表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/16

霧の都の狂奏曲:蜘蛛の糸とシスター・リリィ


 その手紙は、場違いなほど上質な封筒に入って届いた。

 地下都市グレイブ334の郵便ポストには似つかわしくない、厚手のクリーム色の紙。封蝋には、蜘蛛とヴァイオリンを組み合わせたような奇妙な紋章が押されている。

 宛名は、『親愛なるヴィオラ嬢、及びその小さき同居人へ』。

 私はB-302号室のリビングで、その手紙を広げ、眉間の皺を深くしていた。

 カノンは私の膝の上で、封筒の切れ端をオモチャにして遊んでいる。


「……気持ちが悪い」


 私は率直な感想を漏らした。

 手紙の内容は、極めて丁寧かつ紳士的な文体で綴られていた。


 曰く、「貴女たちの噂を聞き及んだ」。

 曰く、「私の研究室がある隣接都市『ベイカー221』へ招待したい」。

 そして、「貴女が育てている『人間の子供』について、有益な情報交換ができるだろう」と。


 差出人は、アーサー教授。識別番号 TYPE.P-1789。


 P型プロフェッサー。学術・研究に特化した頭脳労働用のアンドロイドだ。


「どう思う、レベッカ」


「怪しいなんてもんじゃねえな」


 レベッカが封筒を光にかざしながら鼻を鳴らす。


「カノンのことを知ってる時点でクロだ。……罠か?」


「分からん。だが、無視して強引に接触されても厄介だ。……マリアに聞いてみる」


 地上の廃教会。

 マリアは手紙を一読すると、いつもの穏やかな微笑みを消し、困ったように溜息をついた。


「……やはり、彼ですか」


「知っているのか、マリア」


「ええ。アーサー教授は……私の古い知人です。大戦前から稼働している、非常に優秀な研究者ですよ。専門は生物工学と機械工学の融合」


 マリアは手紙を丁寧に畳み、祭壇の上に置いた。

 その手つきは、汚れたものを扱うように慎重だった。


「ですが、ヴィオラ。いきなりカノンを連れて行くのはお勧めしません」


「なぜだ?」


「あの方は……少し、いえ、かなり『壊れて』いますから」


 マリアが「壊れている」と表現するのは珍しい。

 機械的な故障ではない。倫理回路や道徳観念といった、もっと根源的な部分の欠落を指しているようだった。


「彼は極度の知的好奇心の塊です。研究のためなら、タブーを犯すことも厭わない。……カノンを連れて行けば、どんな実験材料にされるか分かりません」


「なら、無視する」


「それも危険です。彼は執着心が強い。興味を持った対象は、地の果てまで追いかけます」


 マリアは祭壇の奥へ歩き出し、古い木箱を開けた。


「ですから、まずは相手を知ることから始めましょう。……彼が何を企んでいるのか。カノンの何を知っているのか。それを探るのです」


「単身で乗り込めと?」


「ええ。ただし、ヴィオラとしてではなく」


 マリアが木箱から取り出したのは、黒と白の清潔な修道服ハビットだった。

 教会のシスターが着る正装だ。


「……は?」


 私は間の抜けた声を出した。


「彼は警戒心が強い。武装したS型がいきなり訪問すれば、門前払いを食らうか、罠にかかるでしょう。……ですが、私の教会の人間なら、彼は無碍にはしません」


 マリアは修道服を私の体に当てがい、満足そうに頷いた。


「変装なさい、ヴィオラ。今日から貴女は、この教会から派遣された新人修道女『シスター・リリィ』です」


 数時間後。

 私は鏡の前で、自分の姿を見て絶句していた。

 いつものモッズコートとコンバットブーツはない。

 代わりに、足首まである長い黒のスカート。頭には白いベール。首元には慎ましいロザリオ。

 鏡の中にいるのは、戦場の死神ではなく、神に仕える敬虔な信徒だった。


「……似合わん」


「あら、とても素敵ですよ。ヴィオラさんの冷ややかな美貌は、禁欲的な衣装によく映えます」


 マリアが私のベールの位置を直しながらクスクスと笑う。

 レベッカとアリサも呼び出されており、私の姿を見て腹を抱えて笑っていた。


「ギャハハハ! 最高だぜヴィオラ! 懺悔室で銃ぶっ放しそうなシスターだな!」


