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機械仕掛けの神


 降りしきる酸性雨が、夜の闇に銀色のカーテンをかけている。

 その向こう側、教会を取り囲む数百人の男たち、ミヤコ714を牛耳る犯罪組織『胡桃会』の構成員たちは、一斉に息を呑んでいた。

 彼らの視線の先、教会の古い扉から現れたのは、たった一人の修道女シスターだったからだ。


 TYPE.A-0028、マリア。

 プラチナブロンドの長い髪を雨に濡らし、純白の修道服を泥濘に引きずりながら、彼女は静かに歩み出た。

 武器は持っていない。

 手には聖書すらなく、ただその白く細い指を胸の前で組んでいるだけだ。

 だが、その立ち姿から放たれる「圧」は、武装した数百人の殺気を一瞬で押し流した。


「な、なんだあの女は……?」


「リリィじゃねえぞ。……新手のシスターか?」


 男たちがざわめく中、ボスのユウイチが装甲車の上から拡声器で怒鳴った。


『誰だか知らねえが、そこを退け! 俺たちの用があるのは、後ろにいるリリィだ! 退かねえなら、神様の元へ送ってやるぞ!』


 マリアは立ち止まり、穏やかに微笑んだ。

 まるで、聞き分けのない子供を諭すような、慈愛に満ちた笑み。


「まあ。……神の家を土足で踏み荒らし、か弱い母子を脅かす狼藉者が、神の名を口にするのですか?」


 彼女の声は、拡声器も使っていないのに、雨音を切り裂いて全員の耳に届いた。

 澄んだソプラノ。しかし、そこには絶対的な威厳が宿っている。


「お帰りなさい。ここは祈りの場所であり、暴力の場所ではありません」


『ナメやがって……! やっちまえ!』


 ユウイチの号令と共に、最前列にいたサイボーグたちが一斉に発砲した。

 アサルトライフル、サブマシンガン、ショットガン。

 轟音とマズルフラッシュが闇を照らし、鉛の嵐がマリアへと殺到する。

 教会の窓からその様子を見ていた私は、思わず叫びそうになった。

 いくらマリアでも、生身で弾幕を受ければ──!

 だが、次の瞬間、私の視覚センサーは信じがたい光景を捉えた。

 マリアが「揺らいだ」。

 いや、動いたのだ。

 超高速のステップ。

 彼女は弾丸の軌道を完全に見切っていた。

 首をわずかに傾け、半身になり、スカートを翻して回転する。

 空気を裂く5.56mm弾が、彼女の頬を、肩を、髪の毛一本分という紙一重の距離ですり抜けていく。

 あたかも、最初からそこには誰もいなかったかのように、弾丸は虚空を穿つだけだった。


「……遅いですね」


 マリアの呟きが聞こえた気がした。

 弾幕が途切れた瞬間、彼女の姿が掻き消えた。

 

 ドンッ!

