蜘蛛の巣を抜けて:偽りの聖女と吹き溜まりの都
【包囲開始から120時間経過】
【室温:34.5度 / 湿度:78%】
【カノンのバイタル:低下傾向】
B-302号室は、腐敗した温室のようだった。
空調は止まり、空気は淀み、熱気が逃げ場を失って部屋中に充満している。
私たちは暗闇の中で、じっと息を潜めていた。
動けば体力を消耗する。喋れば喉が渇く。
ここはもう、人が住む場所ではない。蜘蛛が獲物を弱らせるために作った、密封された「繭」の中だ。
「……うぅ……あー……」
ベビーベッドから、カノンの弱々しい声が聞こえた。
泣く元気すらないのだ。
脱水症状寸前。
備蓄していた水は底をつきかけ、最後の一本をちびちびと与えているが、この蒸し暑さが幼い体力を容赦なく奪っていく。
私はベッドの柵を握りしめた。
指が金属に食い込み、軋んだ音を立てる。
「……すまない、カノン」
謝罪の言葉しか出ない。
守ると誓ったのに。最強の戦士にすると約束したのに。
現実はどうだ。
ミルクも満足に与えられず、涼しい風すら送ってやれない。
ただ、見えない敵の悪意に晒され、じわじわと干からびていくのを眺めているだけだ。
『……ヴィオラ君』
脳内で、あのバリトンの声が響いた気がした。
幻聴だ。部屋の通信は遮断している。聞こえるはずがない。
だが、疲弊した私の論理回路は、幻覚と現実の境界を曖昧にしていた。
『楽にしてあげたまえ。……君が「降伏」と言えば、すぐに冷たい水と、栄養たっぷりのミルクを届けよう。……空調の効いた快適な部屋で、カノン君は健やかに育つ』
悪魔の囁き。
だが、それはあまりにも魅力的だった。
私のプライドを捨てれば、カノンは助かる。
私の意地が、この子を殺そうとしているのではないか?
「母親」を気取っているだけの、ただのエゴイストなのではないか?
「……渡せば、助かる……」
乾いた唇から、独り言が漏れた。
レベッカとアリサは、部屋の隅で泥のように眠っている。彼女たちも限界だ。
私が決断すれば、全て終わる。
楽になれる。
私はふらりと立ち上がり、ドアの方へ向かおうとした。
降伏を。敗北を認めに。
──パチンッ!
乾いた音が響いた。
私は自分の頬を、全力で殴りつけていた。
衝撃で視界が揺れ、幻聴が消し飛ぶ。
口の中に鉄の味が広がる。
「……ふざけるな、ヴィオラ」
私は自分自身を罵倒した。
何を血迷っている。
あいつに渡せば、カノンは「人間」としての尊厳を奪われ、一生飼育箱の中で生きることになる。
それは死よりも残酷な運命だ。
死にかけたカノンが、ベッドの中で私を見ていた。
その瞳は、まだ諦めていない。私を信じている。
「……まだだ。まだ、終わらせない」
その時。
部屋の電子ロックが解除リクエストを受信した。
敵か?
私は反射的にP226を構えた。
モニターに映ったのは、修道服を纏った女性。
マリアだった。
マリアは「祈りの訪問」という名目で、検問を通過してきていた。
アーサー教授といえど、この街の精神的支柱である彼女を無下に扱うことはできない。あるいは、彼女を通じて私に降伏を促そうとしているのかもしれない。
部屋に入ったマリアは、異臭と熱気が充満する惨状を見ても、眉一つ動かさなかった。
ただ、その金色の瞳に深い悲しみを湛えて、私とカノンを見つめた。
「……マリア」
「喋らないで、ヴィオラ」
マリアは人差し指を唇に当てた。
部屋の盗聴器はジャミングしているが、振動センサーや指向性集音マイクが壁の向こうから狙っている可能性がある。
マリアはバスケットから新鮮な水と食料を取り出し、テーブルに置いた。
レベッカとアリサが飛び起きて、すぐにカノンに水を与え始める。
その間、マリアは私に近づき、慈愛を込めて抱きしめた。
ふわりと、線香と百合の香りがした。
彼女は私の背中に手を回し、耳元に口を寄せた。
吐息よりも微かな、骨伝導に近いレベルの囁き声。
『……ここを出なさい』
私は目を見開いた。
逃げろと言うのか?
