見えざる包囲網:絡みつく視線と鉄の決意
地下都市グレイブ334、B-302号室。
鋼鉄の扉が荒々しく開け放たれた。
私は部屋に飛び込むなり、リビングでカノンをあやしていたレベッカに駆け寄った。
彼女が反応するよりも早く、その腕の中からカノンをひったくるように奪い取る。
壊れ物を扱うような繊細さは、今の私にはなかった。ただ、確認したかった。
ここにいるか。無事か。奪われていないか。
「……っ、カノン!」
私の腕の中に、温かい重みがあった。
カノンは驚いて目を丸くしていたが、すぐに私の匂いを認識し、キャッキャと無邪気な声を上げた。
生きている。ここにいる。
あの霧の都(ベイカー221)には連れ去られていない。
「お、おいヴィオラ? どうしたんだよ、血相変えて」
レベッカが驚いたように立ち上がる。
「まるで幽霊でも見てきたような顔だぞ。……シスターの格好は似合ってたが、顔色が最悪だ」
私は膝から崩れ落ちるように床に座り込み、カノンを強く抱きしめた。
震えが止まらない。
恐怖回路が誤作動を起こしているわけではない。
肌にまとわりつくような、あの館の空気。アーサー教授の琥珀色の瞳。そして、カノンを「実験材料」と呼んだ、あの無邪気な声。
それらがオイル汚れのように精神にこびりついて離れないのだ。
「……レベッカ。アリサを呼べ。それとマリアもだ」
私はカノンの頭を撫でながら、震える声で告げた。
「緊急会議だ。……とんでもない『敵』に目をつけられた」
場所を移し、私たちは地上の廃教会、その奥にあるマリアの私室に集まった。
ステンドグラスから差し込む夕日が、部屋を赤く染めている。
円卓を囲むのは、私、レベッカ、アリサ、そしてマリア。
私はベイカー221で起きたことの全てを話した。
アーサー教授の正体。カノン誕生の経緯。そして、彼がカノンに対して異常な執着を持っていること。
「……あいつだ。あいつが全ての元凶だったんだ」
私は拳をテーブルに叩きつけた。
カノンの両親を狂わせ、悲劇的な死へと追いやった黒幕。
それを「実験」と呼び、嬉々として語る怪物の姿を思い出し、再び怒りが沸騰する。
「許せない。……今すぐあいつを殺しに行く」
私は立ち上がった。
「あんな奴を生かしておけば、いつか必ずカノンに手を出す。……殺られる前に殺る。それが鉄則だ」
私の殺気に、レベッカも同調して立ち上がる。
「おう、やってやろうぜ! パイルバンカーでその腐った脳みそを粉砕してやらぁ!」
だが、マリアの静かな声が、私たちの熱を冷やした。
「座りなさい、ヴィオラ、レベッカ。……それはなりません」
マリアは悲しげに、しかし断固として首を横に振った。
「なぜだ、マリア! 奴は悪だ! カノンを狙っているんだぞ!」
「ええ、知っています。……ですが、彼を殺せば、今度は私たちが『悪』になります。そして、カノンを守る場所そのものを失うことになるのです」
マリアはテーブルの上に広げられた地図、隣接都市ベイカー221の地図を指差した。
「アーサー教授は、ただの研究者ではありません。彼はベイカー221の『最高評議会』の一員であり、都市のエネルギー管理システムと医療インフラを統括する最重要人物なのです」
私は息を呑んだ。
一介のマッドサイエンティストだと思っていた男が、都市の支配層の一人だと?