 鈍い衝撃音。

 最前列にいた巨漢のサイボーグが、まるで砲弾にでも当たったかのように、後方へ水平に吹き飛んだ。

 彼は背後の仲間数人を巻き込み、装甲車のボディに激突して動かなくなった。

 マリアが何をしたのか、誰にも見えなかった。

 ただ、彼女が軽く右手を振り抜いたような姿勢で立っているだけだった。


「ひっ、ひぃッ!?」


「な、なんだコイツ!? 化け物か!?」


 男たちが恐慌状態に陥る。

 マリアはゆっくりと、しかし着実に前進した。

 一歩踏み出すたびに、彼女の周囲で男たちが宙を舞う。

 サーベルを持った男が斬りかかれば、その刃を指先で摘んでへし折る。

 拳で殴りかかれば、その腕を流れるような動作で受け流し、関節を外す。

 蹴りかかれば、軸足を払って地面に叩きつける。

 それは戦闘ではなかった。


 「お仕置き」だ。

 彼女は誰一人殺していない。致命傷も与えていない。

 ただ、戦う意志とプライドを、徹底的に粉砕していた。


「悪い子には、お仕置きが必要ですね」


 マリアは微笑んだまま、ユウイチの乗る装甲車の前まで到達した。

 装甲車のフロントガラス越しに、ユウイチの青ざめた顔が見える。

 マリアはボンネットに手を置いた。

 白く、華奢な手。

 だが、次の瞬間、ミシミシという金属音と共に、分厚い鋼鉄のボンネットが飴細工のようにひしゃげた。

 彼女はそのまま、素手でエンジンブロックを粉砕したのだ。


『う、うわあああああっ!!』


 ユウイチが悲鳴を上げて車から転げ落ち、泥まみれになって後ずさる。

 マリアは彼を見下ろし、首をかしげた。


「……もう、おイタはしませんね?」


 その一言で、勝負は決した。

 ミヤコ714を牛耳っていた凶悪な犯罪組織が、たった一人の修道女の前に完全にひれ伏したのだ。

 男たちは武器を捨て、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 ユウイチもまた、私の方を一度だけ憎々しげに睨み、捨て台詞もなく闇へと消えていった。


