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陰流呪剣行  作者: 佐藤遼空
六、猿
33/46

母が殺された日

 母が移香の手を引いて逃げようとする。しかしその行く手に、突然、火の手が上がった。別の方向へ逃げようとすると、その前でまた炎が上がる。移香が振り返ると、鶏の化け物は、掌を突き出していた。

かなえが懐刀を抜いた。

「母上!」

 かなえは自分の後ろに移香を押しやり、懐刀を鳥人に向けて構える。

 ふっ、と鳥の顔が笑ったような気がした。

 鳥が刀を振る。あっ、と声をあげる間もなく、母の手首が懐刀を持ったまま宙に飛んだ。かなえの膝が崩れ落ちた。


 鳥は無言のまま刀を顔の横に構え、突きの用意を見せた。母が後ろを向いて、移香の身体を抱きしめる。

 その刹那、母の頭の向うに見える鳥が、母親の背中に刀を突き込んだ。

 その刀は母の身体を貫き、移香の身体をも貫いた。口からせり上がるものを、移香は吐き出した。血であった。

 抱き合ったまま二人の身体が地面に倒れた。鳥はかなえの身に着けていた腰袋を取り上げると、その中のものを検分した。


 大きな印璽が一つ。そして後は、何の実か判らぬものが、幾つかあったようだった。

 鳥はそれに納得したらしく、翼を広げると飛び立っていった。

 倒れた二人の元に、夜の静寂が再び覆いかぶさってきた。

「移香……ごめんなさい。貴方を守れなくて…」

 かなえは口の端から血を流しながら、涙をこぼして移香を見つめた。

「は…母上……寒い…です」

 移香は急速に寒さを感じ、そう伝えた。自分の死が迫っていることを、移香ははっきりと理解した。

「貴方だけは…あなただけは……」

 かなえが胸元から何かを取り出す。その手には、先ほど見たあの実が握られていた。


 移香はもう目が霞みかけていた。かなえはその実に爪をたて、零れだした果汁を移香の口元に垂らした。移香は口に入ってくる甘い汁を、半ば無意識に呑みこんだ。

 ただの甘さを超え、甘美で陶酔的な美味を移香は夢中になって飲みこむ。急激に、獰猛と言えるほどの食欲が、移香の身体を襲った。

(この実を食べたい)

 不明瞭な意識の中で、欲望だけが恐ろしいほどに大きく膨れ上がっていく。母がその実を口に押し付けると、移香は夢中になってその果肉にかぶりついた。


    *


 目覚めた時、移香は布団に寝かされていることに気が付いた。外の様子が明るく、既に夜が明けたのだと悟った。

 実を起こしてみると、移香は清潔な着物に着替えさせられていた。枕元に自分の服と刀、漆を塗った箱が置いてある。箱を開けてみると、蜘蛛の実と鶴の実、そして三鈷杵が入れてあった。

「これは丁寧なことで」

 移香は笑いながら独り言を呟いた。

(あの時の夢をーーまた見るとは)

 移香は額に浮かぶ汗に気づいて、袖で拭った。十五年前に殺されかけた移香は、気づいた時には里の者に庇護されていた。母の遺骸に後で会い、移香は泣いた。


(あの時、母上が俺に不神実を食べさせなければ、俺は死んでいた。しかしその後、実の事を聞くことはなかった。恐らく子供では実を吸収しきれず、体外に出したところを回収されたに違いない)

 その後、引き取り手のいない他の子供たちと一緒に集められ、吉野の里からさらに分け入った陰野の里で、移香は育てられた。陰野の里では複数の大人が子供を育て、読み書きや武芸などの教育を施した。子供たちは数人で一つの組で分けられて行動していたが、移香と同じ組だったのが同い年の亜夜女と羅車だった。


 そう言っても、亜夜女も羅車も最初からの名前ではない筈だった。子供たちは形式上、仏門に入門したことになっており、それぞれの『法名』をつけられたからだった。愛洲太郎左衛門は、発見された時に母の花の香りが移っていたために『移香』と名付けられた。亜夜女と羅車がどういう経緯で名づけられたか移香も知らなかったし、移香もまた自分の事を話すこともなかった。

 子供たちは十五を越える頃になると、『お役目』のために里から姿を消すようになった。一つ年上の詞遠、牙峰、沙倶利の組の一年後、移香たちも『お役目』のために召集され、化怪流之秘儀を教えられた。

(今思えば俺たちは、まったく仏道の修行などしちゃいない。陰野の長老たちは、俺たちを暗躍させるための技だけを叩き込んだんだ)


“陰野衆のやってることは間違ってます”

 そう言った新九郎の言葉が脳裏に浮かんだ。

(じゃあ、何が間違いじゃない道だというんだ)

 移香はそれだけ思うと、起き上がって自分の着物に着替え始めた。

 着替えが終わる頃、不意に襖が開いた。

「あーーこれは失礼しました」

 見ると、色鮮やかな着物に身を包んだ、可憐な娘であった。移香は尋ねた。

「此処は何処だい? そういや、新九郎はどうした」

「盛時様は別室におられます。お呼び致しますか?」

「……ふ~ん」

 移香はもの珍しそうに娘を見ながら、感心したように息をついた。


 娘は眼をしばたくと、小首をかしげて移香に尋ねた。

「どうかなさいましたか?」

「あんたは誰だい?」

 移香の問いに、娘は丁寧に一礼して答えた。

「わたくしは細川勝元の娘、葵と申します」

「なるほど。道理で所作に品があるわけだ。その辺の女房にはない典雅さだ」

「お褒めいただき恐縮です」

「褒めたかどうかは判らないぜ」

「まあ」

 とぼけた顔をする移香に、葵は驚いたように眼を開いた。


「さて、それじゃあ新九郎と勝元殿のところに案内(あない)してもらおうか」

 葵は少し怪訝な顔をしつつも、こちらへどうぞ、と先にたって歩き出した。

 長い回廊を歩いていくと、やがて一つの部屋に到着した。促されるまま入室すると、そこには新九郎が座していた。

「移香どの、気づかれたようですね。良かった」

「おかげさんでな」

 屈託のない笑みを見せる新九郎に、移香は片眉を上げてみせた。葵はそこで下がっていった。二人きりになると、移香は腰を下ろしながら口を開いた。

「新九郎、お前は細川勝元と近しくなった、というわけか」

「お気に召しませんか?」

「召すも召さないも、お前の好きにするがいいさ」

 そう言って目の前にあった茶菓子に手を伸ばそうとする移香を見て、新九郎は微笑んだ。


「移香どのを連れてから、三日経っております」

「な! ……そうかい」

 移香は努めて平静を装うと、茶菓子を口に放り込んだ。

「やはり気づいてませんでしたか。目を覚まさない移香どのに毒消しを飲ませ治療なさってくれたのは、勝元様なのですよ。勝元様はご自分で医術書も書かれたことのある医者でもあるのです」

 新九郎の言葉を聞きながら、移香は茶菓子を食べその後に茶を飲み下した。

「へえ、そうかい」

「ーー失礼するよ」

 その時襖が開いて、一人の男が入ってきた。

 背はすらりと高く細身で、整った顔立ちは理知的であった。着ているものはさりげなく上質のもので、所作に品と落ち着きがあった。男の登場に、新九郎が頭を下げた。

 細川勝元であった。


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