ネオンの雨と二つの顔:聖女の祈り、罪人の求愛
【潜伏地点:地上スラム都市 ミヤコ714・第13番地区】
【潜伏日数:24日目】
【天候:酸性雨 / 視界不良】
空から降る雨は、いつだって冷たく、そして少しだけ鉄の味がする。
ミヤコ714の上空を覆う厚い鉛色の雲は、昼夜を問わずこの街に酸性の涙を落とし続けていた。
だが、住民たちはそんなものを気にしない。
彼らは傘も差さず、あるいは防水性の合成布を頭から被り、ネオンサインが毒々しく反射する水たまりを踏みつけて歩いていく。
私は、古い教会の軒下で、降りしきる雨を眺めていた。
身に纏っているのは、黒と白の修道服。
かつては動きにくい拘束具のように感じていたこの布切れも、今では私の第二の皮膚となっていた。
「……シスター・リリィ! こっち来てよ! ボールが屋根に乗っちゃった!」
雨音に混じって、子供たちの歓声が聞こえる。
教会の前の空き地(といっても、瓦礫を退けただけの泥地)で、スラムの子供たちがサッカーに興じている。
その中心に、私の愛しい「小さな同居人」の姿があった。
カノンだ。
彼もまた、泥だらけになって笑っている。
少し大きめのレインコートを着て、よちよち歩きでボールを追いかけている。
ミヤコ714の空気は汚いが、子供たちのエネルギーは、グレイブ334の清潔な地下都市よりも遥かに満ち溢れていた。
「はいはい、騒がないで。……神様は騒々しいのがお嫌いですよ」
私は苦笑しながら、修道服のスカートを軽く持ち上げ、空き地へと歩み出た。
子供たちが「シスター! 取って!」とせがむ。
私は屋根を見上げた。地上3メートル。
S型の身体能力を使えば、跳躍一発で届く。
だが、今は「シスター・リリィ」だ。人間離れした動きは見せられない。
「……よいしょ」
私は近くにあった木箱を踏み台にし、わざとらしく時間をかけてボールを回収した。
子供たちに投げ返すと、ワァッと歓声が上がる。
「ありがとう、シスター!」
「カノンも、あんよが上手になったね!」
子供たちはカノンを囲んで、頭を撫でたり、泥団子を渡したりしている。
カノンは嬉しそうに「あー! うー!」と声を上げ、泥団子を口に入れようとして年上の少女に止められている。
平和だ。
ここは犯罪者と脱落者の吹き溜まりだが、彼らは他人に無関心だ。
誰がどこから来て、何を隠しているかなど詮索しない。
アーサー教授の粘着質な視線がないだけで、こんなにも空気は軽く感じるのか。
「……マリアの言う通りだったな」
私は胸のロザリオに触れた。
グレイブ334を出て、一ヶ月近くが経つ。
レベッカたちは無事だろうか。アーサーの尻尾を掴めただろうか。
焦りと不安がないわけではない。
だが、今は待つ時だ。
この混沌の中で、カノンを守りながら。
日が暮れると、ミヤコ714は別の顔を見せる。
極彩色のネオンが一斉に灯り、街全体が巨大な電子回路のように脈打ち始める。
それと同時に、私も「別の顔」に着替える時間だ。
教会の奥、居住スペース。
私はカノンに夕食(市場で仕入れた合成ミルクと離乳食)を与え、寝かしつけた。
カノンは遊び疲れたのか、すぐに寝息を立て始めた。
「……いい子だ。朝までぐっすり眠るんだぞ」
私はベビーベッドの周りに、簡易的なセンサーを設置した。
そして、修道服の下、太もものホルスターにP226を固定し、背中にはコンパクトに折りたたんだP90を吊るす。
最後に、黒いベールを深く被り直す。
シスター・リリィの「夜勤」の時間だ。
この街で生きていくには金がかかる。
教会への賽銭など期待できない以上、私は自分のスキルを売って日銭を稼がなければならない。
私はカノンに別れを告げ、雨の夜へと踏み出した。
ミヤコ714の中心街、通称「赤龍通り」。
怪しげなマッサージ店、違法カジノ、そしてアンドロイド専門の娼館が軒を連ねる、欲望の坩堝。
その一角に、重厚な扉を構える会員制クラブ『胡桃』があった。
私は裏口から入り、セキュリティチェックを受けた。
屈強な黒服たちが、私を見てニヤリと笑う。
「よう、シスター。今夜もお勤めご苦労さん」
「……神のご加護を」
私は短く答え、奥のVIPルームへと向かった。
重低音のビートが床を震わせている。
紫色の煙が漂う店内では、着飾った男女やアンドロイドたちが酒と薬に溺れている。
ここを仕切っているのが、この街最大の人身売買・密輸組織『胡桃会』だ。