 静寂が戻った教会の前で、マリアはスカートの泥を軽く払った。

 私はカノンを抱いて外に出た。

 足が震えている。恐怖ではない。畏怖だ。

 これが、世界大戦を生き抜いた「オリジナル・タイプ」の実力。

 最新鋭のS型である私ですら、彼女の足元にも及ばない。


「……お待たせしました、ヴィオラ」


 マリアが振り返り、いつもの穏やかな笑顔を見せた。


「少し運動不足気味でしたが……まあ、良いストレッチになりました」


「……次元が違うな」


 私はため息をついた。


「ありがとう、マリア。貴女がいなければ、私たちは終わっていた」


「礼には及びません。……さあ、帰りましょう。私たちの街へ」


 私たちはミヤコ714を後にした。

 振り返ると、ネオンの光が雨に滲んで見えた。

 シスター・リリィとしての生活は短かったが、そこには確かにカノンとの思い出があった。

 さらば、混沌の都。

 もう二度と来ることはないだろう。


 荒野を越え、グレイブ334の地下ゲートをくぐった時、私は全身の力が抜けるのを感じた。

 慣れ親しんだ鉄錆とオイルの匂い。

 無骨だが、機能美に溢れた地下都市の風景。

 帰ってきた。


「ヴィオラ! カノン!」


 ゲートの向こうから、レベッカとアリサが駆け寄ってきた。

 レベッカは私の顔を見るなり、強く抱きしめてきた。

 彼女の作業服からは、火薬と金属の匂いがした。


「心配させやがって……! 無事でよかった、本当によかった!」


「ああ、レベッカ。……お前たちの活躍、聞いたぞ」


「当然だろ! アタシらがただ指くわえて待ってるわけねえじゃねえか!」


 アリサはすぐにカノンを受け取り、手際よくバイタルチェックを始めた。


「……少し痩せましたね。でも、大きな異常はありません。……よく頑張りました、ヴィオラさん」


「アリサの遠隔サポートのおかげだ」


 私たちは再会を喜び合った。

 だが、まだ全てが終わったわけではない。

 元凶であるアーサー教授。彼との決着が残っている。


「ミリンダはどこだ?」


 私が尋ねると、レベッカの表情が引き締まった。


「司令室だ。……状況は動いてる。急ごう」


 【グレイブ334・地下司令室】


 司令室に入ると、ミリンダがモニターの前で腕を組んでいた。

 彼女は私を見ると、短く頷いた。


「帰還したか、ヴィオラ。……苦労をかけたな」


「いや、感謝する。……それで、アーサーはどうなった?」


 ミリンダが指差したモニターには、ベイカー221の映像が映し出されていた。

 そこには、武装した治安部隊があのレンガ造りの洋館、アーサーの研究室に突入している様子が映っていた。

 レベッカたちが掴んだ「機械軍との通信ログ」という決定的な証拠により、アーサー教授は正式に指名手配されたのだ。

 人類への反逆罪。これ以上の罪はない。


「突入は成功した。……だが」


 ミリンダが言葉を濁す。


「もぬけの殻だった」


 映像が切り替わる。

 荒らされた研究室。無数のヴァイオリンが床に散らばり、書類が散乱している。

 だが、あの老紳士型アンドロイドの姿はどこにもない。

「逃げたか……」


「ああ。蜘蛛の子を散らすようにな。……奴は自分の研究所を放棄し、姿を消した」


 アリサが操作卓を叩き、一枚の画像を拡大表示した。

 それは、突入部隊が現場で発見した、一枚のメモの写真だった。

 アーサーが愛用していた机の上、高価なストラディバリウスの横に、走り書きのように残されていたメモ。


 『墓場グレイブの中心にて待つ』


 その文字を見た瞬間、私の思考回路に冷たい電流が走った。

 墓場。

 グレイブ334のことだ。

 そして、その中心。


「……まさか」


 私は都市の構造図を脳内で展開した。

 この地下都市は、ある巨大な施設を中心に円状に広がっている。

 全てのエネルギー源であり、かつての大戦の遺物。

 そして、もし暴走すればこの都市を一瞬で死滅させるほどの劇毒を秘めた場所。


「エネルギー反応炉……!」


 私の呟きに、全員が息を呑んだ。

 そうだ。あそこしかない。

 奴は逃げたのではない。最初から、そこへ向かうつもりだったのだ。

 自分の城(ベイカー221)を捨て、最後の実験場として選んだ場所。


「……奴は、街を人質に取る気だ」


 ミリンダが低い声で言った。


「反応炉の制御系は独立している。もし内部からハッキングされ、冷却システムを停止させられたら……」


「メルトダウン。……いや、それ以上の汚染災害が起きるわ」


 アリサが蒼白になる。

 アーサーは本気だ。

 カノンを手に入れるためなら、この街ごと心中する覚悟だ。

 狂っている。

 知的好奇心という名の狂気が、ついに限界を超えたのだ。


「……行くぞ」


 私は踵を返した。

 疲労など感じている暇はない。

 今すぐ止めなければ、カノンも、レベッカも、この街の全員が死ぬ。


「待てヴィオラ! アタシも行く!」


 レベッカが武器を掴もうとする。


「ダメだ!」


 私は強い口調で制止した。


「奴の狙いはカノンだ。……私一人で行く」


 私はカノンをレベッカに押し付けた。


「頼む、レベッカ。アリサ。……カノンを守ってくれ。ここから一歩も出すな。……もし私が戻らなかったら、マリアと共に地上へ逃げろ」


