エピローグ
境界の灯第一部エピローグ後のお話なので、読んでいた方が状況がわかるかもしれません。
フェンリルがモフモフとして宿屋のフィオナに家族として迎えられて3年。
そして、エリオットとの奇妙な共同生活が始まり、1か月が経とうとしていた。
エリオットの目から見える人間の営みにも慣れ、ようやく落ち着くことが出来た。
宿主であるエリオットは、職場の寮の工事が終わらず、まだ宿屋で暮らしていた。
それを申し訳なく思ったのか、彼は自分から休日は宿屋の手伝いをしている。
そして、今日は宿泊者の名簿整理をしていた。
それを横目に眺めながら、フェンリルはため息を吐く。
『……フィオナはお前の職場から、下宿代は貰ってるって言ってたぞ?』
昼時を過ぎた宿屋は、遅めの昼ご飯を食べに来た数名の客しかいない。
窓から入る光が優しく名簿を照らす。
エリオットは、ページを捲りながら薄く笑った。
『……心配してくれてる?大丈夫、そこまで軟じゃないし……何もない方が落ち着かないんだ。』
あの一件の後、二人は互いを理解するよう努めたからか、声を交わさずとも意思疎通ができる様になっていた。
表立っては言わないが、それにフェンリルは喜びと安堵を感じている。
フギンが目指した場所に向かえていると、実感できるからだ。
『まぁ、お前が良いなら良いけどな。……ところでそれは何だ?』
エリオットは、劣化で少し色づいている名簿のページを捲る手を止めた。
『これ?あぁ、今まで来たお客さんの名簿だよ。フィオナのお父さんが亡くなってから、すぐにお母さんも体調が悪くなったみたいで、何年分か整理できてなかったんだ。』
ふぅん……と返事をしながら、フェンリルはふと考えた。
なんでフギンは、逃げる先にこの宿屋の方向を指し示したのか。
(……もしかしたら、あいつもここに来ていたのか?)
そう考えた途端、エリオットの抱える名簿に意識が向いた。
もしかしたら、フギンのいた痕跡があるかもしれない。
しかし、フェンリルは人間の言葉が読めない。
だからこそ、なおさら気になり始める。
(……仕方ない、エリオットには悪いが、夜になったら体を少し借りるか。ま、ほんの少しだけだ。)
定刻になった。
日が沈み始め、魔力の巡りが活発になる。
エリオットの魂は眠りにつき、その代わりフェンリルが体の主導権を得る時間だ。
この瞬間、魔族の特性である魔力の吸収が始まった。
通常であれば、それは魔法を使う時のみ使用される特性だが、フギンの作った共生の魔法は、常時発動し、効率よく回復できるスクロールを組んでいる。
それが彼の回復を後押しするのだ。
名簿を見ていたエリオットの頭は、がくんと支えを失ったように下を向く。
しかし、それはすぐに動き出し、ゆっくりと頭が上がった。
「……これだけは、何度やっても慣れねぇなぁ。」
急な体の重さをだるそうに、エリオットの腕や肩を回す。
すっかり粗野な雰囲気に変わってしまった彼の中身は、フェンリルだ。
クァ……と欠伸を一つして、頭を軽く掻く。
抱えていた名簿を試しにパラパラと捲るが、文字はやはり読めそうもない。
(そう簡単にはいかないか。……しばらくしたら、フィオナに聞こう。)
ため息を吐き、名簿を戸棚の定位置に戻す。
そろそろ食堂の方の支度が始まる頃合いだ。
(……俺でも机を拭くことくらいはできるだろ。)
そして、フェンリルは立ち上がり、フィオナの手伝いに向かった。
赤い夕陽は名簿の背表紙を照らしている。
「フィオナ、悪いんだが文字を教えてくれ。」
ようやく店が閉店した。
喧噪が静まった店内は、食器を片付ける音と外から聞こえる虫の声だけ残っている。
今日は休日だったこともあり、近隣住民の来客も多かった。
フェンリルは結局、机拭きどころか料理を運ぶ手伝いもして、少しふらついていたが、自分のやるべきことを思い出し、名簿を片手に、その足でフィオナの元へ向かった。
「モフモフ、今日はありがとう。すごく助かったよ。」
フィオナは微笑み、フェンリルに感謝した。
それにフェンリルは思わず口角が緩むが、違う違うと頭を軽く振る。
「フィオナ、この名簿の中で探している名前がある。」
「何ていう名前?」
そう言われて、フェンリルは止まった。
今更、フギンを詮索して何になる?