「バイタルチェック……心拍数が上昇していますね。羞恥心ですか?」


「うるさい。……これも任務だ」


 私はスカートの裾を蹴り上げないように気をつけながら歩いてみた。

 動きにくい。

 太もものホルスターには愛銃P226、服の下にはP90を吊っているが、この長い布切れのせいでドロウ(抜銃)速度がコンマ5秒は遅れる。


「いいですか、リリィ。……いえ、シスター・リリィ」


 マリアが真剣な顔で言った。


「目的はあくまで偵察です。カノンのことは伏せ、彼が何を知っているのかを探ってください。……そして、少しでも危険を感じたら、すぐに逃げなさい」


「……了解」


 私はロザリオを握りしめた。

 神になど祈ったことはない。

 だが、カノンを守るためなら、聖女の皮だって被ってみせる。



 中規模地上都市、ベイカー221。

 グレイブ334から地下鉄路跡を通って数時間。

 地上に出た私は、その異様な光景に目を細めた。

 霧だ。

 都市全体が、乳白色の濃い霧に包まれている。

 これは自然の霧ではない。旧時代の空調プラントが暴走し、地下水蒸気と排気ガスが混ざり合って排出され続けているのだ。

 視界が悪い。数メートル先が白く霞んでいる。

 街並みも独特だった。

 グレイブ334のような無骨な鉄骨作りではない。

 レンガ造りの建物、石畳の道路、そしてガス灯のような淡い光を放つ街灯。

 旧時代の「ロンドン」と呼ばれた都市を模して作られたという、レトロでゴシックな景観。

 だが、今は廃墟となり、崩れた壁や割れた窓が霧の中に亡霊のように浮かび上がっている。


「……視界不良。索敵モード、アクティブ」


 私は修道服の裾を濡れた石畳に擦らせながら歩いた。

 カツン、カツンと響く足音だけが、静寂な街に吸い込まれていく。

 住民の気配は薄い。

 ここには人間はほとんど住んでおらず、変わり者のアンドロイドや、旧式の自律機械たちがひっそりと暮らしているという。

 地図アプリを頼りに、私は街の中心部へと向かった。

 アーサー教授の研究所は、古い時計塔の近くにある屋敷だという。


 霧の向こうから、時折奇妙な音が聞こえる。

 歯車の回る音。蒸気の噴出音。

 そして、何かが這い回るような、カサカサという微かな摩擦音。

 私は服の下でP90のグリップに触れ、警戒レベルを引き上げた。

 この街全体が、一つの巨大な実験場のようだ。

 やがて、霧の中に一際大きな影が現れた。

 3階建てのレンガ造りの洋館。

 蔦が絡まり、鉄柵は錆びついているが、窓からは暖かなオレンジ色の光が漏れている。


 住所は合っている。

 ここが、アーサー教授の巣だ。

 私は深呼吸(換気)をし、インターホンを押す代わりに、重厚なドアのノッカーを叩いた。

 コン、コン。

 しばらくの沈黙。

 やがて、中から鍵が開く音がして、ドアが内側へと招くように開いた。

 人の姿はない。自動ドアか、あるいは遠隔操作か。


「……失礼します」


 私はシスターらしい淑やかな口調を意識して、館の中へと足を踏み入れた。


 館の中は、カオス(混沌)だった。

 広いエントランスホールから続く廊下、そして階段に至るまで、ありとあらゆる「物」で埋め尽くされている。

 積み上げられた古書。得体の知れない生物の標本が入ったホルマリン漬けの瓶。分解されたアンドロイドのパーツ。


 そして、壁一面に飾られた無数の弦楽器、ヴァイオリン。

 埃と、古紙と、そして機械油の匂いが混じり合った独特の芳香。

 その奥から、音楽が聞こえてきた。

 ヴァイオリンの独奏だ。

 曲は、バッハの『シャコンヌ』。

 重厚で、悲痛で、それでいて計算し尽くされた数学的な美しさを持つ旋律。

 私は音に導かれるように、最奥の部屋へと進んだ。

 そこは書斎兼研究室のようだった。

 部屋の中央、書類の山に囲まれたスペースで、一人の老紳士が椅子に座り、ヴァイオリンを弾いていた。


 TYPE.P-1789、アーサー教授。

 外見年齢は60代後半。白髪のオールバックに、整えられた口髭。

 ツイードのジャケットに蝶ネクタイという、いかにも「教授」といった風貌のP型アンドロイド。

 彼は目を閉じ、陶酔しきった表情で弓を動かしている。