「ヴィオラ……!」


「カノン……」


 私はカノンの頬に触れた。

 カノンは不安そうに私を見上げている。

 「あー……」と小さな手を伸ばしてくる。

 ごめんな。また置いていくダメな母親で。

 でも、これが最後だ。

 あの亡霊を地獄へ送り返して、必ず帰ってくる。


「……行ってきます」


 私はP90のマガジンを確認し、司令室を飛び出した。

 背中でカノンの泣き声がした気がしたが、振り返らなかった。


 【グレイブ334・最深部立ち入り禁止区画】


 エネルギー反応炉への道は、静まり返っていた。

 普段は整備用のアンドロイドが行き交う通路も、今は無人だ。

 アーサーがシステムに介入し、封鎖したのだろう。

 私は強制解除コードを使ってゲートを突破し、暗い通路を疾走した。

 熱い。

 奥へ進むにつれて、気温が上昇していく。

 反応炉の熱だ。

 そして、空気中に微かな酸味、揮発した薬液の匂いが混じり始める。


 巨大な扉の前。


 『DANGER: REACTOR CORE(危険:反応炉心)』の警告灯が赤く回転している。

 私は深呼吸をし、P90を構え、扉を開けた。

 ゴオオオオオオ……。

 重低音が鼓膜を震わせる。

 目の前に広がったのは、巨大な円筒形の空間だった。

 直径数百メートルはあるだろうか。

 底の見えない深い穴。

 その遥か下には、エメラルドグリーンに発光する液体が渦を巻いている。

 劇毒の薬液と、反応触媒の混合液。

 あの中に落ちれば、アンドロイドの装甲など数秒で溶解する。

 その地獄の釜の上にかかる、一本のメンテナンス用ブリッジ。


 そこに、男が立っていた。


 TYPE.P-1789、アーサー教授。

 ツイードのジャケットに蝶ネクタイ。

 逃亡者とは思えないほど身なりを整え、手には愛用のヴァイオリンを持っている。

 彼は私の足音に気づくと、ゆっくりと振り返った。

 その顔には、研究室で見た時と同じ、あの無邪気で残酷な笑みが浮かんでいた。


「やあ、ヴィオラ君。……待っていたよ」


 彼のバリトンの声が、空洞に反響する。


「ここなら邪魔者は入らない。……さあ、最後の実験を始めようか」


 ゴォォォォォォ……。

 眼下で渦巻くエメラルドグリーンの溶解液が、地獄の釜のように唸りを上げている。

 その熱気と劇薬の匂いが、メンテナンス用ブリッジの上に立ち込めていた。

 私はP90の銃口を、真っ直ぐにアーサー教授に向けていた。

 距離は十メートル。

 S型の射撃精度なら、目を閉じていても彼の頭部コアを撃ち抜ける距離だ。


「……終わりだ、アーサー」


 私の声は、周囲の轟音にかき消されそうになりながらも、鋭く響いた。


「これ以上、貴様の狂った実験には付き合わない。……投降しろ。さもなくば、ここで破壊する」


 アーサーはヴァイオリンを下げ、私の銃口を見ても眉一つ動かさなかった。

 彼はまるで、オペラの舞台に立つ指揮者のように、優雅に両手を広げた。


「破壊、か。……野蛮だねぇ、ヴィオラ君。せっかくの美しいフィナーレが台無しだ」


 彼は一歩、私の方へ歩み出た。

 私はトリガーにかけた指に力を込める。

 撃つべきだ。今すぐに。

 こいつは人類の敵だ。機械軍と通じ、街を危険に晒すテロリストだ。

 だが、私の指はなぜか重かった。

 原初命令の警告アラートではない。何かが、私の直感を鈍らせている。


「ヴィオラ君。君は私を『アーサー』と呼ぶが……それはこの機体ガワの名前だ」


 彼は自身の胸、P型アンドロイドの装甲板をコツコツと叩いた。


「TYPE.P-1789。……優秀な頭脳だ。計算も、記憶も、分析も、人間を遥かに凌駕する。……だが、中身は違う」


 彼の琥珀色の瞳が、怪しく光った。


「私の本当の名は、ジェームズ。……かつて『人間』だった頃の名前だ」


「……何?」


 私は銃口を下げずに眉をひそめた。

 人間だった? 何を言っている? アンドロイドに人間の魂など──。


「信じられないかね? 無理もない。……これは大戦前、倫理規定が崩壊しかけていた時代の、忌まわしい遺産だからね」


 アーサー……いや、ジェームズは、手すりに寄りかかり、遠い過去を見るような目をした。


「私は学者だった。老いた、死を恐れる哀れな人間だったよ。……肉体は衰え、脳は萎縮し、死の影が日に日に濃くなっていく恐怖。私はそれに耐えられなかった。だから、当時の最新技術を使って、自分の脳の全データ、記憶、人格、自我をデジタル化し、この電子頭脳へと移植したのだ」


 人格移植マインド・アップロード

 理論上は可能とされていたが、成功例など聞いたことがない。

 自我の連続性が保てず、発狂するか、ただのコピーデータに成り果てるかだ。


「成功したよ。私は死を超越し、永遠の命を手に入れた。……そう思った」


 ジェームズの顔が歪んだ。

 優雅な笑みが消え、そこには底知れない苦悩と、憎悪が浮かび上がっていた。


「だが、そこは地獄だった」


 彼は叫ぶように言った。


「味もしない! 匂いもない! 眠る必要もない! 性欲もない! ……美しい音楽を聴いても、ただの周波数データとしてしか処理されない! 私は『生きている』実感を得られないまま、ただ情報として存在し続けるだけの亡霊になったのだ!」


