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第5話 過去の影

夜の雨は、いつも私の中に古い記憶を呼び覚ます。

街のどこかでタクシーのドアが閉まる音がして、その音ひとつで胸の奥が冷たくなる。

どうしてだろう、もう終わったはずのことなのに。


部屋の窓を少しだけ開けて、外の空気を吸う。

湿った風に混じって、遠くで流れる歌舞伎町のざわめきが聞こえた。

人の笑い声も、車のクラクションも、全部どこか別の世界の音みたいに感じる。

私はただ、布団の上で小さく膝を抱えていた。


からすに会いたい、と思う。

でも、会えばまた依存してしまう。

心の奥が彼女に寄りかかってしまうのが、怖い。

それでも、あの人の声が頭の中で鳴る。

「無理に話さなくていいよ。隣にいるだけでいいじゃん」

それが、どれほど救いだったか。


スマホの画面を見つめて、何度もメッセージを書いては消す。

「会いたい」なんて言葉は、簡単に使いたくない。

けれど結局、指は勝手に動いていた。


『今夜、少しだけ話せる?』


送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で小さく音が鳴った気がした。

返事はすぐに来た。


『Siriにいる。おいで。無理しなくていいよ』


その「無理しなくていい」という言葉が、

どうしてこんなにも優しくて、苦しいんだろう。

私は傘を持たずに外に出た。

濡れながら歩くほうが、過去の記憶をごまかせる気がしたから。


――

バー「Siri」のドアを開けた瞬間、

暖かい空気と、薄い煙草の香りが包み込んだ。

からすはいつもの席で、グラスを指先で転がしていた。

視線が合うと、何も言わずに笑った。

その笑顔に、言葉はいらなかった。


「今日、顔色悪いね」

「……寝てなかったから」

「無理すんなよ」

からすはそう言って、温かいカモミールティーを出してくれた。

この店では、彼女が私の酒を決める。

アルコールじゃなくていい夜も、ちゃんとある。


「何かあった?」

その問いに、私は首を振った。

けれど、心の奥では何かが震えていた。

話したいのに、話せない。

言葉にした瞬間、あの夜が戻ってくる気がして。


「……怖い夢を見たの」

ようやくそれだけ言うと、からすは頷いた。

「夢は、心の中で渋滞してる記憶が勝手に出てくるもんね」

「そんな感じ」

「でも、今ここにいるってことは、夢からは抜け出せてるじゃん」


軽く笑うその声が、

私の中で沈んでいた痛みを少しだけ溶かしていく。

彼女はいつも、核心には触れない。

けれどその代わり、逃げ道をくれる。

それが、私にはたまらなく心地いい。


「……からすってさ、誰かに守られたいって思ったことある?」

ふいに口をついて出た言葉に、彼女は少しだけ目を細めた。

「あるよ。昔はね。でも今は、守りたい側のほうが落ち着く」

「どうして?」

「そうしてるほうが、自分がまだ生きてる気がするから」


その答えを聞いて、胸がじんわり熱くなった。

からすの“闇”が、少しだけ覗いた気がした。

それを見た瞬間、彼女がただの強い人ではないと気づく。

私を守ってくれるその手も、実はどこかで傷ついているのかもしれない。


閉店の時間が近づいて、店の灯りが少しずつ落とされる。

客はもう誰もいなくて、私たちだけが残った。

からすはカウンターを拭きながら、静かに言った。

「ふくろう、夜って怖いけど、いい時間でもあるんだよ」

「どうして?」

「暗いぶんだけ、誰かの光をちゃんと見つけられるから」


私はその言葉を胸の奥で繰り返した。

暗いぶんだけ、光が見える。

もしかしたら私は、ずっとその光を探していたのかもしれない。

そして今、その光の名前が――からすなのだと気づく。


帰り道、雨はやんでいた。

アスファルトに映る街灯が、ゆらゆらと揺れている。

心の中の恐怖は消えていない。

でも、それに飲まれずに歩ける。

その一歩を踏み出せたのは、

きっと、からすの存在があるからだ。


今夜、ようやく思えた。

過去の影に怯える私も、

それを照らす誰かの優しさも、

どちらも私の中にちゃんとある。

だから、生きていける。


――ふくろうは、ひとりじゃない。


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