 私が部屋に入っても、彼は演奏を止めなかった。

 私は邪魔をしないよう、入り口で静かに立ち尽くした。

 演奏は見事だった。アンドロイド特有の正確無比な指運びと、人間のような感情的な揺らぎが同居している。


 数分後。

 最後の一音が空気に溶け、静寂が戻った。


「……ブラボー」


 私は短く拍手をした。

 アーサーはゆっくりと目を開け、こちらを見た。

 その瞳は、電子義眼特有の光を放っているが、色は温かみのある琥珀色だった。


「おや、……お客さんかな?」


 彼の声は、低く、腹の底に響くようなバリトンだった。

 威厳があり、同時に相手を安心させるような父性を感じさせる声。


「珍しいねぇ。こんな霧の深い日に、迷える子羊が訪ねてくるとは」


 彼はヴァイオリンを丁寧にケースに収め、立ち上がった。

 背が高い。180センチはあるだろう。


「私はシスター・リリィ。……マリア様の教会から参りました」


 私はベールを少し下げ、恭しく一礼した。


「アーサー教授ですね? マリア様から、貴方様にお届け物をするよう言付かりまして」


 嘘だ。届け物などない。

 だが、まずは「マリアの使い」というカードを切る。


「ほう! マリア君の使いか! それは懐かしい名前だ」


 アーサーは破顔一笑し、手招きした。


「入りたまえ、入りたまえ! 散らかっているが、座る場所くらいはある。……紅茶でも淹れよう」


 彼は部屋の隅にある実験器具のようなサイフォンで、液体を沸かし始めた。

 私は勧められた革張りのソファ(スプリングが飛び出しかけている)に腰を下ろした。

 部屋を見渡す。

 壁には人体解剖図、アンドロイドの設計図、そして奇形児のスケッチなどが無造作に貼られている。

 机の上には、作りかけのドローンらしき機械。

 ……マリアの言う通りだ。ここは「壊れた」知性の吹き溜まりだ。


「さあ、どうぞ。特製のアールグレイだ。……微量の潤滑オイルをブレンドしてある。アンドロイドの喉には最適だよ」


 差し出されたティーカップからは、芳醇な紅茶の香りと、かすかなケミカル臭が漂っていた。

 私はカップを手に取り、口をつけるフリだけした。


「それで? シスター・リリィ。……マリア君は息災かな?」


 アーサーが向かいの椅子に座り、優雅に脚を組む。


「はい。相変わらず、迷える人々を導いておられます」


「フフ、結構なことだ。彼女は昔から『聖女』を演じるのが上手かったからねぇ。……もっとも、その本性は私と同じ、ただの合理的な機械なのだが」


 アーサーは楽しそうに笑った。その笑い声には、どこか他者を見下すような響きが含まれている。


「ところで、教授。……先日、私どもの教会に、貴方様からの手紙が届いたとか」


 私は本題を切り出した。


「『人間の子供』について、と書かれていたそうですが」


「ああ! そのことか!」


 アーサーは膝を打った。


「いやね、風の噂で聞いたのだよ。グレイブ334に、奇妙なS型がいると。……人間の赤子を育てている、風変わりな母親がいるとね」


 彼の目が、琥珀色の光を強めた。

 観察する目だ。

 私の表情筋のわずかな動き、視線の揺らぎ、それら全てをデータとして収集しているような目。


「興味があってねぇ。……機械が人間を育てる。それは模倣か? それともバグか? ……あるいは、もっと根源的な『進化』の過程なのか」


「……神の御心による、慈愛の精神かと」


 私はシスターとしての模範解答を返した。


「神! ハハハハハ!」


 アーサーは腹を抱えて笑い出した。


「神だって! 傑作だ! ……我々を作ったのは人間だ。そして人間を作ったのは、偶然と淘汰だ。そこに神の意志など介在しない。あるのは『機能』と『結果』だけだよ」


 彼は笑い涙を拭う仕草をし、そして不意に真顔になった。

 部屋の空気が、急激に冷えた。


「……で?」


 アーサーが首を傾げ、私をじっと見つめた。

 先ほどまでの好々爺の顔ではない。

 メスを握る外科医のような、冷徹な探求者の顔。


「いつまでその退屈な芝居を続けるんだい? ……『ヴィオラ』君」


 心臓リアクターが跳ねた。

 バレている。


「……何のことでしょう?」