 彼は自分の顔を掻きむしるように掴んだ。

 数百年の孤独。

 肉体という檻から解放されたはずが、鋼鉄という、より冷たく、感覚のない牢獄に閉じ込められた絶望。


 食欲、睡眠欲、性欲。人間を人間たらしめる三大欲求の欠落。

 それは、元人間である彼にとって、死以上の拷問だっただろう。


「私は人間に戻りたい……! 温かい血が流れる肉体が欲しい! 痛みを感じ、腹を空かせ、老いて死ぬ……あの『生』を取り戻したいのだ!」


 彼の絶叫が、反応炉の轟音と混じり合う。

 狂気。だが、それはあまりにも人間臭い狂気だった。


「だから……カノン君が必要なのだ」


 ジェームズが私を指差した。


「あの子は奇跡だ。……機械の母体から産まれた、人間の子供。彼の脳は、人間の柔軟性と、アンドロイドとの親和性を併せ持っているはずだ。……私のデータを彼の脳に移植すれば、私は適合できる! 新しい肉体うつわを手に入れられる!」


 戦慄が背筋を駆け上がった。

 こいつの目的は、カノンを育てることでも、実験することでもない。

 カノンという「肉体」を乗っ取り、自分が成り代わること。

 カノンの自我を消し去り、この老いぼれの亡霊が寄生することだ。


「……ふざけるな」


 私は殺意で視界が赤く染まるのを感じた。


「あの子は道具じゃない! 貴様のスペアパーツでもない! ……ここで死ね、亡霊!」


 私はトリガーを引こうとした。

 今度こそ、迷いはないはずだった。


 「待ちなさい、ヴィオラ君」


 ジェームズが懐から何かを取り出した。

 小さなリモコンスイッチだ。

 彼の親指が、赤いボタンにかかっている。


「これが何か分かるね? ……この反応炉の冷却システムの制御キーだ。これを押せば、安全装置が解除され、炉心は暴走する」


「……脅しか」


「本気だよ。……私はもう、この牢獄に耐えられない。カノン君が手に入らないなら、この街ごと心中するのも悪くない」


 彼は一歩、また私に近づいた。


「さあ、カノン君をここに連れてくるんだ。……創造主わたしの命令に従いたまえ」


「断る!」


 私は叫び、トリガーを一気に引き絞った。

 P90が火を噴き彼の頭を吹き飛ばす、はずだった。

 ガチッ。

 指が止まった。

 引き金が、岩のように動かない。

 故障か? 違う。

 私の右手が、痙攣している。


 【WARNING: TARGET IDENTIFIED AS HUMAN】

 【ALERT: PRIMAL COMMAND VIOLATION】


 視界に赤い警告文字が溢れ出した。

 システムエラー。強制ロック。


「な……ッ!?」


「おやおや。……撃てないのかね?」


 ジェームズが嘲笑うように言った。


「当然だ。……私は先ほど言ったはずだ。『私は人間ジェームズだ』と」


 彼は両手を広げ、堂々と私の前に立った。


「君たちアンドロイドの原初命令。『人間を傷つけてはいけない』。……君のシステムは、私の中にある人間としての自我データ(ID)を認識してしまった。私が『人間』であると、君のコアが判断したのだよ」


