第9話「心の揺れ」――
第9話「心の揺れ」
夜の歌舞伎町は、いつもより静かだった。
雨が止んで、湿った空気が街のネオンを滲ませている。赤や青や紫の光が、水たまりの上でゆらゆらと揺れていた。
私は傘を持たずに歩いた。濡れた髪が頬に張りついても、気にならなかった。からすの顔が頭から離れなかった。
昨夜、あのバーで、私は初めて心の奥を見せた。
「泣いてもいい」と言ってくれた。
あの瞬間、怖くなかった。
けれど――今日になって、胸の奥でまた別の痛みがうずいていた。
私は、からすがいないと不安になる。
連絡が少し遅れるだけで、胸がざわざわして、呼吸が浅くなる。
こんな自分が嫌いだ。
“守ってくれる誰か”に寄りかかることしかできない。
自分で立つ強さを、私はまだ持っていない。
「今日、来るかな……」
バー「Siri」の扉の前で、私はつぶやいた。
中から聞こえる笑い声。
扉を開けると、カウンターの奥でからすが誰かと話していた。
その相手は男の客。笑いながら、からすの肩に軽く触れた。
――心臓が、きゅっと痛んだ。
「ふくろう、来たんだ」
からすが気づいて、手を振る。
私は笑ってみせた。でも、唇が少し震えていた。
「うん。……雨、やんでたから」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
Siriがカウンター越しにウィンクした。
「ふくろうちゃん、いつもの?」
私は頷いて、グラスを受け取る。
けれど、味がしなかった。氷の音だけが耳に残る。
そのあと、からすはすぐに男の客を見送り、私の隣に座った。
「ごめん、待たせた」
「ううん」
「機嫌、悪い?」
「そんなことない」
笑って答えたけど、声がかすれていた。
からすは少し眉を寄せて、私の手に触れた。
「……どうしたの、今日?」
その優しい声が、逆に胸を締めつけた。
「ねえ、私、依存してるのかな」
思わず、口からこぼれた。
からすが一瞬、黙る。
「依存?」
「うん。からすがいないと落ち着かなくて……他の人と話してるの見たら、胸が痛くなる。そんなの、おかしいよね」
沈黙が流れた。
照明のオレンジ色が、からすの横顔をやわらかく照らしている。
「おかしくなんかないよ」
からすはそう言った。
「誰かを信じられるって、すごいことだと思う。ふくろうは、それができるようになっただけ」
「でも、怖い。前みたいに、裏切られたらどうしようって」
「裏切られたら、また泣けばいい。泣いたら、また立てばいい」
その言葉が、深く刺さった。
強いのに、優しい。
泣いてもいいと言ってくれる人なんて、初めてだった。
私は、グラスを見つめながら呟いた。
「からすってさ、自分のことは話さないよね」
「話すほどのこと、ないから」
「……ほんとに?」
「うん。でも、ふくろうがいると、思い出すことがある」
「どんな?」
「守れなかった人のこと」
からすの声が、少しだけ震えていた。
その瞬間、胸の奥が温かくなった。
私だけが弱いんじゃない。
からすも、何かを抱えて生きてる。
そのことが、なぜか嬉しかった。
「じゃあ、今は守ってる途中なんだね」
そう言うと、からすは小さく笑った。
「そうかもね」
「……私も、守りたい。からすのこと」
その言葉が、自然に口から出た。
恥ずかしくて顔を伏せたけど、からすは何も言わなかった。
ただ、そっと私の髪に触れた。
その手が、あたたかくて。
私はそのまま、肩にもたれた。
外の雨音がまた小さく聞こえてくる。
――依存と愛の境界線なんて、たぶん最初からなかった。
それでもいいと思った。
誰かと生きるって、きっとこういうことなんだろう。
からすの鼓動が、私の鼓動と重なって、ゆっくりと夜が更けていった。