だが、どこへ? ベイカー221は敵地、グレイブ334は包囲下。荒野に出れば機械軍の餌食だ。
『北へ向かうのです。……地上を北へ150キロ。スラム都市「ミヤコ714」』
ミヤコ714。
聞いたことがある。旧時代の東洋文化圏の生き残りが作った街だと。
だが、そこは無法地帯だ。犯罪者、脱走アンドロイド、密売人が集まる、地上で最も治安の悪い「吹き溜まり」。
カノンを連れて行くには、あまりにも環境が悪すぎる。
『あそこなら、アーサーの目は届きません』
マリアは私の背中を一定のリズムで叩きながら続けた。
『彼の支配力は「秩序」と「システム」の上に成り立っています。……ですが、ミヤコは混沌そのもの。インフラも独立し、住人は誰も管理されていない。……彼の蜘蛛の糸が張れない場所です』
なるほど。
毒を以て毒を制す。
整然とした管理社会から逃れるには、泥沼の中に潜るしかない。
『貴女は「シスター・リリィ」として、ミヤコの教会に身を隠しなさい。……その間に、私たちがこちらの「蜘蛛」を狩ります』
マリアが体を離し、私の目を見つめた。
その瞳には、聖母の優しさと共に、歴戦の戦士としての冷徹な策謀の色が宿っていた。
『貴女たちを見失えば、アーサーは焦るでしょう。完璧主義者の彼にとって、未知の変数は許しがたい。……必ず、ボロを出します』
『……証拠を、掴むのか』
『ええ。彼が自らの足で、貴女たちを探し回るその瞬間こそが……彼が「ただの傍観者」ではなく「加害者」になる瞬間です』
反撃の狼煙だ。
私が囮になり、姿を消す。
焦ったアーサーを引きずり出し、その首を取る。
「……分かった」
私は小さく頷いた。
覚悟は決まった。
この窒息しそうな繭を破り、外の世界へ飛び出す時だ。
深夜。
脱出作戦が開始された。
正規のルートは使えない。監視カメラとセンサーが網の目のように張り巡らされている。
私たちが選んだのは、レベッカが見つけ出した「廃棄物処理ルート(ダストシュート)」だった。
「……最悪の道だな」
私はダストシュートの点検口を見下ろして呟いた。
そこからは、腐敗臭と下水の匂いが立ち上っている。
だが、ここだけが唯一、アーサーの綺麗な「蜘蛛の巣」が張られていない汚点だ。
「我慢しろよ。……これがお前らの『産道』だ」
レベッカがニカっと笑い、私の肩に重いバックパックをかけた。
中には、マリアが用意してくれた修道服と、カノンのための食料、薬品。
そして、レベッカが丹精込めてメンテナンスした愛銃たちが隠されている。
「P90の予備マガジンは6本。P226のサプレッサーも付けといた。……向こうは荒っぽい街だ。舐められないようにな」
「ああ。……手入れ、感謝する」
アリサがカノンに睡眠導入剤を投与した。
カノンは私の胸に抱かれたまま、深く眠っている。
これから通る過酷な環境に耐えられるよう、一時的に代謝を落とす処置だ。
「カノン君のカルテデータは、私の脳内に入っています」
アリサが自分のこめかみをタップする。
「何かあったら、暗号通信で連絡してください。……遠隔でも、私は主治医ですから」
二人の顔を見る。
オイルと煤にまみれたレベッカ。白衣が少し汚れたアリサ。
この数ヶ月、共に戦い、共にカノンを育ててきた「家族」。
彼女たちを置いていくことは、身を切られるように辛い。
だが、彼女たちにはここでやるべき戦いがある。
「……必ず、戻る」
私は二人の手を強く握った。
「アーサーを追い詰めてくれ。……トドメは私が刺す」
「おうよ! 首洗って待ってな!」
「カノン君によろしく。……お元気で」
私はカノンを抱き直し、ダストシュートの闇へと身を投じた。
滑り落ちる感覚。
強烈な悪臭。
だが、その先には微かな風が吹いていた。
自由の匂いだ。
グレイブ334の地下深くから這い出し、地上の荒野へと出た時、空は白み始めていた。
酸性雨が降っている。
私は修道服のフードを深く被り、カノンを雨から守った。
振り返ると、遠くにグレイブ334の排気塔が見えた。
さらば、私の家。
さらば、私の戦友たち。
私はコンパスを確認し、北へと足を向けた。
目指すは「ミヤコ714」。
混沌と欲望の都。
そこが私たちの新しい戦場だ。
北へ。ひたすら北へ。
道なき荒野を、私は歩き続けた。
空からは絶え間なく酸性雨が降り注ぎ、大地を灰色に染めている。
私は修道服の上から防水シートを羽織り、胸に抱いたカノンを雨から守った。