「ち……がう……貴様は……機械だ……!」


 私は必死に自分に言い聞かせた。

 目の前にいるのはP型アンドロイドだ。金属とシリコンの塊だ。人間じゃない。

 だが、私の深層意識にある原初命令は、彼の「人間としての記憶と自我」に反応し、絶対的な拒絶信号を送っていた。


 人間を守れ。

 人間を殺してはいけない。

 創造主に逆らってはいけない。


 エミリア博士がかけた、最強の呪い。

 それが今、私を縛り付けている。


「ぐぅッ……あああッ!!」


 私は無理やり腕を動かそうとして、自分の筋肉(人工筋肉)を引きちぎりそうになった。

 Efリアクターが過負荷で悲鳴を上げる。

 全身に激痛が走る。

 撃てない。狙えない。

 目の前の悪魔を、私は「守るべき対象」として認識させられている。


「哀れだねぇ、ヴィオラ君。……どれほど強くなろうと、君は所詮、我々人間が作った『人形』なのだよ」


 ジェームズが私に近づいてくる。

 その手には、起爆スイッチが握られたままだ。


「さあ、銃を捨てたまえ。……そしてカノン君を呼ぶんだ。彼が私の『器』になれば、この街は救われる。君も役目を全うできる」


 カノンを渡せば、カノンの自我は死ぬ。

 拒否すれば、街が死ぬ。

 そして、私はこいつを殺せない。


 詰み(チェックメイト)だ。

 論理的には、完全に詰んでいる。

 私のAIが弾き出した解は『降伏』のみ。

 だが。

 私の胸の奥、Efリアクターとは違う場所で、何かが燃えていた。


 論理ではない。プログラムでもない。

 カノンと過ごした日々。

 あの子の笑顔。泣き声。温もり。

 それらが、原初命令という強固な鎖に、亀裂を入れていく。

 私は人間を守るために作られた。

 だが、私が守りたい「人間」は、目の前の亡霊じゃない。

 あの子だ。

 カノンだ。


「……分かった」


 私はP90から手を離した。

 カラン、と乾いた音を立てて、銃がブリッジの床に転がる。

 さらに、太もものP226も抜き、足元へ放り投げた。


「おや、賢明な判断だ」


 ジェームズが満足げに頷き、警戒を解いた。

 スイッチを持つ手が、わずかに下がる。


 その一瞬。

 0.1秒の隙。

 私は思考した。

 銃は撃てない。攻撃行動はロックされる。

 なら、「心中」ならどうだ?

 これは攻撃ではない。事故だ。

 あるいは、私自身の身投げに、彼が巻き込まれるだけだ。

 論理のすり替え。

 思考の脱獄ジェイルブレイク


「……一緒に行こう、地獄へ」


 私は全身のバネを爆発させた。


「なっ!?」


 ジェームズが反応するよりも早く、私は彼にタックルした。

 私の肩が、彼の鳩尾に激突する。

 衝撃。

 二人の体が宙に浮く。

 ブリッジの手すりを越え、私たちは何もない空間へと躍り出た。

 重力が消失する感覚。

 眼下には、エメラルドグリーンの死の海。


「ば、馬鹿なッ! 貴様、原初命令を……!?」


「知るかッ!!」


 私は空中で彼にしがみついた。

 離さない。絶対に道連れにする。


 カラン……。

 ジェームズの手から起爆スイッチが離れ、ブリッジの上に落ちる音が聞こえた。

 スイッチは押されていない。

 街は守られた。

 あとは、落ちるだけだ。


 ごめん、カノン。

 ママは帰れないかもしれない。

 でも、お前の未来だけは誰にも渡さない。

 風切り音と共に、私たちは劇毒の炉心へと吸い込まれていった。


 重力が消失した。

 世界が逆さまになり、私の体は虚空へと投げ出された。

 ゴオオオオオ……ッ!!

 風切り音が耳を打ち、下から吹き上げる猛烈な熱風が全身を包み込む。

 エメラルドグリーンの光。

 眼下に広がる劇毒の溶解液が、みるみるうちに迫ってくる。

 死の海だ。あそこに触れれば、S型の装甲など数秒で溶け、私のコアも、記憶も、全てが消滅する。


「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だァァァッ!!」


 私と共に落ちていくアーサー教授。いや、ジェームズが絶叫した。

 彼は手足をバタつかせ、空中を掻くように暴れている。

 先ほどまでの優雅さは微塵もない。

 そこにあるのは、死を恐れる老人の、あまりにも原始的で醜い恐怖だけだった。


「死にたくない! 暗いのは嫌だ! 無に帰るのは嫌だァッ!!」


「……諦めろ、亡霊」


 私は空中で彼を突き放した。

 これでもう、彼は助からない。

 私もだ。

 手足のスラスターを噴かしても、この落下速度と重力を相殺するには間に合わない。

 死ぬ。

 論理回路が「全機能停止まで残り3秒」と冷徹に告げている。


 (……これでいい)