「ベイカー221は、グレイブ334よりも遥かに政治力が強く、経済的に豊かな都市です。もし、我々の都市の住民が、彼らの評議員を暗殺したとなれば……どうなると思いますか?」
「……戦争か」
「それだけではありません。経済封鎖、エネルギー供給の停止、水脈の遮断……。グレイブ334は干上がり、カノンはおろか、ここの住民全員が生きていけなくなります」
アリサが補足するように口を開いた。
「それに、証拠がありません。アーサー教授がカノン君の両親を唆したという証拠は音声データにも残っていないでしょうし、彼自身が直接手を下したわけでもない。……法的に彼を裁くことは不可能です」
私の記憶にあるアーサーの言葉が蘇る。
『私は作り方を教えただけだ』。
そうだ。彼は実行犯ではない。ただ知識を与え、他人が破滅するのを特等席で眺めていただけだ。
自分の手は汚さず、安全圏から悲劇を鑑賞する。
それが一番タチが悪い。
「じゃあどうすんだよ!?」
レベッカが悔しそうに叫ぶ。
「指くわえて見てろってのか? 奴はカノンを狙ってんだぞ!」
「彼の手口は……暴力的ではありません」
マリアが静かに語る。彼女の瞳にはかつての知人への嫌悪と警戒が混じっていた。
「彼は、自分から手を汚すような真似は決してしません。……法を使い、経済を使い、あるいは他人の欲望を利用して、淡々と、しかし確実に欲しいものを手に入れる。それがアーサーという男です」
私は頭を抱えた。
南部大剣のように、正面から剣を振るってくる敵の方がよほどマシだ。
殴れば倒せる敵なら、どれほど楽か。
だが、今回の敵は「社会」という名の鎧を着ている。
P90も、パイルバンカーも通じない。
「……詰みか」
「いいえ」
マリアが私を見つめた。
「彼の武器が『知性』と『観察』なら、私たちも同じ武器で戦うのです。……彼の目はすでに、貴女たちに向けられています。その視線を遮り、彼の魔手が届かない聖域を作ること。それが、今できる唯一の戦いです」
視線。
そう言われた瞬間、背筋に寒気が走った。
ベイカー221で感じた、あのねっとりとした視線。
あれは、まだ続いているのか?
霧の都に置いてきたはずの悪意が、ここまで追いかけてきているのか?
「……帰るぞ」
私はカノンを抱き直した。
「部屋を調べる。……嫌な予感がする」
B-302号室に戻ったのは、夜も更けた頃だった。
カノンは私の腕の中で遊び疲れ、すでに眠りに落ちている。
私は彼をベビーベッドに寝かせ、電気を消した。
静寂。
いつも通りの部屋だ。
レベッカが作ったジャンク品のベッド。アリサが持ち込んだ怪しげな医療機器。壁に掛けられた私の銃。
何も変わっていない。
だが。
「……何かがいる」
私のS型センサーが、微かな違和感を訴えていた。
音ではない。匂いでもない。
空気の「圧」のようなもの。
誰かに見られているという、肌が粟立つような感覚。
「ヴィオラ?」
後ろにいたレベッカが小声で尋ねる。
「シーっ」
私は口元に指を当て、S型の索敵モードを最大感度まで引き上げた。
視覚センサーをサーモグラフィーに切り替える。
部屋中をスキャンする。
家具の隙間。床下。天井裏。
……反応なし。
気のせいか? 過敏になっているだけか?
いや、私のS型回路は、対人感情や視線察知に特化している。この悪寒には理由があるはずだ。
私はゆっくりと部屋の中央へ歩み出た。
視線を巡らせる。
どこだ。どこから見ている。
カノンのベッド。その真上。
天井の隅にある、換気ダクトの通気口。
そこに見えた。
サーモグラフィーでも捉えきれないほどの、微弱な熱源。
暗闇の中で、針の先ほどの赤い光が、瞬きもせずにこちらを見下ろしている。
目が合った。
「……貴様ッ!」
私は跳躍した。
壁を蹴り、天井の通気口へ飛びつく。
赤い光が動こうとしたが、遅い。
私はS型のしなやかな指で、その「異物」を鷲掴みにし、引きずり出した。
着地。
私は掌の中のものを床に叩きつけた。
ガシャンッ!
