陰野の里
南朝の拠点吉野。真言宗の本山高野山。修験道の聖地熊野。その三点を結んだ三角形の中心部にある釈迦岳の山奥に、陰野衆の里がある。
移香は伯耆の国から不神実を持ち帰り、陰野の里にたどり着こうとしていた。
「ーー戻ったのか、移香」
密林の奥からかけられた声に、移香は苦笑気味に口元を歪ませた。
「俺が気配に気づかないとはな。さらに身軽になったんじゃないのか、亜夜女」
視線を上に向けると、樹上に一人の女の姿があった。
といっても、女の姿は山人のなり(・・)で、目つきも鋭く、声が細くなければそれとは判らないかもしれない。だがよく見ればその顔は、表情の険しさはあるものの、整った面立ちと可憐な唇を持つ娘のものであった。
「お前が最後だ、移香。もう羅車も帰ってきている」
亜夜女と呼ばれた女は木から飛び降りると、なんでもないように移香の傍へやってきた。移香は亜夜女に問うた。
「お前たち、不神実は回収できたのか?」
「わたしは二個、羅車は三個持ち帰った」
「そうか。その中に、『鳥』はあったか?」
「いやーーなかったと思うが。鳥がどうかしたのか?」
亜夜女の訝しむ顔に、移香は軽く笑ってみせた。
「飛蝗とやりあってな。空を飛ぶ奴は厄介だが、非常に便利だと思ったのさ。唐土では鳥は『無道・殺戮の神』らしいが……どれくらいの強さだろうと思ってな」
「ふん、そのうち出会うだろう。それより移香、お前は不神実を幾つ持ち帰ったのだ?」
「二個だ。飛蝗と蟹だ。蟹は非常に硬かった」
移香はそう言って笑ってみせた。亜夜女は大して面白くもない、と言わんばかりに横を向いた。
「わたしはお前の到着を総領様に知らせてくる。お前は後から来るといい。ゆるり(●●●)とな」
亜夜女はそう言うと、一瞬にして姿を消した。実際には消えたのではなく、手鉤を使って樹上に跳躍したのだということを移香は知っていたが、その動きの素早さには改めて舌を巻いた。
あれよという間に亜夜女は樹上で木から木へと飛び移り、姿を消した。
「……さて、ゆるり(●●●)と行こうかね」
移香は亜夜女に、不神実の数で嘘をついたことに苦笑しながら歩き始めた。
岩肌の見える切り立った崖の上にあがると、堅牢に作られた寺院様の建物がある。それが陰野衆の本拠、樹願院であった。
到着した移香は休む間もなく、長老たちが集まる座敷へと呼び出された。上座に三人、両脇に三人ずつ。計九人の長老勢が移香を待ち構えていた。
「移香、ご苦労じゃったな」
中央に座る老僧がねぎらいの言葉をかける。閉じたままのような細い眼の上には、白い眉毛が顔から大きくはみ出して伸びている。細い顔の一番下は、細く白い顎鬚が長く垂れさがっていた。
この老僧が陰野衆の総領、幻奘であった。
「して、成果のほどは?」
移香は不神実を二個取り出すと、眼前に置かれた盆の上に乗せた。それを左脇の一番下座にいる長老が、幻奘の元へと運ぶ。幻奘はそれを一瞥した。
「ふむ。蟹と飛蝗か。山名豊之が死んだと聞くが、鬼家であったのか?」
「はい。蟹の鬼家でした」
移香はそれから鶴の実のことは伏せ、山名豊之が蟹の実の鬼家で、飛蝗の飛丸を操っていたという話をしてきかせた。申次衆、伊勢新九郎のことも語らなかった。
「ーーなるほど、豊之が蟹にのう。強かったか?」
「はい、頑丈な奴でした。通常の武器がききません」
「ふむ、ではどうやって倒したのじゃ?」
「飛蝗の実を使って跳躍し、上空から斬り伏せました」
「ほう! そなたは飛蝗の実を使ったのですか?」
長老の一人が、急に声をあげた。
それは右脇の一番上座にいる長老で、総髪姿の最も若く見える長老だった。その身を乗り出して尋ねてきた長老に、移香は答えた。
「はい、蓮堂様。飛蝗の実を使いました」
「それで、そなたの身体に異常はないか?」
「はい、今のところ」