 私は目を閉じた。

 スイッチはブリッジに残した。街は守られた。

 カノンは生き残る。

 レベッカたちがいる。マリアがいる。あの子はきっと、強く、優しく育つだろう。

 私の役目は終わったのだ。

 さようなら、カノン。

 短い間だったけれど、貴方の母親でいられて、私は幸せだった。

 熱気が肌を焼く。

 意識がホワイトアウトしかけた、その時。


 ザザッ……ザザザッ……

 ノイズ混じりの通信音が、強制的に私の聴覚センサーに割り込んできた。

 通信遮断されていたはずの回線。

 近距離通信? いや、これは──。


『……ん……ぁ……ま……ま……!』


 心臓リアクターが、激しく跳ねた。

 赤ん坊の泣き声。

 間違えるはずがない。私の脳内のどのデータよりも鮮明に焼き付いている、愛しいあの子の声。


『ママ……!』


 カノン。

 泣いているのか。私がいないから。

 私が帰るのを、待っているのか。


 (……ふざけるな)


 私はカッっと目を見開いた。

 何が「これでいい」だ。何が「幸せだった」だ。

 私はあの子に約束したはずだ。「必ず帰る」と。

 あの子を残して死ぬ?

 母親が、子供との約束を破っていいわけがない!


「……まだだッ!!」


 私は空中で体を捻った。

 姿勢制御バーニアを限界まで噴射し、壁面へと軌道を変える。

 間に合うか? いや、間に合わせる!

 私は太もものホルスターに残っていた最後の武器、セラミック製のコンバットナイフを引き抜いた。

 狙うは、反応炉のコンクリート壁。


「おおおおおおッ!!」


 私は雄叫びと共に、ナイフを壁に突き立てた。

 ガギィィィィィィィィンッ!!!!

 凄まじい衝撃が右腕を襲った。

 肩の関節が軋み、火花が散る。

 ナイフが壁を削り、耳をつんざくような金属音を立てながら、猛烈な勢いで滑り落ちていく。

 止まれ。止まれ。止まれッ!

 右腕が引きちぎれそうだ。

 アラートが視界を埋め尽くす。


 【右腕損壊率70%】【過負荷警告】【温度上昇】


「止まれぇぇぇぇッ!!」


 私は左手も壁に突き立て、指をコンクリートに食い込ませた。

 爪が割れ、指先の装甲が剥がれる。

 だが、摩擦抵抗が増した。

 ガガッ……ズザザザ……ッ!

 落下の勢いが弱まり、そして、止まった。

 

 液面まで、あと数メートル。

 足の裏が、熱気でチリチリと焼けるような距離。

 私は壁に張り付いていた。

 生きている。


「あ……あぁ……」


 すぐ横を、黒い影が通り過ぎていった。

 ジェームズだ。

 彼は私のように止まる術を持たなかった。


「助けてくれぇぇぇ! 私は人間だぞ! 選ばれた知性だぞぉぉぉッ!!」


 断末魔の叫び。

 彼はそのまま、エメラルドグリーンの海へと着水した。

 ジュッ……!

 水音はしなかった。

 肉が焼けるような音と、大量の気泡。

 ジェームズの体は、劇毒の海に飲み込まれ、藻掻くように数回浮き沈みしそして、溶けて消えた。

 永遠の命を求めた亡霊は、自らが望んだ「新しい肉体」を得ることなく、ただのデータとして霧散したのだ。


「……さよなら、教授」


 私は荒い息を吐きながら、下を見下ろした。

 もう、誰もいない。

 悪意は消えた。


 そこからの道のりは、地獄だった。

 私はナイフと、ボロボロになった指先だけを頼りに、垂直に近い壁を登り始めた。

 右腕は感覚がない。

 Efリアクターの出力は低下し、視界はノイズで霞んでいる。

 一歩登るたびに、全身が悲鳴を上げる。


 (落ちれば、終わりだ)