そして、私の雇い主でもある。
VIPルームの扉を開けると、革張りのソファに一人の男が座っていた。
年齢は40代半ば。
仕立ての良いスーツを着崩し、口元には葉巻をくわえている。
一見するとただの遊び人だが、その眼光は鋭く、そしてどこか冷めた色をしていた。
ユウイチ。
この『胡桃会』のボスであり、ミヤコ714の裏社会を牛耳る男。
「……遅いぜ、シスター。待ちくたびれて干からびるところだった」
ユウイチはグラスを傾けながら、気だるげに言った。
その声には、大人の男特有の色気と、危険な匂いが混じっている。
「申し訳ありません。……夜のお祈りが長引きまして」
「ハッ、熱心なこった。神様ってのも罪作りだな、こんな物騒な街に聖女様を派遣するなんてよ」
彼は笑い、私のために新しいグラスに琥珀色の液体を注いだ。
最高級のスコッチ……に見せかけた、高純度オイルのカクテルだ。
彼は私がアンドロイドであることを知っているし、その戦闘能力も高く評価している。
「座れよ。……今夜は少し、長話になりそうだ」
「仕事の内容は? 要人の護衛ですか、それとも密輸ルートの掃除ですか?」
私は座らず、直立したまま尋ねた。
私はここの従業員ではない。あくまで外部の契約用心棒だ。馴れ合いはしない。
特に、彼らの主力商品が「人間」であることを知ってからは、嫌悪感を隠すのに苦労している。
「つれないねぇ。……まあいい。仕事の話だ」
ユウイチは葉巻の煙を吐き出し、表情を引き締めた。
場の空気が変わる。
「最近、商売あがったりでね。……俺たちの使う密輸ルートのいくつかが、使えなくなっちまった」
「警察(自警団)の手入れですか?」
「まさか。あんな案山子ども、金でどうとでもなる。……問題なのは、もっと厄介な連中だ」
ユウイチは指で天井を指した。
天敵。
「機械軍だ」
私は眉をひそめた。
機械軍はこの一帯にも出没するが、基本的には無差別に破壊活動を行うだけだ。密輸ルートをピンポイントで封鎖するなど、戦略的すぎる。
「奴ら、最近妙な動きをしてやがる。……ただ暴れるんじゃねえ。検問みてえなことをしてやがるんだ」
「検問? 機械軍が?」
「ああ。主要な街道や、地下の抜け道を封鎖して、通る車両や人間を一台一台チェックしてやがる。……まるで、誰かを探しているみたいにな」
心臓が跳ねた。
誰かを探している。
機械軍が? 人類抹殺を掲げる殺戮機械が、特定個人を探す?
ありえない。
奴らにそんな高度な柔軟性はない。あるとすれば、それは……。
「……どんな人物を探しているんです?」
私は声を抑えて尋ねた。
ユウイチはグラスを揺らし、氷の音を響かせた。
「噂じゃあ……『赤ん坊を連れた女』らしい」
──ビンゴだ。
私の中で、全ての点が線で繋がった。
戦慄が背筋を駆け上がる。
機械軍が私を探している。
だが、機械軍のAIが独自に私に興味を持つはずがない。
つまり、誰かが機械軍に情報を流し、あるいは「命令」を下している。
そんなことができる人間は、この世界に一人しかいない。
アーサー教授。
あいつだ。
あいつはベイカー221のインフラを握っているだけでなく、人類の敵である機械軍とすら裏で通じているのか。
「カノンを取り戻す」という私欲のために、殺戮機械を私兵として使っているのか。
「……腐りきっている」
思わず声に出していた。
ユウイチが怪訝そうな顔をする。
「あ? 何か言ったか?」
「……いえ。機械軍にも好みがあるとは、世も末だと思いまして」
私は平静を装ったが、内側では激しい怒りと、ある種の確信が渦巻いていた。
これは「証拠」だ。
アーサー教授が機械軍と結託しているという事実は、人類社会に対する最大級の反逆罪にあたる。
これを公にすれば、ベイカー221の評議会どころか、全人類が彼を敵と見なすだろう。
彼を社会的に抹殺できる、最強のカード。
それが今、私の目の前に転がり込んできた。
だが。
「……伝えられない」
私は拳を握りしめた。
この情報を、グレイブ334のレベッカたちに伝えたい。
だが、通信手段がない。
ここから通信を送れば、アーサーに傍受され、逆探知される。
私がミヤコ714に潜伏していることがバレれば、機械軍の大部隊がこの街を包囲するだろう。
ジレンマ。
喉元まで出かかった「チェックメイト」の言葉を、飲み込まざるを得ない。
「……おい、シスター。顔色が悪いぞ?」
ユウイチが身を乗り出す。