しかし、それよりも彼の痕跡を確かめたい気持ちが上回った。
「……フギン、だ。」
一瞬の静寂が流れた。
フィオナは驚きで目を見開く。
「……お兄ちゃん?」
「え?」
フィオナは、フェンリルに駆け寄ってしがみついた。
「その人はモフモフとどんな関係なの?!」
必死な姿にフェンリルは困惑する。
「俺の、大切な仲間……だった。」
フィオナは、その言葉に違和感を覚えた。
「……だった?」
フェンリルは、顔を一度上げて息を吐く。
声に出してしまえば、認めてしまう事になる。
そう考えた途端、何かが込み上げてきそうで、思わずフィオナから顔を背けた。
「……死んだんだ。最後に俺にここへ行く様に指示したのは、あいつだ。」
それを聞くとフィオナは、動きを止めた。
しがみついていた指の力が緩んだ。
フェンリルは、彼女にそっと顔を向ける。
フィオナは音もなく、一筋涙を流していた。
「—―彼の名前なら、探す必要なんかないよ。だってお兄ちゃんは……、フギンさんは私たちの家族なんだから。」
そう言ってフィオナは、宿屋のカウンター奥の本棚から、大切そうに一冊の分厚い本を抱えて、フェンリルの前に置いた。
「これは?」
「……辞書。フギンさんが使っていたの。」
年季が入ったそれを、フェンリルは静かに開く。
しかし、その割に綺麗な使用感のそれは使っていた者の性格がわかるようだった。
ページの途中に紙が挟んであり、そこには文字を練習したかのような跡がある。
「これは、なんて書いてあるんだ?」
フィオナに、その紙を見せる。
「えっと……、フギン――それから、フェンリル、かな。」
指でなぞりながら、それを読む。
その答えにフェンリルは、胸が詰まった。
目を細め、文字を改めて見つめると「……だろうな。」と呟いた。
人間同士の契約には紙が使われると、聞いた気がした。
おそらく代わりに名前を書けるように、練習していたのだろう。
「……フィオナ、これ、借りても良いか?」
辞書を閉じながら、フィオナに顔を向けた。
「モフモフの大切な人の物なら、貴方が持っていた方が……。」
フェンリルは首を軽く振る。
「お前にとっても大事な奴だったんだろ?あいつは。」
そう言って優しく笑う。
「だからここに置いてやってくれ、俺は借りるだけでいいんだ。」
フィオナは躊躇うように、フェンリルを見つめた。
「……ここは、あいつが人間として過ごした良い場所だったんだ。この辞書はそれを証明するものだから、ここに置いてくれ。」
フィオナは幼い頃、フギンと過ごした日々を思い出して、胸が震えた。
「……分かった。」
フェンリルをまっすぐ見つめて、フィオナは答えた。
エリオットの部屋に戻ったフェンリルは、小さな机に辞書を置いた。
月の明かりが、窓から射しこむ。
表紙に優しく手を置いた。
しっかりした革表紙は、綺麗と言っても使用感がある。
フギンが変身していた、あの人間の身体で、あの細い指で何度も開いたんだろう。
紙に練習してあった文字は、数をこなした跡があった。
彼が人と生きていきたいと願い、努力した痕跡が確かにあった。
ポタリと、辞書の表紙に涙が落ちる。
涙は止まらず、次から次へとこぼれ落ちた。
フェンリルは笑った。
涙を流しながら、静かに笑った。
「ははっ……、なんだよお前、こんなところにいたのかよ。」
彼の生きた痕跡を見つけられて嬉しい。
嬉しい筈なのに。
嬉しいと思えば思うほど、失いたくなかったと強く思った。
だが、時間は決して戻らない。
左手で顔を覆った。
背中を丸める。
「こんなところにあったのかよ……お前の、理想は。」
静かな部屋に、その呟きが響いた。