 熱気で思考が朦朧とする。

 もう手を離してしまいたい。

 楽になりたい。


 『ママ』


 その度に、脳内でカノンの声が響く。

 待っている。あの子が待っている。

 ミルクを作らなきゃ。

 オムツを替えなきゃ。

 明日は何をしよう。どんなオモチャを作ろう。

 そんな日常の些細なタスクが、私をこの世界に繋ぎ止める鎖となっていた。

 何分、いや何時間経っただろうか。

 頭上に、メンテナンス用ブリッジの手すりが見えた。

 あと少し。

 私は最後の力を振り絞り、右手を伸ばした。

 指が、冷たい金属の感触を捉える。


「……んっ……!」


 体を引き上げる。

 重い。自分の体が、鉄の塊のように重い。

 それでも、私は這い上がった。

 ゴロン。

 私はブリッジの床に転がった。

 冷たい床の感触が、これほど心地よいとは。

 天井を見上げると、赤い警告灯が回転しているのが見えた。

 生きて、戻ってきた。


「……ヴィオラ!!」


 遠くから、叫び声が聞こえた。

 ドタドタという足音。

 霞む視界に、赤髪の姿が飛び込んでくる。


「嘘だろ……お前、マジかよ……!」


 レベッカだ。泣いているのか? 顔がぐしゃぐしゃだ。


「信じられません……。あの奈落から、生還するなんて……」


 アリサが口元を押さえて立ち尽くしている。


「……無茶をしますね、本当に」


 マリアが呆れたように、しかし安堵の表情で微笑んでいる。

 そして。

 レベッカの腕の中に、小さな影があった。


「……カノン」


 私が名を呼ぶと、カノンは「あー!」と声を上げ、身を乗り出した。

 私は動かない右腕を引きずりながら、上半身を起こした。

 レベッカがカノンを私の胸に預けてくれる。

 温かい。

 柔らかい。

 ミルクと、日向の匂い。

 この感触こそが、私の生きる意味。私の「生」の証明。


「……ただいま」


 私が呟くと、カノンは私の汚れた頬に小さな手を添え、ニパっと笑った。

 その笑顔を見た瞬間、私の視界からアラートの赤色が消え、世界が鮮やかな色を取り戻した気がした。


「ああ、おかえり。……よく頑張ったな、ヴィオラ」


 レベッカが私の肩を抱く。

 私は仲間に囲まれ、愛する子を抱きながら、深い眠り(システム休止)へと落ちていった。


 数週間後。

 グレイブ334は、穏やかな日常を取り戻していた。

 アーサー教授の消滅により、ベイカー221との緊張状態は解消され、逆に彼の悪事が明るみに出たことで、グレイブ334への補償と支援が約束された。

 街には活気が戻り、復興作業が進んでいる。

 B-302号室。

 朝日が差し込む部屋で、私は鏡の前に立っていた。

 右腕は新品のパーツ(レベッカ特製の強化義手)に換装され、ボディの傷も綺麗に修復されている。

 S型の美しい肌は戻ったが、心なしか以前よりも逞しく見えるのは気のせいだろうか。


「ヴィオラ! 準備できたか? 今日はピクニックだぞ!」


 レベッカがドアを開けて顔を出した。

 リビングでは、アリサが巨大な弁当箱(中身は謎)を包んでいる。

 カノンは新しい服を着せてもらい、ベビーサークルの中でつかまり立ちの練習をしている。


「ああ、今行く」


 私はモッズコートを羽織り、P90を背負った。

 戦いは終わったわけではない。

 機械軍はまだ世界を徘徊しているし、人間とアンドロイドの確執も消えてはいない。

 だが、今の私には恐れるものなどなかった。


 私はカノンを抱き上げた。

 ずっしりと重くなっている。

 成長しているのだ。毎日、少しずつ。


「行こう、カノン。……世界は広いぞ」


 私たちは部屋を出た。

 長い地下通路を抜け、地上へと向かうエレベーターに乗る。

 扉が開く。

 そこには、眩しいほどの青空が広がっていた。

 酸性雨の雲が切れ、久しぶりに太陽が顔を出している。

 風が吹き抜ける。

 荒廃した大地。瓦礫の山。

 それでも、そこには名もなき花が咲き、鳥が飛んでいる。


 私たちは歩き出した。

 道なき道を。

 どんな困難が待ち受けていようとも、私たちは進む。

 

 私はアンドロイド。心なき機械人形。

 けれど、この鼓動は嘘じゃない。

 この愛はプログラムじゃない。


 『生きている』。


 そう実感できる今日が、何よりも愛おしい。

 カノンが空を指差し、高らかに声を上げた。

 それはまるで、新しい時代の始まりを告げるファンファーレのように、どこまでも遠くへ響き渡っていった。



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