1話:バー「Siri」の夜
雨は細く、でも止む気配はなかった。街灯に濡れたアスファルトが光を映して、ぼんやりと揺れる。傘の骨が、風に押されて小さくきしむ。靴底が水を吸い、ぐしゃりと音を立てるたびに、私は少しだけ足を止めた。
あの夜のことを、私はいまだに覚えている。17歳の私は、男が近くにいるだけで体が硬直した。街を歩くときは、必ず逃げ道を探した。右に曲がれば暗い路地、左に曲がれば大通り……それでも、心の
第1話:バー「Siri」の夜
雨は細く、でも止む気配はなかった。街灯に濡れたアスファルトが光を映して、ぼんやりと揺れる。靴底が水を吸い、ぐしゃりと音を立てるたび、私は思わず息をのんだ。心臓も、うるさいほどに鳴っていた。
その夜、17歳の私は、男の気配を避けるためだけに街を歩いていた。信号の向こうから歩いてくる男たちを避け、角を曲がるたびに背筋を伸ばした。手のひらに汗が滲み、傘の柄が滑る。
「……ここでいいのか」
独り言を呟く声も、小さく震えた。視線を上げると、ネオンが滲む小さな扉があった。黄色い文字で『Siri』。扉の向こうは、外の雨と違う世界があることを、肌で感じた。冷たい空気が胸に絡みつく。
一歩、扉を押す。中の空気は暖かく、湿った街の匂いと違う、甘く煙るような香りが鼻をくすぐった。音も違った。外のざわめきが遠くなる代わりに、静かなジャズと、低い笑い声。誰かがグラスを置く小さな音に、心が跳ねる。
「いらっしゃい」
低く落ち着いた声が、後ろから聞こえた。振り返ると、マッチョでタンクトップのバーテンダーが微笑む。目が合った瞬間、私の体がほんの少し固まった。外の世界と同じ、強さを持つ男だ。でも、なぜか怖くはなかった。
「……えっと、はじめてで」
言葉が震えた。心臓も、喉も、全部が忙しく動いた。バーテンダーは頷き、目を細めたままバーの奥を指さす。
「座って、落ち着いて」
カウンターの奥に座る。隣には、少し年上の女の子の姿。肩までの髪が揺れて、笑みを浮かべていた。目が合った瞬間、私の体に小さな電流が走る。女の子の存在に、少しだけ安心した。男じゃない、逃げなくていい。
「名前は?」
彼女は軽く尋ねた。小さな声で、私は「ふくろう」と答える。ほんの少しの間、沈黙があった。カウンター越しに、からすは笑った。
「ふくろうか……よろしくね」
声は柔らかいけれど、目は真っ直ぐで、揺るがない。外の世界で、私はこういう目に見られたことはなかった。誰かに守られたい気持ちが、胸の奥で小さく震えた。
その夜、雨の音と、バーのジャズと、二人の呼吸が混ざった。ふくろうの心は、小さく揺れながらも、初めて“逃げなくてもいい場所”を見つけた気がした。
「……あの、友達になれる?」
小さく、でも勇気を出して言った。からすは笑い、肩を少しすくめた。
「もちろん。けど……お前、頑固そうだな」
その言葉に、私は口元を引き締めた。頑固。外の世界で身につけた盾のような言葉。でも、ここでは少しだけ、その盾を下ろせる気がした。
雨の夜の歌舞伎町。濡れたアスファルトの匂いと、バーの温かい空気が混ざる瞬間。私は初めて、恐怖だけじゃない世界を見た。外の世界の冷たさも、少し遠くに感じられた。
その夜、ふくろうは小さな一歩を踏み出した。靴底の水音と、心臓の騒ぎがまだ消えないまま、でも確かに、歩き出した。