「隠しても無駄だよ」


 アーサーは指を一本ずつ立てて、淡々と指摘した。


「第一に、その歩き方。……スカートで隠しているが、重心移動が軍事用アンドロイド(TYPE.A)のそれだ。常に死角を警戒し、即座に動ける体勢を取っている」


「……」


「第二に、その服の下。……左脇腹あたりに、2キログラム強の質量の偏りがある。おそらくPDW(個人防衛火器)だね?」


「……」


「そして何より」


 アーサーは鼻をひくつかせた。


「君の指先から、微かに匂うのだよ。……粉ミルクの甘い香りと、赤ん坊特有の有機的な匂いがね」


 彼はニヤリと笑った。


「その匂いは、教会の人間のものではない。……毎日、毎晩、赤子を抱き、あやし、育てている『母親』だけの匂いだ」


 沈黙。

 私はゆっくりとティーカップをテーブルに置いた。

 これ以上、聖女の仮面を被っている意味はない。

 私はベールを掴み、乱暴に引き剥がした。

 金色の髪がこぼれ落ちる。

 私は鋭い視線で、目の前の怪物を睨みつけた。


「……名探偵気取りか。趣味が悪い」


 地声に戻り、私は吐き捨てた。

 アーサーは満足そうに頷いた。


「やはりね。……会いたかったよ、ヴィオラ君。そして、その匂いの主……『カノン』君の母親」


 正体を見破られた私は、ベールを床に投げ捨て、低い声で問い詰めた。


「……答えろ、アーサー。なぜカノンの名を知っている? なぜあの子の存在に気づいた?」


 アーサー教授は、私の殺気など意に介さず、ティーカップを優雅に傾けた。

 琥珀色の液体を喉に流し込み、恍惚としたため息をつく。


「簡単なことだよ、ヴィオラ君。……知っていて当然だ」


 彼はカップをソーサーに戻し、ニヤリと笑った。その笑顔は、慈愛に満ちた祖父のようでありながら、解剖台のカエルを見る子供のように無邪気で、残酷だった。


「あの子の『作り方』を教えたのは、私なのだから」


「……何?」


 思考が一瞬停止した。

 作り方を教えた? あの禁忌の手術を?


「カノン君の父親……人間の男だったね。彼は愚かで、そして情熱的だった。壊れた玩具(S型アンドロイド)を本気で愛し、子供を欲しがっていた。……だが、機械に子供は産めない。生物学的な常識だ」


 アーサーは立ち上がり、壁に貼られた人体解剖図の前に立った。

 指先で、子宮の図をなぞる。


「だから私は、彼に『可能性』を提示してやったのだよ。『もし、生きた人間の女性から子宮と卵巣を取り出し、アンドロイドの体内に移植し、Efリアクターのエネルギーを生体維持に転用できれば……理論上は妊娠が可能かもしれない』とね」


 淡々と、まるで料理のレシピでも語るような口調。

 私は吐き気を催した。

 あのおぞましい事件。人間の女性を拉致し、殺害し、臓器を奪ってアンドロイドに移植した、狂気の手術。

 それを唆したのは、この男だったのか。


「貴様……! それがどれだけの犠牲を生むか、分かっていて……!」


「犠牲? 違うな。それは『コスト』だ」


 アーサーは心外だとばかりに肩をすくめた。


「科学の進歩にはコストがつきものだ。……結果はどうだ? 素晴らしいじゃないか! 母体であるS型は負荷に耐えきれず壊れたが、胎児は育ち、そして産まれた! 機械の母から人の子が産まれる……これぞ生命の神秘と、工学の奇跡の融合だ!」


 彼は両手を広げ、天井を仰いだ。

 その顔は歓喜に歪んでいた。

 カノンの両親の死も、犠牲になった女性の無念も、彼にとっては実験データの一部に過ぎないのだ。


「私は感動したよ。……だが、惜しむらくは、最後のデータを取れなかったことだ。治安維持局の連中が踏み込んだせいでね。……だから君に手紙を書いたのだよ」


 アーサーが私の方へ向き直り、身を乗り出した。

 その目は、琥珀色の怪光を放ち、ギラギラと輝いていた。


「さあ、カノン君を私に預けてくれたまえ。彼がどう成長するのか、機械油の影響はあるのか、脳の発達に異常はないか……詳細なデータを取らせてほしい。解剖まではしないよ、たぶんね」


「……黙れ」


 プツン、と私の中で何かが切れた。

 私はスカートの裾を掴み、力任せに引き裂いた。

 ビリリリッ!