「これは興味深い」
蓮堂と呼ばれた長老は、満足した様子で微笑した。
「そんなに興味深いことか、蓮堂?」
上座の左手に座る、いかめしい表情の僧が口を開く。蓮堂は視線を向けて答えた。
「剛基様、化怪鬼は通常、体内に一つの不神実しか取り入れられません。しかし我らが使う化怪流之秘儀ならば、何種類でもその実を使うことが可能ということ。これは一つの能力に限定されてる化怪鬼に対して、化怪貌士の方が有利といえる点になるかと思いますが」
蓮堂の説明を聞いて、納得したように長老たちが頷いた。
そこへ不意に、移香が口を開く。
「そういう事ならば、俺に飛蝗の実を預けてもらえないでしょうか」
移香の突然の申し出に、長老たちの間に戸惑う空気が流れた。それを破るように、蓮堂が口を開く。
「移香、飛蝗が気に入ったのかね?」
「蜘蛛とは異なる使い道があります。実際、蟹化怪鬼は飛蝗の力がなくては倒せなんだでしょう。今後もお役目を果たす上で、そのような事態が生じるかと考えます」
移香の答えを聞いてから、蓮堂は幻奘に目を向けた。
「どうでしょう、幻奘様。移香の申すことももっともなこと。移香に飛蝗の実を授けてみては?」
幻奘は少し考えていたが、重々しく口を開いた。
「不神実の研究を任せておるその方が言うのじゃ。よかろう、移香に任せるがよい」
「有難うございます」
蓮堂と移香は同時に頭を下げた。
下座の長老が不神実を持ってくるのを、移香は礼をして受け取った。
「では次の段じゃ。亜夜女と羅車を呼んでまいれ」
そう口にした幻奘の眼が、じっとこちらを凝視しているのを移香は感じていた。
亜夜女に続いて一人の若者が入室してきた。百姓の装いに身を包んでいるが露わになった大腿は異常に発達している。髪を後ろで束ねているが、顔の両端を覆う長い前髪は鋭い目つきを隠しきれていなかった。
その若者ーー羅車と亜夜女は、移香の両隣りに分かれて座った。
「山名宗全が我らを出し抜き、小倉宮を京へ連れ出したのは知っておろうな」
幻奘の言葉に三人は頷いた。
文明三年(一四七一)八月、山名宗全は南朝後胤である小倉宮皇子を自称する人物を西軍陣営において擁立した。これで京において東西陣営双方に、それぞれの将軍候補と天子が登場したのである。
事の歴史的経緯は根深い。そもそも三代将軍足利義満が、明徳の和約(一三九二)と呼ばれた南北の講和がなした段階では、皇位の継承は北朝(持明院統)と南朝(大覚寺統)から、交互に継承者を出す『両統迭立』を実行する約束であった。しかしこの和約自体が、義満が北朝側に了解をとってなした約束でないために、北朝側はこれを全く無視して自系統から続けて皇位継承者を擁立してきた。
これに対する鬱積した不満が爆発したのが、嘉吉三年(一四四三)に起きた『禁闕の変』と呼ばれた事件である。六代将軍足利義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)の後、即位した七代将軍義勝が僅か九歳で死去。八代将軍に十三歳の義政が即位したが、その混乱の最中、事件は起きた。南朝の後胤である通蔵主・金蔵主の兄弟と、日野有光や楠正秀らが共謀し、後花園天皇の暗殺を企てたのである。
暗殺は失敗したが一味は神器を奪い比叡山にたてこもる。乱は結局、鎮圧されたが、神器のうち神璽だけは持ちさられ、吉野の南朝によって保管されていた。
しかしその南朝を襲撃し神璽を奪い去る事件が長禄元年(一四五七)に起きる。『長禄の変』と呼ばれるこの事件は、南朝の後胤である自天王と忠義王の兄弟を殺害し、神璽を奪還することに成功した事変であった。
以来、南朝には南朝側には正統な後胤も神器もない、と思われていた。
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