それは、掌サイズの機械だった。
多脚型。
蜘蛛だ。
金属製の脚を持つ、黒い蜘蛛型ドローン。
「なんだこりゃ!? 虫か!?」
レベッカが駆け寄る。
「……ドローンだ。超小型の偵察機」
私はブーツの踵で、這い回ろうとする蜘蛛を踏みつけた。
グシャリ。
金属がひしゃげる音が響く。
その時だった。
踏み潰された残骸から、ノイズ混じりの音声が流れた。
『……おやおや。手荒だねぇ』
低く、深い、バリトンの声。
忘れるはずもない。
数時間前に聞いたばかりの、あの男の声だ。
「アーサー……!」
『見つかってしまったか。やはりS型の直感は素晴らしい。……私の可愛い子供が、いとも簡単に見つけられるとはね』
スピーカー越しの声は、悔しがるどころか、楽しんでいるように聞こえた。
『可愛い寝顔だったよ、カノン君。……ミルクを飲んで、オムツを替えて、泣いて、笑って。……実に興味深いデータが取れた』
全身の血液が沸騰する感覚。
見ていたのか。
私たちがカノンをあやし、慈しみ、必死に育てているこの聖域を、こいつはずっと覗き見ていたのか。
この部屋にプライバシーはない。
常に粘着質な視線が、カノンの肌を舐め回していたのだ。
「……覗き見趣味の変態野郎が」
私はドローンの残骸に向かって、地獄の底から響くような声で言った。
カノンが目を覚まさないよう、音量は抑えているが、殺意は隠さない。
「ここがお前の限界だ。……二度とこの部屋に、カノンに、指一本触れさせない」
『ふふふ。……頼もしい母親だ』
アーサーの声が、嘲笑うように響く。
『だが、これは始まりに過ぎないよ。私は君たちを知りたい。カノン君を知りたい。……知識欲という名の愛は、誰にも止められないのだよ。
楽しみにしておきたまえ。……私がどうやって君たちを絡め取るか』
プツン。
通信が切れた。
部屋に重苦しい沈黙が戻った。
床には、潰れた蜘蛛の死骸。
だが、私には部屋の隅々、影の一つ一つに、まだ無数の目が潜んでいるように思えてならなかった。
「……上等だ」
私はカノンのベッドの前に立ち、仁王立ちになった。
「戦争だ、アーサー。……お前の薄気味悪い知識欲が勝つか、私たちの執念が勝つか。徹底的にやってやる」
踏み潰した蜘蛛型ドローンの残骸から煙が上がる中、私たちは即座に行動を開始した。
敵の「目」は、すでにこの部屋の中にまで入り込んでいた。
これは潜入ではない。侵略だ。
カノンという聖域を守るため、私たちはB-302号室の徹底的な要塞化に着手した。
「アリサ! 電子戦用意! この部屋の通信を全て遮断しろ!」
「了解です! ジャミング装置を展開、外部からの不正アクセスをシャットアウトします! ……ですが、これで私たちの通信も圏外になりますよ?」
「構わん! 覗かれるよりマシだ!」
私はカノンを抱きかかえたまま部屋の隅、死角となる壁際へ移動した。
アリサが医療用端末をハッキングモードに切り替え、部屋中にノイズキャンセラーと電波妨害装置を設置していく。
空間が微かに振動し、外部とのデジタルな繋がりが断たれた感覚がある。
「レベッカ! 物理封鎖だ! 隙間という隙間を埋めろ!」
「おうよ! 任せときな!」
レベッカは工具箱から溶接機と、極細の金属メッシュを取り出した。
彼女は天井の通気ダクト、ドアの隙間、配管の接合部、さらにはコンセントの穴に至るまで、徹底的に塞ぎにかかった。
バチバチッ!
青白い火花が散り、溶接の匂いが充満する。
「空気の通り道以外は全部塞ぐ! 蟻一匹通さねえぞ!」
「空気もフィルターを通せ! マイクロドローンが混入する可能性がある!」
「チッ、神経質なこった! ……おい、フィルターの予備持ってこい!」
深夜のB-302号室は、戦場さながらの喧騒に包まれた。
カノンは溶接の音と私たちの殺気に驚き、泣き出しそうになったが、私は必死に背中を撫でて落ち着かせた。
「大丈夫だ、カノン。……ここは安全だ。ママたちが、絶対に守る」
数時間後。
部屋は様変わりしていた。
通気口は幾重ものフィルターとメッシュで覆われ、壁にはジャミング装置が点滅し、ドアには追加の電子ロックと物理バーが取り付けられた。
完全な密室。
これなら、どんな高性能なドローンも侵入できない。物理的にも、電子的にも、ここは孤立した「要塞」となったはずだ。
「……ふぅ。これでどうだ」
レベッカが煤けた顔を拭いながら、満足げに溶接機を置いた。
アリサも端末を操作し、頷く。
「エリア内の不審な信号、オールクリア。……これで『目』も『耳』も届かないはずです」
勝った。
私はカノンをベッドに寝かせ、安堵の息を吐いた。
アーサー教授の好奇心は、この鉄壁の守りの前に遮断されたはずだ。
……そう、思っていた。
翌朝が来るまでは。
翌朝。
カノンの「まんまー!」という元気な声で目を覚ました私は、いつものようにミルクを作ろうとキッチンへ向かった。
蛇口をひねる。
ボコッ、ボコッ……シュー……。
水が出ない。
蛇口からは、錆びた空気の音と、わずかな泥水が垂れるだけだった。
「……断水?」
私は眉をひそめた。
グレイブ334のインフラは古いが、ここまで完全に止まることは珍しい。
仕方なく、備蓄していたミネラルウォーターを使うことにした。
電気ポットのスイッチを入れる。
スンッ。
ランプがつかない。
部屋の照明も消えている。
「停電……?」
背筋に冷たいものが走った。
水も、電気も、同時に?