「まさか、その『赤ん坊連れの女』ってのは、お前のことじゃねえだろうな?」
鋭い。
この男、伊達に裏社会で生き残っていない。
「まさか。私はただのシスターですよ」
私は聖女の仮面を被り直し、微笑んでみせた。
「教会の子供たちの世話で寝不足なだけです。……それで、私の仕事は? その機械軍の検問を突破することですか?」
「ハッ、まさか。俺はそこまで命知らずじゃねえよ」
ユウイチは笑って、新しい葉巻に火をつけた。
「今日の仕事は、店の警備だ。……最近、タチの悪い酔っ払いが多くてな。お前のその華奢な腕で、優しく眠らせてやってくれ」
「……承知しました」
私はVIPルームを出て、店のホールへと向かった。
重低音が響く中、私は祈るような気持ちで天井を見上げた。
頼む、レベッカ。アリサ。ミリンダ。
気づいてくれ。
機械軍の奇妙な動きに。アーサーの裏切りに。
私はここから動けない。声を上げることもできない。
あなたたちが、自力でその「尻尾」を掴んでくれることを信じるしかない。
ネオンの明滅が、まるでSOS信号のように私の網膜に焼き付いていた。
クラブ『胡桃』での業務は、深夜2時に終了した。
今夜のトラブルは、酔っ払ったサイボーグの喧嘩が2件と、支払いを渋った客の排除が1件。
S型の格闘術を使うまでもない。関節を極め、急所を軽く圧迫して意識を刈り取るだけの簡単な作業だった。
私は血の一滴も流さず、修道服に皺一つ作らずに「掃除」を完了させた。
「……お疲れ様でした、ボス」
私は裏口で待っていたユウイチに頭を下げた。
報酬は電子マネーではなく、現物支給(高純度のエネルギーパックと、裏ルートで仕入れた粉ミルク)だ。
足がつかないように配慮されている。
「送っていくぜ、リリィ。……この時間の雨は、特に質が悪い」
ユウイチは顎で愛車をしゃくった。
装甲強化された黒塗りのセダン。このスラム街には不釣り合いな高級車だ。
私は一瞬躊躇したが、断る理由もない。
助手席のドアが開かれ、私は滑り込んだ。
車内は静かだった。
外界の喧騒と雨音が遮断され、高級な革の匂いと、ユウイチの葉巻の香りが漂っている。
ワイパーが規則的なリズムで、フロントガラスを叩く酸性雨を拭い去っていく。
「……いい腕だったな」
ハンドルを握りながら、ユウイチが口を開いた。
「あの巨漢のサイボーグを、指一本で沈めるとは。……ただのシスターにしちゃあ、殺しの作法が良すぎる」
彼は横目で私を見た。
その目は、値踏みするような、それでいて獲物を狙う肉食獣のような光を宿している。
「昔取った杵柄ですよ。……神に仕える前は、少しばかり荒っぽい世界におりましたので」
「フッ、謙遜するなよ。……俺には分かる。お前はこっち側の人間だ。血と暴力と、金の世界が似合う」
車が赤信号(機能しているか怪しい)で停車した。
ユウイチが体をこちらに向け、真剣な眼差しで私を見据えた。
「なぁ、リリィ。……いつまで『シスターごっこ』を続ける気だ?」
空気が変わった。
ただの世間話ではない。
「俺の相棒になれ。……ただの用心棒じゃねえ。俺の隣に立つ女としてだ」
彼はコンソールから手を伸ばし、私の手の上に重ねようとした。
私はさりげなく手を引き、ロザリオを握りしめるフリをして避けた。
「このミヤコ714はゴミ溜めだが、黄金の山でもある。俺はこの街を完全に掌握するつもりだ。……だが、それには力が要る。お前のような、圧倒的で、美しい力がな」
ユウイチの声は、熱を帯びていた。
酔狂ではない。彼は本気だ。
私という「戦力」に惚れ込み、そしておそらく「女」としても興味を持っている。
「俺の女になれば、この街の半分をお前にやる。金も、権力も、最上級の生活も思いのままだ。……ガキを育てるにしても、ボロ教会でコソコソ生きるより、よほどいい環境を用意できるぞ?」
悪魔の契約。
アーサー教授の提案とは違う。
アーサーはカノンを「実験材料」として欲したが、ユウイチは私を「パートナー」として欲している。そして、その付属品としてカノンの面倒も見ると言っている。
生活の安定。物理的な安全。そして何より、この街で最強の後ろ盾。
カノンを守るためには、合理的な選択肢かもしれない。
だが。
私は彼の手を見つめた。
その手は、多くの血で汚れている。人身売買、麻薬、暴力。
他人の不幸の上に築かれた玉座。
そんなものの上に座って、カノンに胸を張れるか?