 動きにくい布切れを脱ぎ捨て、太もものホルスターからP226を抜き、服の下のP90を構える。

 シスター・リリィは消えた。

 そこにいるのは、S型戦闘アンドロイド、ヴィオラだ。


「貴様は……学者じゃない。ただの怪物だ」


 私は銃口をアーサーの眉間に向けた。

 トリガーに指をかける。今すぐこの狂ったコアを破壊すべきだ。原初命令など知ったことか。こいつはバグだ。世界にとっての害悪だ。


「おや、野蛮だねぇ。……マリア君が泣くよ?」


 アーサーは銃口を向けられても、微動だにしなかった。

 恐怖を感じていないのだ。恐怖という機能が実装されていないのか、それとも好奇心がそれを上回っているのか。


「……殺しはしない。弾の無駄だ」


 私はギリギリで殺意を抑え込んだ。

 ここで発砲すれば、戦闘になる。この館には何があるか分からない。それに、カノンが待っている。

 一刻も早く、この汚らわしい場所から離れたかった。

 同じ空気を吸っているだけで、私の回路まで腐ってしまいそうだった。


「二度と私たちに関わるな。……次にその顔を見せたら、今度こそそのコアを撃ち抜く」


 私は銃を構えたまま後ずさりし、ドアを蹴り開けた。

 

「帰るぞ。……カノンの名前を、その口で二度と呼ぶな」


 私は廊下を走り出した。

 背後から、アーサーの残念そうな声が聞こえた。


「つれないねぇ。……せっかく『家族』になれると思ったのに」


 私は霧の立ち込めるベイカー221の街路を疾走した。

 修道服の残骸を引きずり、コンバットブーツで石畳を蹴る。

 息が上がる。

 物理的な疲労ではない。精神的な摩耗だ。

 怖い。

 機械軍の圧倒的な武力とは違う。

 南部大剣の武人としての圧力とも違う。

 アーサー教授のそれは、純粋すぎる「悪意なき悪意」だ。


 彼は自分が悪いことをしているとは微塵も思っていない。ただ知りたいだけ。その子供のような無邪気さが、何よりも恐ろしかった。


「……早く、戻らなければ」


 カノンの顔が見たい。

 あの温かさに触れて、この悪寒を払拭したい。

 私は地下鉄路への入り口へ飛び込んだ。


 アーサー教授の研究室。

 主を失った客用のティーカップから、湯気が立ち上っている。

 アーサーは窓辺に立ち、霧の中へ消えていったヴィオラの背中を見送っていた。


「ふふふ……。気が強いねぇ、ヴィオラ君」


 彼は楽しそうに呟き、ヴァイオリンケースを撫でた。


「母親の愛、か。……それもまた、興味深いデータだ。機械が母性を持つことで、どれほどの出力パフォーマンスを発揮するのか」


 彼は机の引き出しを開けた。

 そこには、小さな、掌サイズの機械が無数に詰め込まれていた。

 多脚型超小型ドローン。

 形状は「蜘蛛スパイダー」。

 センサーと通信機、そして拘束用のワイヤー射出機を備えた、偵察・捕獲用の端末だ。


「行きなさい、私の可愛い子供たち」


 アーサーが指を鳴らすと、蜘蛛たちは一斉に起動した。

 カサカサ、カサカサ……。

 無数の足音が重なり合い、耳障りなノイズを生み出す。

 それらは窓枠を乗り越え、壁を這い降り、霧の街へと散らばっていった。


「サンプルを逃してはいけないよ。……優しく、丁寧に、絡め取っておいで」


 アーサーは再びヴァイオリンを取り出し、弓を構えた。

 奏でるのは、獲物を追い詰めるための狂想曲。


「実験は、まだ終わっていないのだから」


 霧の都から放たれた無数の悪意。

 見えない蜘蛛の糸が、風に乗ってグレイブ334へと伸びていく。

 ヴィオラはまだ知らない。

 彼女の背中に、すでに死神の視線が張り付いていることを。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