偶然か? いや、そんなはずはない。
私はドアを開け、通路を見た。
通路の非常灯はついている。隣の部屋から微かにテレビの音も聞こえる。
つまり、このブロック全体が停電しているわけではない。
ピンポイントで、「私の部屋だけ」が遮断されている。
「……やりやがったな」
レベッカが起きてきて、蛇口をひねり、悪態をついた。
「インフラ攻撃かよ! 陰湿な野郎だ!」
「アーサー教授は、ベイカー221の評議員……。エネルギー供給ラインに介入する権限を持っていると言っていたな」
私は歯噛みした。
物理的に侵入できないなら、ライフラインを絶って干上がらせる気か。
「カノンのミルクが作れない。……備蓄の水とカセットコンロで凌ぐしかない」
「でも、それじゃあ長くは持ちませんよ」
アリサが深刻な顔で言う。
「お風呂も入れない、空調も動かない。……衛生環境が悪化すれば、カノン君が病気になります」
私たちの努力(要塞化)をあざ笑うかのような、搦め手からの攻撃。
壁を作れば作るほど、内側から腐っていく。
その日の午後。
私は物資を調達するため、カノンをレベッカたちに預けて外に出た。
水、食料、そして新しい粉ミルクが必要だ。
行きつけの補給所。
店主のE型アンドロイドは、いつもなら「よう、ヴィオラ」と気安く声をかけてくれる古い馴染みだ。
だが、今日は違った。
私が店に入ると、彼は気まずそうに目を逸らした。
「……すまない、ヴィオラ。今日は売れるものがないんだ」
「何? 棚には並んでいるじゃないか」
「いや、その……『予約済み』なんだ。全部」
明らかな嘘だ。
私はカウンターに詰め寄った。
「ふざけるな。カノンのミルクがないんだ。一缶でいい、売ってくれ」
「ダメなんだ!」
店主が悲痛な声で叫んだ。
「お前に売ると……俺の店への供給が止まるんだよ! 『上』からの通達だ。……ヴィオラ、お前、一体誰を怒らせたんだ?」
『上』からの通達。
ベイカー221からの圧力か。
グレイブ334の物資の多くは、豊かな隣接都市であるベイカー221からの輸入に頼っている。
アーサーは、その物流ルートすら握っているのか。
「……そうか。迷惑をかけたな」
私は店を出た。
他の店も回ったが、結果は同じだった。
あるいは露骨に拒否され、あるいは「在庫がない」と断られ、あるいは法外な値段をふっかけられた。
街中が、私を避けている。
見えない壁。
アーサーが張り巡らせた「経済封鎖」という名の蜘蛛の巣が、私とカノンを社会的に孤立させていく。
私は手ぶらで、重い足取りで居住区へ戻った。
カノンに飲ませるミルクがない。
最強の戦闘力があっても、粉ミルク一缶すら手に入らない無力感。
拳を握りしめすぎて、掌からオイルが滲んだ。
部屋の前まで戻ると、ドアノブに何かが掛かっていた。
綺麗に包装された、小さなバスケットだ。
罠か? 爆発物か?
私は慎重に中身を確認した。
中に入っていたのは、最高級の粉ミルクの缶と、清潔なミネラルウォーター。
そして、栄養価の高い離乳食の瓶詰め。
私が今日一日、街中を駆けずり回っても手に入らなかった必需品の数々だ。
添えられたカードには、優雅な筆記体でこう書かれていた。
『困っているようだね。カノン君がお腹を空かせては可哀想だ。……遠慮なく使いたまえ。 アーサー』
「……ッ!!」
私はバスケットを壁に叩きつけそうになった。
ふざけるな。
インフラを止め、物流を止め、私たちを追い詰めておいて、「恵んでやる」だと?