「お母さんは、この街の王女様になったのよ」と、血塗られた手で彼を抱けるか?
──否だ。
私の誇り(プライド)が、そして「母親」としての魂が、それを拒絶している。
「……光栄なお話です、ボス」
私は静かに、しかし冷ややかに微笑んだ。
相手は雇い主であり、この街の支配者だ。機嫌を損ねて敵に回せば、今の潜伏生活は終わる。
慎重に、言葉を選ぶ。
「貴方のような力ある殿方に求めていただけるのは、女として冥利に尽きます。……ですが」
私はロザリオを強く握りしめた。
「私はすでに、心に決めた『主』がおります」
「……神様ってか?」
ユウイチが面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「ええ。……私の全ては、そのお方に捧げております。そのお方は嫉妬深いのです。……他の誰かと手を組めば、きっとお許しにはならないでしょう」
嘘ではない。
カノンは私の神であり、王であり、全てだ。
彼以外の誰かに忠誠を誓うつもりはない。
「それに……貴方の稼業は、少しばかり私の戒律には刺激が強すぎます。……私は静かな祈りと、質素なパンがあればそれで幸せなのです」
やんわりと、しかし明確な拒絶。
「お前の生き方は否定しないが、私はその道を行かない」という意思表示。
車内に沈黙が落ちた。
雨音だけが響く。
ユウイチの表情が読めない。怒らせただろうか? ここで降ろされるか、あるいは……。
ふっ。
ユウイチが短く息を吐き、口元を歪めて笑った。
「……ハハッ、振られたか。手厳しいねぇ、聖女様は」
彼は葉巻を灰皿に押し付け、再びハンドルを握った。
殺気はない。むしろ、以前よりも楽しげな空気が漂っている。
「『質素なパンがあれば幸せ』か。……よく言うぜ。その瞳の奥には、もっと渇いた獣が住んでるくせにな」
車が動き出す。
「まあいい。……今はその『高嶺の花』っぷりを楽しませてもらうさ。だが、覚えときな。俺は欲しいものは手に入れる主義だ。……いつか必ず、その修道服を脱がせて、俺の色に染めてやる」
「……精進いたします」
私は小さく頭を下げた。
諦めるつもりはないらしい。
厄介な男だ。アーサーとは違うベクトルで、執着心が強い。
だが、敵意がないだけマシだ。
この「適度な距離感」を保ちながら、利用できるものは利用させてもらう。
教会に到着したのは、雨がさらに激しくなった頃だった。
ユウイチの車が走り去るのを見送り、私は裏口から教会へ入った。
湿った空気と、古い木の匂い。
居住スペースに戻ると、カノンはベビーベッドの中で、出発前と同じ体勢で眠っていた。
その健やかな寝息を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れた。
「……ただいま、カノン」
私は修道服を脱ぎ、P90とホルスターを外した。
戦士の装備を解き、ただの母親に戻る時間。
私はベッドの縁に座り込み、カノンの小さな手に触れた。
温かい。
ユウイチが提示した「街の半分」など、この温もりの前では塵にも等しい。
「……危ないところだったな」
私は独りごちた。
誘惑に負けたわけではない。だが、この生活が長引けば、いつか選択を迫られる時が来るかもしれない。
それ以上に、今夜得た情報は重大だ。
アーサー教授と機械軍の繋がり。
人類の敵と手を組んでまで、私とカノンを追い求める狂気。
私は窓の外、雨に煙る夜空を見上げた。
この空の向こう、遠く離れたグレイブ334に想いを馳せる。
レベッカ。アリサ。ミリンダ。
聞こえているか。
私はここで、必死に耐えている。
アーサーの尻尾は見えている。だが、私からは掴めない。
あなたたちが、この巨大な闇に気づき、光を当ててくれるのを待つしかない。
「……頼むぞ」
私は胸の前で手を組んだ。
神になど祈ったことはない。
だが、今夜だけは、見えない何かに祈らずにはいられなかった。
私の祈りが届くのが先か。
それとも、アーサーの機械軍がこの隠れ家を嗅ぎつけるのが先か。
あるいは、ユウイチの欲望が私を飲み込むのが先か。
三つの脅威が交差するこのミヤコ714で、私の綱渡りのような日々は続いていく。
「……おやすみ、カノン。……明日はきっと、いい日になる」
私はカノンの額にキスをし、P90を枕元に置いて横になった。
雨音は止まない。
それはまるで、これから訪れる嵐の前奏曲のように、静かに、激しく、夜を叩き続けていた。