グレイブ334を出てから三日が過ぎていた。
疲労はピークに達している。Efリアクターの出力は安定しているが、足の関節駆動部に砂が噛み込み、軋むような音を立て始めている。
だが、止まるわけにはいかない。
背後には見えない蜘蛛の糸が伸びてきている。立ち止まれば、再び絡め取られる。
「……見えてきたぞ、カノン」
私は雨のカーテンの向こうに、異様なシルエットを捉えた。
荒野の地平線に突如として現れた、光と鉄屑の山脈。
旧時代の高層ビル群が倒壊しかけたまま寄り集まり、無数のパイプとケーブルで無理やり繋ぎ合わされた、巨大な建造物の塊。
スラム都市、ミヤコ714。
そこは、まるで巨大な生物の死骸に寄生する発光菌のコロニーのようだった。
極彩色のネオンサインが、雨に濡れた外壁を毒々しく照らしている。
『酒』『薬』『電子』『安息』……。
旧時代の東洋言語(漢字)と、無国籍なスラングが入り乱れる看板たち。
グレイブ334のような秩序ある地下都市とは違う。
ここは地上に露出した、混沌と欲望の吹き溜まりだ。
「……あそこなら、蜘蛛の巣も張れないだろう」
私はフードを深く被り直し、カノンに囁いた。
カノンは薬の効果が切れかけ、目をぱちくりとさせて光の山を見上げている。
行くぞ。
私たちの新しい隠れ家へ。
都市の内部は、想像を絶するカオスだった。
頭上を覆うのは空ではなく、幾重にも重なった増築建築と配管の網。そこから絶えず汚水と蒸気が滴り落ちている。
地面はぬかるみ、屋台から漂うスパイスと油の匂い、そして安っぽい合成麻薬の甘い香りが充満していた。
私は人混みを縫うように歩いた。
すれ違うのは、全身をサイバネティクス化したあぶれ者、非合法な改造を受けたアンドロイド、そして虚ろな目をした人間たち。
誰もが「訳あり」の顔をしている。
ここでは、誰も他人の素性など気にしない。
修道服を着た女が赤ん坊を抱いて歩いていても、数ある奇妙な光景の一つに過ぎないのだ。
──『おい、姉ちゃん。いい回路してるねぇ』
──『恵んでくれ……オイルを……』
──『新鮮な臓器、あるよ!』
雑多なノイズが耳を打つ。
私は視線を落とし、ロザリオを握りしめながら、ただひたすらに歩を進めた。
アーサー教授の整然とした管理社会とは対極にある世界。
不潔で、危険で、野蛮。
だが、今の私にとっては、この混沌こそが最高のシェルターだった。
ここなら、あの几帳面な教授の計算式も通用しない。
マリアから教えられた座標は、スラム街の最深部。
ネオンの光も届かない、暗い路地裏の突き当たりにあった。
古い木造の教会。
かつては神社か寺院だった建物を、無理やり教会に改装したような、奇妙な和洋折衷の建築物だ。
屋根は瓦だが、十字架が掲げられている。壁はトタン板で補修され、入り口の扉は半分腐りかけている。
「……ここか」
私は扉を押した。
ギィィィ……と、錆びついた蝶番が悲鳴を上げる。
中は無人だった。
祭壇には埃が積もり、ステンドグラス代わりの色付きビニールシートが風でバタバタと音を立てている。
誰もいない。神父も、信徒も。
マリアが手配してくれた、完全な「空白地帯」。
私は祭壇の前に荷物を下ろし、深く息を吐いた。
ようやく、屋根の下に入れた。
私はカノンを抱き上げ、その顔を覗き込んだ。
「……着いたぞ、カノン」
カノンはキョロキョロと周囲を見回している。
初めて見る極彩色の光、聞いたことのない騒音、嗅いだことのない匂い。
怖がるかと思ったが、彼は興味深そうに目を輝かせていた。
この子の適応能力には驚かされる。あるいは、S型の母親譲りの図太さか。
「ここが今日から、私たちの家だ」
私は教会の長椅子の埃を払い、そこに腰を下ろした。
安堵と共に、どっと疲れが押し寄せてくる。
だが、眠るわけにはいかない。まずは安全確保だ。
数日後。
ミヤコ714の裏通りに、奇妙な噂が広まり始めていた。
『路地裏のボロ教会に、新人のシスターが住み着いた』と。
『何か訳ありで、赤ん坊を連れているが、決して顔を見せない』と。
私は「シスター・リリィ」として、この街に溶け込み始めていた。
朝は教会の前を掃除し、訪れる浮浪者や怪我人に、ささやかな施し(アリサから持たされた薬品による応急処置)をする。
夜は扉を閉ざし、P90の手入れと、カノンの育児に専念する。
教会の奥、神父の居住スペースだった小部屋。
そこが今の生活拠点だ。