これは慈悲ではない。
「お前たちにカノンを育てる能力はない。私の管理下になければ、あの子は生きていけないのだ」という、無言のメッセージだ。
私たちの親としての尊厳を踏みにじる、最悪の侮辱。
だが。
部屋の中から、カノンの泣き声が聞こえる。
空腹の訴えだ。備蓄はもう底をついている。
このミルクを捨てれば、カノンが飢える。
私のプライドと、カノンの命。天秤にかけるまでもない。
「……くそっ、くそっ、くそっ!!」
私は屈辱に唇を噛み切りながら、そのバスケットを拾い上げた。
負けた。
暴力ではない戦いで、完膚なきまでに叩きのめされた。
部屋に入り、私は無言でミルクを作った。
アリサが成分を分析する。
「……毒物反応なし。ナノマシン等の混入もありません。極めて高品質な、完全栄養ミルクです」
「そうか」
安全なのが、余計に腹立たしい。
カノンはミルクをごくごくと飲み干し、満足そうに眠った。
その寝顔を見ながら、私たち三人は沈黙していた。
部屋は薄暗い。電気は止まったままだ。
暑い。空調も止まっている。
私たちは汗(冷却液)を拭いながら、暗闇の中で車座になっていた。
「……完敗だな」
レベッカが力なく笑った。
「壁を塞いでも、ジャミングしても、関係ねえ。……あいつは、この部屋の外側から、アタシらの首を絞めてきやがる」
「物理的な侵入を防ぐだけでは意味がありませんでした」
アリサが悔しそうに爪を噛む。
「彼は、私たちが『社会』の中で生きていることを利用しています。……カノン君を育てるには、水も、電気も、物資も必要。その全てを握られている以上、私たちは籠城戦すらできない」
蜘蛛の巣だ。
逃げ場はない。動けば動くほど絡め取られ、最後には捕食者の前に引きずり出される。
このままでは、いずれカノンを差し出さざるを得なくなる。
「子供のために」という大義名分のもとに。
「……どうすればいい」
私は眠るカノンの頭を撫でた。
殺せない。逃げられない。守りきれない。
私の戦闘スキルも、S型の機能も、ここでは何の役にも立たない。
その時。
部屋の隅、通気口を塞いだメッシュの向こうから、微かな音が聞こえた。
カサカサ、カサカサ。
入っては来れない。だが、確かにそこにいる。
無数の蜘蛛たちが、壁の裏で、天井裏で、私たちを取り囲んで這い回っている音。
『聞こえているかい? ヴィオラ君』
踏み潰していなかった別のドローンか、あるいは壁越しに振動を伝えているのか。
アーサーの声が、部屋の空気を震わせた。
『感謝したまえよ。そのミルクは特注品だ。……君たちの粗末な稼ぎでは買えない代物だよ』
「……黙れ」
『無理をする必要はない。……カノン君を私に預ければ、最高の環境を用意しよう。水も、電気も、教育も、全てが手に入る。……君のその薄汚れた部屋で、汗まみれになって育てるより、よほど幸福だと思わないか?』
悪魔の囁き。
論理的には正しい。
私のエゴで、カノンに不自由な思いをさせているのは事実だ。
だが、あいつに渡せばカノンは「人間」ではなく「実験動物」になる。
それだけは、絶対に認めない。
「……お断りだ」
私は立ち上がり、壁に向かって叫んだ。
声が震えていたかもしれない。だが、意志は込めた。
「カノンは私が育てる。……泥水をすすってでも、暗闇の中で暮らしてでもだ! 貴様の飼育箱には入れさせない!」
『ふむ。……強情だねぇ』
アーサーの声には、まだ余裕があった。
『まあいい。人間は環境に依存する生き物だ。いつまで耐えられるかな? ……私は気長に待つよ。蜘蛛が網にかかった蝶を待つようにね』
音が消えた。
だが、気配は消えない。
部屋を取り囲む無数の視線と、社会的な包囲網。
私はカノンを抱きしめたまま、暗闇の中で朝を待った。
これは長期戦になる。
銃弾の飛び交わない、精神と生活を削り合う、陰湿で冷酷な戦争。
負けない。
絶対に、負けない。
私は母親だ。この子の未来を、あんな怪物の好奇心に食わせてなるものか。
私は暗い部屋の隅で、獣のように目を光らせ、見えない敵を睨み続けた。




