊ってのは派手な色が好きなんだよ」


 レベッカが得意げに鼻を鳴らす。

 私はベッドの横で、アリサが調合してくれた特製ミルクの入った哺乳瓶を手に、硬直していた。

 問題発生。

 ミルクをあげる体勢が分からない。


「……おい、ヴィオラ。何固まってんだ。早く飲ませてやれよ」


「分かっている。だが……」


 私は自分の手を見た。

 右腕はTYPE.A、左腕も修理済みとはいえ、中身は軍用の強化フレームだ。

 この腕は、人の首をへし折り、鉄骨を捻じ曲げるために作られている。

 出力調整を少しでも間違えれば、この柔らかい生命体を握り潰してしまうかもしれない。

 恐怖。

 戦場でドローンの群れに囲まれた時でさえ感じなかった、冷たい汗が背中を伝う感覚。


「怖いのか?」


 レベッカが真顔で尋ねる。


「……ああ。この腕は、抱擁には向いていない」


「馬鹿野郎」


 レベッカが私の背中をバンと叩いた。


「お前のその腕は、何のためにある? ただ壊すためか? 違うだろ。お前は今まで、その腕で何人守ってきたんだ。……ビビってんじゃねえよ。お前の『守りたい』って意思を、指先に込めろ」


 守りたい意思。

 私は深呼吸(排熱)をした。

 センサーの感度を最大まで上げる。指先の圧力を、マイクログラム単位で制御する。

 私は震える手で赤ん坊を抱き上げ、哺乳瓶の乳首を、その小さな口へと運んだ。

 ちゅっ、ちゅっ。

 赤ん坊が必死に吸いつく。

 温かい。

 ミルクが減っていく。命が、私の手から彼の中へと流れていく。

 その単純な行為が、とてつもなく神聖な儀式のように思えた。


「……飲んだ」


「当たり前だ。腹が減りゃあ飲むさ」


 レベッカが笑い、アリサが端末でデータを記録する。


「摂取量、良好。消化機能も問題なし。……強い子ですね。あんな状態で生まれたのに」


 ミルクを飲み干すと、赤ん坊は満足そうに欠伸をして、すぐに眠りに落ちた。

 寝顔は無防備で、そして平和だった。

 この子が、禁忌の子? 罪の証拠?

 そんなレッテルが馬鹿らしく思えるほど、ただ純粋な「命」がそこにあった。


「……名前、どうするんです?」


 アリサが小声で尋ねた。


「名前?」


「ええ。名無しの権兵衛ジョン・ドゥじゃ呼びにくいでしょう。それに、名前はその子の最初の『守り刀』になりますから」


 名前。

 亡くなった母親には名前がなかった。

 父親は名前を残す間もなく死んだ。

 この子には、何も与えられていない。

 私が、与えるのか。

 私は眠る赤ん坊の顔を見つめた。

 地下室には窓がないが、都市の時計は「朝」を告げようとしている。

 静寂の中で、私はある言葉を思い浮かべた。

 音楽用語。繰り返される旋律。

 そして、もう一つの意味。

 「規範」「戒律」。


「……カノン」


 私の口から、その言葉が自然と零れ落ちた。


「カノン(Canon)?」


 アリサが首を傾げる。


「音楽の?」


「ああ。……それと、古い言葉で『戒律』という意味もある」


「戒律……。ルールを破って生まれた子に、ルールという名を付けるんですか? 皮肉な話ですね」


「逆だ」


 私は眠るカノンの頬を、そっと指の背で撫でた。


「この世界は狂っている。人間が作ったルールも、機械が作ったルールも、矛盾だらけだ。……だからこそ、お前は誰かのルールに縛られるな。お前が、お前自身のルール(カノン)になれ」


 禁忌を背負って生きるなら、既存の法など超えていけ。

 そんな願いと、祈りを込めて。


「カノン……。悪くねえ響きだ」


 レベッカがニヤリと笑った。


「強く育ちそうだ」


 レベッカとアリサが帰った後、部屋には私とカノンだけが残された。

 カノンはベビーベッドで静かな寝息を立てている。

 私はその横に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。

 私の生活は一変するだろう。

 任務の合間にミルクを作り、オムツを替え、夜泣きをあやす。

 マリアやミリンダの目を盗み、秘密を守り通さなければならない。

 バレれば、私は反逆者として処分されるかもしれない。

 私には、マリアのような圧倒的なカリスマも、ミリンダのような指揮権限もない。戦闘能力だって、彼女たち上位機体に勝てる保証はない。

 だが。


「……安心しろ、カノン」


 私はP226を分解し、メンテナンスを始めた。

 オイルの匂いが部屋に充満する。それは、ミルクの甘い匂いと奇妙に混じり合っていた。


「お前の敵は、私が全部排除する。機械軍だろうが、人間だろうが、たとえ『聖母』だろうが……お前に牙を剥くなら、私が盾になり、剣になる」


 カチャリ、とスライドを組み上げる音が響く。

 それは、母親として、そして守護者としての、私の誓いの音だった。

 ベッドの中で、カノンがふにゃりと笑った気がした。

 ようこそ、地獄へ。

 そしてようこそ、私の愛しき息子よ。

 地下都市の人工太陽が灯り、新しい一日が始まる。

 それは、私の新しい「生」の始まりでもあった。



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