狭くて薄暗いが、グレイブ334で断水・停電させられていた時よりはずっとマシだ。
ミヤコ714のインフラは、違法な分岐接続(タコ足配線)によって蜘蛛の巣のように張り巡らされており、誰がどこで何を使っているかなど、管理者は把握していない。
つまり、水も電気も使い放題だ。
「……ふぅ」
私は割れた鏡の前で、修道服の襟を正した。
鏡に映るのは、清楚な修道女。
だが、そのスカートの下には、大口径の拳銃と、予備のマガジンが隠されている。
ロザリオの裏には、セラミック製のナイフ。
「……似合ってきたな、この格好も」
自嘲気味に笑う。
かつて「戦場の死神」と呼ばれた私が、今や「スラムの聖女」だ。
だが、悪くない。
この仮面を被っている限り、アーサーの目は届かない。
ベビーベッド代わりの木箱の中で、カノンが目を覚ました。
「あー!」と手を伸ばしてくる。
私は微笑んで彼を抱き上げた。
カノンの顔色は良くなっていた。ミヤコの空気は汚いが、アーサーの悪意に満ちた空気よりはずっと健康的らしい。
「今日は市場へ行こうか。……新しいオムツが必要だ」
この街には正規の店などないが、闇市に行けば何でも手に入る。
もちろん、支払いは現金(旧時代の貴金属やレアメタル)だ。
グレイブ334から持ってきた蓄えがあるうちはいいが、いずれ稼ぐ必要があるだろう。
……まあ、シスターの副業として、スラムの用心棒くらいなら務まるはずだ。
その頃、グレイブ334。
誰もいなくなったB-302号室に、乾いた電子音が響いていた。
壁に張り付いていた極小の蜘蛛型ドローンが、カノンのベッドだった場所を、空虚に見つめている。
『……消えた?』
ベイカー221の研究室で、アーサー教授はモニターを睨みつけていた。
常に余裕を湛えていた彼の表情から、笑みが消えている。
B-302号室からの生体反応が消失した。
カノンも、ヴィオラも、忽然と姿を消したのだ。
「馬鹿な。……私の包囲網は完璧だったはずだ。水も、食料も、移動手段も全て監視していた。……どこから逃げた?」
アーサーは爪を噛んだ。
想定外。
完璧な実験計画に生じた、致命的なエラー。
彼は端末を叩き、グレイブ334周辺の監視カメラ、交通網のログ、ドローンの記録を全て検索した。
だが、ヒットしない。
ヴィオラの影すら見当たらない。
「ダストシュートか? ……まさか、赤ん坊を連れてあんな汚物まみれの道を?」
アーサーの顔が歪んだ。
怒りではない。焦燥だ。
貴重なサンプルを失った喪失感と、自分の知能を上回る行動を取られた屈辱。
彼の「傍観者」としての余裕が、ガラガラと崩れていく。
「どこだ。どこへ行った」
彼は椅子を蹴り倒し、立ち上がった。
モニターの中のデータでは、もうヴィオラたちを見つけることはできない。
彼の支配領域の外へ逃げられたのだ。
「……探さねば」
アーサーは研究室の棚から、外出用のコートと帽子を取り出した。
ドローン任せではダメだ。部下任せでもダメだ。
あの母親は、私の予想を超えている。
ならば、私自身が動くしかない。
私の足で、私の目で、地の果てまで追いかけて、必ず連れ戻す。
「待っていろ、カノン君。……私のかわいい実験材料」
アーサーが研究室を出ていく。
その背中には、もう紳士の品格はなかった。
あるのは、獲物を追う捕食者の、飢えた執念だけだった。
ミヤコ714の夜は騒がしい。
遠くでサイレンが鳴り、酔っ払いの歌声と、改造バイクの爆音が絶えない。
だが、教会の扉を閉めれば、そこには静寂があった。
私はロウソクの火を灯し、P90の分解整備をしていた。
カノンは隣でスヤスヤと眠っている。
マリアからの暗号通信によれば、グレイブ334ではレベッカたちが動き出したらしい。
アーサーが焦り、自ら動き出すのを待っている。
蜘蛛は巣から出た時が一番脆い。
今頃、彼は血眼になって私たちを探しているはずだ。
探せ。焦れ。そして、その汚い足で泥の中へ踏み込んでこい。
私はオイルで光る銃身を布で拭い、カチリと組み上げた。
「……ここがお前の墓場だ、アーサー」
私はロウソクの炎を見つめた。
揺らめく光の中に、かつてないほど強い決意が燃えていた。
逃げるのはここまでだ。
次に会う時は、私が狩る側になる。
シスター・リリィの祈りは、神への感謝ではない。
愛する子を守るための、敵への鎮魂歌だ。
雨音が屋根を叩く中、ミヤコ714での潜伏生活が静かに幕を開けた。




